2022.9.4 主日礼拝「神の知恵と世の学問」 ダニエル書2章1〜23節「 神の知恵と世の学問」

 

朝夕に秋の気配が色濃くなりました。コロナ禍でお盆の出入りも最小限。守られて普段の生活に戻ります。メッセージは旧約聖書から、他国に捕虜として生きたが主の教えを学んで信じ続け、試練に打ち勝ち、そのことゆえに王様に信頼され高い位を与えられた気高い人物、ダニエルのお話です。(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師

おはようございます。9月の最初の聖日です。それぞれの一週間を過ごし、再び、共に集まって、賛美と祈りと御言葉の時をもたせていただいています。オンライン出席のみなさまも一緒にお迎えできますこと幸いです。

 先日、ある方と話していて、娘が通っている幼稚園のホームカミングデーの話が出ました。夏休みの最後に、幼稚園の卒業生たちが一同に会する日があったのだそうです。王寺教会はホームカミングデーというものが特別にあるわけではないのですが、こうしてオンライ配信をしていますと、王寺教会にゆかりのある方々も、時々オンライン礼拝を覗きに来てくださっているのではないかと思ったりいたします。私は18歳まで生まれ育った七尾教会におりましたが、その後は進学や仕事で色んな場所を転々といたしました。今までの引っ越し回数は県を越えたものだけでも12回以上です。それだけ色々と移動し、その度に礼拝出席教会も変わったわけですが、七尾教会はどうしているかなと度々思ったものです。今のようにオンライン配信はありませんから、思いを寄せるだけでしたけれども。今は良い時代になったと思います。オンライン・ホームカミングはいつでも歓迎しておりますし、会堂にも機会があればいつでもいらしてください。
 とはいえ、それぞれが住んでいる場所で、主の弟子たちと集まることは大切なことです。あなたがその町に住んでいるのは、主がそこに置いてくださっているからです。またあなたと同じように、同じ地域に置かれている兄弟姉妹がいます。特別な事情がない限り、あなたの町(礼拝に通える範囲)の兄弟姉妹と共に集い、礼拝し、主を証ししていくことは、大切なことです。時々、故郷を思い出し励ましをいただいて、またそれぞれの場所にて、主が帰ってこられるまで主を証ししましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。ダニエル書2:1-23(1507ページ)【聖書朗読】
 
