2022.10.2 召天者記念礼拝 「憧れの故郷 - 主の歓迎」ヘブル人への手紙11章13~16節

本日は先に天国に行かれた方々を偲び、そして神様の御国を想う礼拝です。礼拝では特別に音楽プログラムがあり、中尾先生と女性がたとの讃美歌の美しいハーモニーが聞けました。(youtubeの王寺教会でお聞きください)

また、親族の方々も多く集まり、会堂の中では懐かしさに溢れた挨拶が方々で交わされ、なごやかな空気に包まれました。午後からの教会墓地での礼拝もお天気が守られ、日差は暑いくらい。感謝いっぱいの1日でした(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師

 おはようございます。2022年の召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。王寺教会では毎年一度、教会員であった、また教会に関わりのあった召天者を偲んで、召天者記念礼拝をもっています。教会でお一人ひとりのお名前を呼び、共に召された兄弟姉妹を思い出すささやかなひとときであります。大きなことはできないのですが、主にある家族としてこのような時を共に過ごさせていただけることは感謝なことです。

 毎年、色々なことを聖書からお話させていただいています。昨年は私たちを迎えに来てくださるイエス様のお話をいたしました。イエス様が迎えに来てくださるので、召された人々は道に迷うことがありません。私たちは心配することはないというお話でした。
 今日は私たちを愛しておられる神である主が、どのようなお方であるかお話したいと思います。主の御元に召され、安らかに復活の時を待っておられる兄弟姉妹がどうしておられるか想像することができたらと思っています。
 人はその人生のある時点で、地上のからだと別れ、天の神の元に帰っていきます。人生の幕を閉じるとか、生涯にピリオドを打つなどとも表現されることがありますが、終止符というより、人生の本にしおりを挟むと言ったほうがいいのではないかなと私は思ったりします。地上に生きる私たちは召された人々のしおりの前までしか知ることがないのですが、主の御元に召された後もページは続いているのです。
 物語は場面々々で転じることがあるものです。本の途中までしか読んでいない時と、最後まで読んだ時では見えるものが随分違うものでしょう。私たちはどうしても栞があるところまでしか読むことができませんので、どのようにして栞を挟むかをとても気にしています。丁寧に挟むことができただろうか。挟む位置が前の方ではなく、後ろの方にできただろうか。もし上手にできなかったと思うようなことがあれば、私たちはその栞を見て、つらい思いをすることもあるのではないでしょうか。先日も有名な落語家ががんで亡くなりました。昨日は有名なプロレスラーが難病で亡くなりました。病気で亡くなる方は多くおられます。うつ病や統合失調症なども以前より解明が進んでおり、単なる気分の問題ではなく、脳の神経バランスが崩れ、身体に影響を与えていること、重症化すれば命にかかわる病気であることが分かってきています。確率○%でまだ生きられる年数があったのではないか。何かできることがあったのではないか。あるいは「なぜ」という質問。逆に、介護などで力を尽くしてこられた方の中には、ある意味の安心感を感じ、それが罪責感となることもあるそうです。そのように、私たちは栞が気になってしまうことがあります。しかし、本の栞はその続きを読む時に取り外されるものです。私たちは栞をはずして、続きを読んでいくのです。そのうちに、前はどこに栞を挟んでいたのか忘れてしまったり、気にならなくなったりするでしょう。
 物語が次の場面で転じると言いましたのには理由があります。天の神である主は、人の常識と違った考えをお持ちの方であるからです。ある時、主イエス様は「天の御国はこのようなところです」とおっしゃって、ぶどう園を経営している主人の例え話を語られました。ぶどう園の主人は朝早く出かけ、労働者たちと一日一万円の報酬を約束して、彼らを農場に送り出しました。しばらくして朝の9時頃にまた出かけていき、仕事を探している人を見つけたので、声をかけ「あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから」と約束して送り出しました。主人はまた12時頃と午後3時頃にも出かけていき、同じようにしました。さらに夕方5時頃にも出かけていき、その時間まで仕事にありつけなかった人たちを見つけたので、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と言いました。やがて一日の仕事が終わり、主人は労働者たちを呼んで、最初に朝早く送り出した人に約束した1日1万円の報酬を全員に渡したのでした。人の常識であれば、最初の人が1万円ならば、順に額が小さくなっていくものでしょう。しかしぶどう園の主人は、自分の農園に迎えることができたことが嬉しかったのです。全員に十分な報酬を与えました。人の世界には格付けがあります。報酬はそれぞれの格付けに比例して差がつけられるべきだと考えられています。ところが天の御国はそのようなところではありません。主のもとに集められた人々は全員が十分な報酬をいただいています。私たちが見えていない栞の先のページで、物語は転じるのです。
