2022.09.18 謝恩日聖日礼拝「老いを考える」詩篇92篇12~15 節



今朝は敬老の日にちなんだ謝恩日礼拝です。筆者は、いま祝われるかどうか微妙な年齢にいるのですが、和菓子店で店員さんか近づいてきてニコニコしながら「気持ちです!」と、祝菓子をひとつ渡された時は嬉しくもありましたが、少し複雑。しかし、ここまで神様の支えの中を歩んできたことを振り返れば、やはりしみじみと感謝の心が広がって参ります。今日は歳を重ねたことによる弱さと哀しさを覚える世代の人たちの心を励まし、勇気を与えて続けて下さるメッセージでした。壁の飾りはイスラエルの三大祭りの一つ、秋に行われる収穫祭でもある仮庵の祭を模したものです。(Re)

 [礼拝説教]中尾敬一牧師

おはようございます。今年も謝恩日聖日礼拝を迎えております。これまでご奉仕に励んでくださった引退牧師を覚えて主に感謝する時、また群れのシニア世代の兄弟姉妹の祝福を祈り、感謝する礼拝の時です。

 会堂の壁の飾りですが、今日から新しいものに入れ替えられています。10月には律法に定められた仮庵の祭りがありますので、仮庵の祭りを表したものになっています。仮庵とは「仮の住まい」という意味です。古代イスラエル人が出エジプトをして、約束の地に入るまでに、荒野でテント住まいをしながら移動していたことを記念しています。
 主が古代イスラエル人に荒野での仮住まいをさせたのは、私たち人類が約束の地に入る前に、仮住まいをしながらそこへ向かっていることを目に見えるようにするためでした。すなわち、私たちの今の状態は、約束の地に至るまでの仮の住まいでの生活なのです。パウロはこのように言っています。《たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。(IIコリント5:1-2)》
 40年間の荒野で古代イスラエル人は色んなことを経験しました。食べ物がなく喉が渇き、アマレクから攻撃され、約束の地に入ることに失敗しました。彼らの口から出たのは神への不平不満、また飽くことのない貪りでした。しかし彼らは主の愛と忍耐を知ったのです。「それにもかかわらず」愛され、「それにもかかわらず」守られ、「それにもかかわらず」癒やされ、「それにもかかわらず」与えられました。私たちが自分の人生で見出すこともこれと同じです。
 主は目に見えない事柄を人が時間をかけて知っていくようにされました。この聖書自体、多くの時代をかけて記されたものです。主のことばが本当であると証しする方がこんなにもいらっしゃることは教会の宝です。
 今日の聖書箇所をお開きください。詩篇92:12-15(1032ページ)【聖書朗読】
 