 バビロン捕囚からエルサレム帰還の時代に、聖書の書名として登場する主な人物はエズラ、ネヘミヤ、ダニエル、エステルです。エズラとネヘミヤはエルサレムに帰った人々と共にいました。一方でダニエルとエステルは外国の地で生きた人々と共にいました。これまでエルサレムに帰った人々の話をしてきましたので、外国の地で信仰を守った人々について見てから、イエス様の時代に移っていきたいと思います。
 ダニエルは南ユダ王国からバビロンに連れてこられた民の中にいました。彼はユダ族で王族か貴族の出身でした。彼は3人の同胞と共に、バビロンで現地の学問を教えられました。当時、彼らは少年であったといいますから、瞬く間に外国の学問を身につけていったことだろうと思います。エルサレムに帰った人々は、彼らなりの困難がありましたが、ダニエルのようにバビロンに住み、そこで学問を教えられるということも信仰の試練でした。少し想像してみていただきたいと思います。エルサレムには神殿を再建するために志願してきたユダヤ人が集まってきています。そこでは敵からの妨害や新しい土地での生活の困難がありました。彼らは預言者の励ましがなければ神殿を完成させることができなったでしょう。一方でダニエルたちは食べ物も学問も与えられて生活をしています。日々を生き抜くための困難はそれほど大きくはありません。しかし外国人の只中に住んでいて、王の宮廷でユダヤ人は4人だけです。彼らは若く、当時の世界一の帝国で学問と生活様式を学んでいきました。そうすると、故郷で学んできたことの上に、世界一の学問が乗っていくわけですから、どんどん新しいことに染まっていく可能性があったのです。しかし、ダニエルは驚くべきことをしています。外国の学問に飲まれてしまうのではなく、幼い頃から教えられてきた主の教えをしっかりと保ち続けたのです。
 ある時、バビロニア帝国の皇帝ネブカドネツァルは夢を見ました。とても心騒ぐ夢だったので、自分の国の将来と関係があるに違いないと思い、夜も眠れなかったのです。当時のバビロンの学者たちは星を見ながら夢を解き明かしていましたので、確立された技術をもっていました。ところが、王はどんな夢だったかも教えないで、その夢がどんなものだったか言った上で、意味を解き明かせと言ったのです。そこまではバビロンの学者たちにも無理な話でした。その後、先程朗読したように話は進んでいき、ダニエルが夢を言い当てた上で、その解き明かしをしたことがその後に書かれています。ダニエルはバビロンの学者たちが何もできなかったことを聞きました。ダニエル自身もどうして良いかすぐには分からなかったのです。しかし彼は、天の神である主には答えが出せると知っていました。ユダヤ人の同僚の3人と一緒に祈り、主のあわれみを求めました。
 昔を振り返ると、ダニエルの故郷はバビロンに滅ぼされていました。遺跡から発掘されたバビロンの書物には、「バビロンの神マルドゥクがユダヤ人のヤハウエを打ち負かした」と書かれていたそうです。人々から見下され、事実、母国は破壊され、自分たちは捕囚の民となってしまっています。「ユダヤ人はもう滅びたのだ。あれはもう昔のこと。もう終わったことだ」と考えてもおかしくなかったと思います。しかしその現実を目の前にしてもなお、ダニエルたちは主の教えがバビロンの学者たちに勝ると確信していたのでした。そして、それはダニエルたちだけではありません。数百年後のイエス様の時代にもユダヤ人は主への信仰を保っていました。バビロンの神マルドゥクが完全に忘れ去られてしまう時代にも、主の民は残り続けていました。それは彼らの信仰が非常に堅かったというよりも、主がすべての上におられることを明らかに知ったということです。主のあわれみを求めた祈りは答えられ、ダニエルはその夢を知りました。ダニエルは言いました。《神の御名はほむべきかな。とこしえからとこしえまで。知恵と力は神のもの。(20節)》
 ダニエルたちの身は、皇帝の意のままでした。ある時にはライオンの穴に投げ込まれ、ある時には燃える火の炉に投げ込まれました。エルサレム帰った人々は周りの民から苦しめられましたが、ペルシャの王に訴えて身を守ることができました。また彼らは武装して、一致団結して自分たちを守ったのです。一方で、バビロンにいたダニエルたちには、そのようにはできませんでした。また別の苦難があったわけです。しかしダニエルたちは主に仕えることをやめたりしませんでした。主に身を委ねて、主によって守られました。それは証となり、バビロン皇帝に《あなたがたの神こそ、神々の中の神、王たちの主、また秘密を明らかにする方であるに違いない》と言わしめたのでした。
 またダニエルの働きは主の証だけに留まりませんでした。やがて王に、主の知恵を勧告するまでになります。ダニエルはネブカドネツァル王にこう言いました。《王よ、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、また貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。(4:27)》正しい行い、また貧しい者をあわれむとは、本来の王様の仕事です。「自分の利益ばかりを追い求めず、王の務めを行うべきです。そうすればあなたは王で居続けることができます」と勧告したのです。地の塩として働きと言えるでしょう。
 さて、この時代のユダヤ人はエルサレム周辺に集まっている人と外国に散らばっている人がいました。エルサレムにはエルサレムの、外国には外国の状況がありました。エルサレムでは敵の攻撃がありましたが、ペルシャのサポートがありました。ペルシャの皇帝はエルサレムをユダヤ人が治め、主の律法と王の法律で人々が統治されていることが良いと思えたのでした。そこがバビロンから遠く離れた土地であるからかもしれません。とにかく帝国政府に歯向かわないで、人々が平和に暮らしていたら良い。少し周辺との争いがあって、互いに力を消耗しあっていたほうが助かると考えていたかもしれません。一方で首都バビロンではカルデア人の思う通りに統治されていなければなりません。捕囚の民として連れてこられた人々はバビロンの学問を学び、その生活様式に合わせていくように求められるのです。
 集まると散らばる。これは教会にとってもキーワードになっています。私たちは集まる時と散らばる時があり、一週間ごとに繰り返しています。兄弟姉妹と共に集まっている時と互いに散らばっている時では、私たちの置かれている状況は違っているのではないでしょうか。まるでエルサレムとバビロンを行き来しているかのようです。
 聖日ごとに集まる時、私たちは兄弟姉妹と共に過ごします。ここで神の宮、キリストのからだ、教会を建てあげています。ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの働き、またハガイやゼカリヤの預言と重なるところがあります。私たちは主のことばである聖書を土台に据えて、全てのことを行っていきます。主だけを恐れる人たちによって働きは行われます。主も他の神々も一緒に頼っている人とは共に働けません。主の救いを思い出し、年間の行事や毎週の礼拝において証をします。エルサレムで祭司やレビ人が役割を取り戻したように、主に立てられた人が役割を果たします。時に教会の建て上げが、様々な事柄の忙しさや外からの圧力によって中断してしまうことがありますが、主は預言者を通して励ましを与えて、働きに戻るようにされます。私たちはそのようにしながら、主イエス様が復活された曜日の朝に、神の宮で礼拝しているのです。私たちの集まりを思いながら、エズラ記やネヘミヤ記を読んでみてください。
 聖日の礼拝が終わると、私たちはそれぞれの場所に散らばっていきます。かつてエレミヤはバビロンに捕え移された民に、このように主のことばを語りました。《家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。… わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。(エレミヤ29:5,7)》教会堂から離れると、平安が無くなってしまうのではありません。主が共にいてくださって、それぞれの場所で平安を得ることになります。しかしながら、ダニエルやエステルの様子を読みますと、その生活は簡単なものではありませんでした。若いダニエルには、聖書の言葉よりもバビロンの学問の方が優れているように思う道もあったでしょう。ユダヤ人であることなんかすっかり忘れて、他のカルデア人と同じようになることだって容易だったでしょう。しかし、もしそうしていたならば、彼はネブカドネツァル王の怒りによって、カルデア人の学者たち諸共、殺され、ましてや地の塩として、王に勧告することは夢のまた夢だったに違いありません。
 主の力は世においても有効だと思いますか。神の知恵は、世の色々な学問を学ぶと上書きされてしまうようなものなのでしょうか。いいえ。知恵文学の書は、世の知恵を熟知する者も、「結局は主を恐れることが全てだ」と最後に悟ると伝えています。
 また、世の中は綺麗事だけでは回らないのだと、色んなところで言われています。正直者が馬鹿を見る世界がそこら中にあります。主を認めない人々の世界では、そのようになってしまいます。しかし、生ける神である主が共におられるなら、曲がったものを真っ直ぐにしてくださるのです。私たちは主のみ業を確かめてみるべきです。世の光、地の塩として、その場にいるのですから。
 集まることと散らばること。エルサレムでの歩みとバビロンでの歩みを思い巡らせてみましょう。教会は集まっているときも、散らばっているときも教会です。置かれる状況が変わり、困難なことも違いがあります。どちらにおいても、主を信頼して、主のみ心に歩んでいきましょう。
 