 また主イエス様は別の例え話も語ってくださいました。ある人に息子がいました。その息子は父に「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」と言いました。父が彼に財産を分けてやると、何日もしないうちに、彼はすべてのものをまとめて遠い国に旅立ってしまいました。そして、そこで財産を湯水のように使ってしまったのです。その後、彼は食べることにも困り始めました。なんとか身を寄せさせてくれる人を見つけ、そこに転がり込むのですが、そこで豚の世話をさせられることになりました。食事も十分にもらえず、豚が食べている餌を見て、それを食べたいと思うほどでした。何と惨めなことでしょう。もう飢え死にしそうだという時、彼は我に返って、父のもとに帰ろうと思い立ちます。あれだけの財産を湯水のように使ってしまい、とてもとても息子として扱ってもらえるような状態ではないと思いました。父の家の使用人のひとりにしてもらおうと考えて、故郷へと帰ったのです。ところが、父は彼を待っていたのです。まだ家までは遠かったのに、帰ってくる息子を見つけて、駆け寄って抱きしめました。息子は父に「お父さん私はひどいことをしました。息子と呼ばれる資格はありません」と言っているのに、父は全然聞いていません。しもべたちに言いました。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。」神のみ元に帰るとはこのようなことです。人々の常識では、気に入られる生き方をした人が優遇され、うまくできなかった人が無視されたりするのです。ところが天の御国はそのようなところではありません。旧約聖書のイザヤ書には、主のことばが記されていて、このようにあります。《女性が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ彼女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ49:15-16)》神である主は、私たちを何をしたかで見てはおられません。私たちが主によって形造られ生を受けた子供であることを覚えておられるのです。これだけ数え切れないほどの人がいるにも関わらず、主はひとりひとりをおぼえておられ、み元に帰ったとき、私たちが顔を下げて何をつぶやいていたとしても、それを包み、「我が子よ。よく帰ってきた」と抱き寄せてくださるのです。
 今日はヘブル人への手紙という書に記されている御言葉を心に留めていっていただければと思います。ヘブル人への手紙11:13-16です。ここには聖書の中の登場人物たちが私たちのモデルとして、信仰もって人生を歩んだことが書いてあります。特にアブラハムという人はメソポタミアから旅をして、主が与えてくださる土地に出かけていきました。彼にとって生まれた故郷はメソポタミアのウルという町でした。しかし、アブラハムはウルに帰りたいと思っていたのではなく、天の神がおられるところが故郷であることを知って、天の故郷に帰っていったのです。このことは私たちの人生とも重なってきます。《これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。》
 やがて私たちも、イエス様を信じ、天の故郷に帰りたいと願うなら、主は私たちを受け入れてくださいます。先に主のみ元に帰った方々と再会し、本の続きを読んでいけるようになるのです。その時、もはや栞は必要ありません。それを取って、新しく展開していく物語の続きを読んでいくことになります。
 
 
お祈りいたします。《しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。》
 
 天の父なる神様。私たちひとりひとりを手のひらに刻んで、忘れずにいてくださる主よ。あなたの豊かな恵みと深い愛をおぼえて、心から感謝し、み名を賛美いたします。
 季節がめぐり、今年も召天者記念礼拝の時を迎えています。愛する兄弟姉妹をみ元に引き寄せて、包んでいてくださることをありがとうございます。あなたの園に行きたいと願う者をみな受け入れ、恵みによって報酬を与えてくださること、あなたの息子・娘として家に招き入れてくださることを感謝いたします。それは、人の常識と違っていますので、あなたが聖書を通して教えてくださらなければ、知ることがありませんでした。あなたは彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。
 やがて私たちの番が来たときにも、私たちがあなたのみ元に帰りたいと願うなら、あなたは受け入れてくださることありがとうございます。私たちにはあなたの助けが必要です。この一年も私たちを支えて、天の故郷への希望を持ち続けることができるようにしてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。


                   (写真はSさんより)

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