 今日は「老いを考える」と大層な題をつけてしまいました。教会で一番の若輩者が「老いを考える」というのですから、今日はへそで茶が沸いてしまうかもしれません。もちろん、この私が老いを考えても、全然身近なことではないのですから、絞っても雫も出てこないと思います。しかし、聖書はどうでしょうか。少なくとも聖書は、ここにいる誰よりも先に生まれ、今日まであらゆる批判に耐えて残ってきたものです。
 老いるといっても、最近は人生100年時代になってきまして、老いる年齢が昔よりもかなり上がっていると言えるでしょう。あるお医者さんは「かつての70代はそれなりによぼよぼしていましたが、いまの70代はまだまだ元気な人が多く、10歳くらい若返ったような印象です。」と語っていました。そういうわけで、王寺教会には若者がたくさんいらっしゃいます。昔なら、すでに老いを経験し、その中におられただろう方々も、これから老いを迎えるということになります。どのように老いを迎えたら良いのでしょうか。ともにみ言葉から、老いを考えてみましょう。
 老いるということにはいくつかの側面があります。からだが衰えること、友人や家族を亡くし孤独になっていくこと、社会の役割を失っていくことなどがあるでしょう。こういったことから、健康で年を重ねることには積極的な捉え方もありますが、一般的には健康寿命を超えて老いていくことは良くないことと考えられています。しかし、主は老いを悪いこととはおっしゃっていません。むしろ聖書を読むと、《白髪は栄えの冠》とありますし、主に従って歩んだアブラハム、イサク、ヨブたちは《年老いて満ち足りた生涯であった》と記されています。老いは悪いことではありません。なぜなら、人は神の恵みによって成長するからです。《たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(IIコリント4:16)》とパウロが語ったのも、神の恵みによります。実に、主が高齢者の価値を落とされたことはないのです。
 さて、詩篇92篇を開きましたが、14節には《彼らは年老いてもなお 実を実らせ 青々と生い茂ります》と歌われています。とても威勢の良い言葉ですが、果たして、からだが衰え、孤独になり、役割を手放していく中で、一体何をもって「実を実らせ、青々と生い茂る」と言えるのでしょうか。どうやって「主は正しい方。わが岩。主には偽りはありません」と告白するようになるのでしょうか。
 まず、からだが衰えることについて考えてみましょう。年を取って、若い頃にできたことができなくなってしまった人たちが聖書の中にも登場しています。アブラハムの妻サラやマリヤの親類のエリサベツは子供がなく、年を取って、子供を身ごもる力を失ってしまいました。古代イスラエル人の文化では、子供を身ごもるのは神の祝福、子供がないのは神の呪いと思われていました。子供がなければ、女性は人しれない所で罪を犯したに違いないと噂されるような環境でした。本当に辛かったに違いありません。最初は希望があったのでしょう。必死に主に祈ったでしょう。しかしそれが不可能だと認めざるを得ない日がついに来てしまいました。それから何年も経ち、子供を身ごもるなんて聞いて笑ってしまう年になって、主は彼女らに「神には不可能なことはない」と告げられました。そうして彼女らは神の業によって子を産んだのです。
 老いてからだが衰えれば実を実らせることがないと人々は考えています。人の努力の成果によって実が実ると思い違いをしているからです。主はそのようにおっしゃったでしょうか。主は預言者エゼキエルを通して次のように語られました。《【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしは【主】である。わたしが語る。… わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。野の木は実を実らせ、地は産物を生じ、彼らは心安らかに自分たちの土地にいるようになる。… あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人間で、わたしはあなたがたの神である(エゼキエル34:24-31)》実が実るのは神の祝福によるのです。人の努力は何一つそれに加えることがありません(箴言10:22)。エリサベツは神の恵みの業を経験し、後にマリヤを力づける人となりました。老いて人を気落ちさせる人と、老いて人を力づける人がいます。「神の祝福が私に実を実らせる」と知っている人は、老いて人を力づけることができます。その人は神の恵みによって成長しています。
 2つ目に、友や家族を亡くしていく孤独について考えましょう。聖書にはナオミという人がいます(ルツ記)。彼女は夫や息子たちを先に亡くしてしまいました。彼女は人々に「私を苦しみの人と呼んでください」と言いました。親しい人たちと死別することは、人の人生において一番の苦しみと言っても良いのではないかと思います。
 主は時に、私たちが自分で担いきれない重荷をおわせなさることがあります。そう思いませんか。え?聖書と違いますか?IIコリント10:13《あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。》ああ、そうですね。耐えられない試練にあわせることはなさいません。でも、この章をよく読んで見てください。荒野の40年間の話をしています。あの時、イスラエル人たちは担いきれない重荷を負っていました。食べ物がなく飲み物がなかったのです。ただ死を待つばかりでした。しかし主は空からマナを降らせ、岩地から水を湧き出させました。彼らが試練に耐えることができたのは、重荷が担える程度の軽さだったからではなく、主が彼らを支え、養ってくださったからです。
 夫と息子たちを亡くして、担いきれない苦しみに嘆いていたナオミは、主の誠実な愛を知りました。嫁のルツが買い戻しの権利をもつボアズに贖われたのです。すべては主が備え、導いてくださったことでした。《わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない》と言われた主は誠実なお方です。
 そして何より覚えていていただきたいことは、なんと神の御子イエス様がご自分で担いきれない重荷をおわされたということです。主は十字架にかかられる前、ゲッセマネの園で御父に祈り《わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。》と願われました。当時のローマでは十字架刑にかけられる者は、裸で十字架を背負い、市民が見ている中を通って、処刑場までいかなければなりませんでした。しかしイエス様は沢山ムチを打たれていたからでしょうか。刑場まで十字架を担いでいくことができず、クレネ人シモンがそれを運んだのです。あの主イエス様が、担いきれない重荷を負われたのです。主は私たちの弱さに同情できないお方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。しかし、それにもかかわらず、イエス様は試練に耐えなさいました。あの十字架の上で詩篇22篇を叫ばれ、父なる神への信頼を告白されたのです(詩篇22:23)。
 主はイザヤを通して言われました。《ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:3-4)》老いて孤独を経験することは、私たちにとって、到底担いきれない重荷です。しかし主が支えてくださるので、主に信頼し続けることができます。神の恵みによって成長するのです。
 3つ目に、老いて役割を手放すことについて考えましょう。使徒パウロは神から大きな役割を与えられていた人のひとりです。彼は異邦人伝道のために召され、アンテオケから3度に渡って、西へ西へと福音を伝えていきました。彼の計画ではスペインの端(ローマ帝国の西端)まで進んで行きたかったようです。しかし、使徒の働きはパウロが帝国領中央のローマで牢に繋がれてしまったところで終わっています。パウロの働きは精力的に出かけ続けていた前半と、牢に繋がれて動けなくなった後半がありました。彼は捕らえられて、巡回宣教師としての役割を失うことになったのです。しかし、パウロはピリピ人への手紙でこのように言っています。《さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。》「かえって福音の前進に役立った」ここに福音伝道の最も基本的な原則があります。私が何とかして王寺教会に伝えたいと思って、いつもメッセージに込めている事柄です。これだけ伝われば、もう何も言うことはないとすら思っています。
 私は最近、クリスチャンの告別式に何度か関わらせていただきました。その中でひしひしと感じたのは、神の恵みによって歩んできたキリスト者が、その晩年に、後の者に与えた影響力がとても大きいということです。社会的な役割を手放せば、後は人柄だけです。人の生きる姿勢、人の品性。それだけが残ります。人々は神の恵みによって生きるキリスト者の生き様を見るのです。ペテロは晩年にこのように書いています。《私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。》
 今日は3つのことを考えました。老いには他の側面もあることでしょう。しかし、いずれをとっても、それは主の目には悪いことではありません。神の恵みによって成長するなら、私たちが老いる時、ますます神の栄光が表されるのです。
 
お祈りいたします。《 彼らは【主】の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。彼らは年老いてもなお実を実らせ青々と生い茂ります。こうして告げます。「【主】は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」》
 
 天の父なる神様。恵み深い主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたは私たちの若いころの罪や背きを思い起こさないで、恵みによって私たちを覚えていてくださいます。
 あなたを離れ、自分で善悪を決めることにした人類は、老いの価値を忘れてしまいました。老いた者に実はなく、草も枯れていると思い違いをしています。しかし、神の家の大庭に植えられたものは、年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂ります。神の恵みによって生きるからです。
 主よ。世の偽りから私たちを守り、私たちを真理に導いてください。この良い知らせをどうしてここに留めておくことができるでしょうか。今週も私たちをそれぞれの場に遣わし、土の器の割れ目からあなたの光が輝き出るようにしてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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