お祈りいたします。《私の父祖の神よ。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力を授け、今、私たちが尋ねたことを私に明かし、王の心の内を私たちに明かしてくださいました。》
 
 天の父なる神様。あなたのみ名はほむべきかな。知恵と力はあなたのものです。
 あなたのみ言葉によって私たちに天の御国の奥義を教えてくださり、ありがとうございます。私たちは毎週それぞれの場所に出ていき、生活しています。そこにはそれぞれの学問と、生活様式があり、私たちはそれを学んでいます。それは祝福であり、同時に信仰の試練にもなることです。主の教えを、ここでは関係のないもの、役に立たないもの、終わったもの、最先端の学問に劣るものと思ってしまう誘惑があるからです。私たちは集まる1日よりも長く、散らばる6日を過ごしています。どうかダニエルやエステルに働かれた主から、よく学ぶことができますように助けてください。
 神の知恵と力を、あなたの御心に従って、私たちに与えてください。世の知恵が答えることができない、無茶な問いにも、あなたは揺るがされることがないことを明らかにし、人々がみ名をあがめるようにしてください。
 またあなたは私たちに地の塩となる使命を与えておられます。王たちが正しい行いをし、貧しい者を助けるように勧告する働きです。それぞれの場に置かれる私たちを今週も支え、あなたの聖なる御業のために用いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

               午後には初めての試み、先生を囲んで学ぶ会です。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages