2022.7.10主日礼拝「神の国の奥義を植える」ルカの福音書8章4~15節

         

         

古代の昔は都、今はのどかな奈良で、こんなことが起きるなんて誰も予想もしなかった凶行。元首相暗殺は全国を震撼させました。そこに住んでいる私たちにとっても驚きが深く、犯人の動機が未だ明確にされないまま迎えた主日礼拝の日です。教会堂の壁には、アブラハムが空を見上げている絵と無数の星の輝く天の川が。夜空の色が涼しげです。礼拝音楽は若い方の世代の方々のゴスペル賛美を聞き、メッセージは久しぶりに新約聖書から「種まき」の例え話です。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。先週は台風が通り過ぎるかと思われた週でしたが、途中で熱帯低気圧に変わりまして、奈良県では大きな被害もなく守られました。祈祷会もいつも通りもつことができ感謝しています。どんなに困難な週であっても、必ず主の復活の朝がやってきます。私たちが持ち続けている希望です。それは私たちの思いや行動を超えて、必ずやってくるものであり、私たちはただ準備をして待ち望むだけでよいのです。主イエス様が帰ってこられる日を待ち望みましょう。

 5月はエステル会、6月はヨセフ会と特別賛美を主にささげてくださいましたが、7月の今日はナザレ会が特別賛美をしてくださいました。ありがとうございました。それぞれの例会の特色が表されていることを見て、主の御名をあがめています。イエス様の教会の特長は人々の多様性です。健康的な群れにはメンバーの多様性がみられます。また多様な人々が互いに主張し合うのではなく、譲り合い、受け入れあうのがクリスチャンの特長でしょう。「今日はあなた(A)の輝く番、今日はあなた(B)の輝く番」と互いを喜びながら、互いに仕えあっています。これは世では見ることができない三位一体の主の姿であり、イエス様の弟子たちの姿です。神学的には三位一体のダンス(踊り)と言われます。三人が一緒にダンスをしていて、1人が真ん中に出てきて踊り、引っ込んで次の1人が真ん中に出てきて、また次の1人に代わる。こうして3人が一緒にダンスをしているというイメージが三位一体を説明するために使われています。もちろん三位一体を完全に表現できるイメージはないのですけれども、聖霊によって導かれる教会の目指す姿を想像することができるでしょう。互いに受け入れ合いなさいとはひたすら我慢しなさいということではないわけです。あなたが与えられている賜物を喜んで用いる時があります。また、スペースを譲って、他の人が与えられている賜物を喜んでサポートする時があります。この3ヶ月間にそのような様子を垣間見させていただき、主の御名を賛美しています。
 さて、今日の聖書箇所をお開きください。ルカの福音書8:4-15(127ページ)【聖書朗読】
 
 旧約聖書の物語が次の時代に移る節目ですので、今日は小休止ということで、イエス様の例え話を開かせていただきました。旧約聖書を読むことで新約聖書がわかるようになってきますよとお話しいたしましたけれども、今日はそれを少し味わってみたいと思います。
 旧約聖書は私たちクリスチャンの歴史です。歴史を知っている時と知らない時では、同じものを見ても理解が違ってきます。私は昨年の4月に王寺教会に参りました。1年と少しを王寺教会で過ごしています。一方でこの群れで何十年も過ごしておられる方々もおられます。すると同じ光景を見ても、今までの経緯を知っているのと知らないのでは、ずいぶん見え方が違うでしょう。
 さぁ、イエス様が何を教えてくださったのでしょうか。その時、イエス様は《町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝え》ておられました。イエス様はまず種まきの例えを話され、最後に《「聞く耳のある者は聞きなさい。」》と言われました。またイザヤ書を引用し《『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』》とおっしゃっています。「耳」「聞く」「目」「見る」これでピンと来ますね。主がイスラエルに語っておられた、あの感情的なことばです。イスラエルは「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち」と言われていました。聖書を与えられていたのに彼らは読まず、預言者が語ったのに彼らは聞かなかったからです。民は時代を重ねるごとに頑なになり続けました。出エジプトの時にファラオが段々と頑なになっていった様子と一緒です。ファラオは最初は自分の意志で頑固になっていましたが、やがて意志ではコントロールできないほど頑なになってしまいました。《【主】はファラオの心を頑なにされた(出9:12)》のです。しかし、これまでの経緯を考え、主の心の思いを考えれば、イザヤの預言は主の感情的で挑戦的なことばであると分かります。論理的に考えると混乱してしまいますが、話している主の感情を加味しながら言葉の真意を考えると、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっているのです。これが本心です。頑固になってしまっている人が行動を変えることができるのは、自分の姿を客観的に見たときです。聖書を読んでいない、預言者に耳を傾けていない。そんな状態になっていると指摘されなければ、頑固になってしまっていることすら気付けません。「私は頑なになっている」と気付いて、頑なさをやめてほしいと主は切に願っておられます。
 イエス様の種まきの例えを沢山の人が聞いていましたが、ほとんどの人は何となく聞いていただけで、それがどんな意味か尋ね求めませんでした。聖書は神から人々に語りかけられているメッセージです。伝えようとしていることがあります。神の国の奥義を伝えたいのです。その熱意がこもっているのが聖書です。劇場で演劇を見て楽しむような事と違います。主が何をおっしゃっているのか、どういう意味か、耳を傾けて良く聞き、尋ねていただきたいと思います。尋ね求めるなら、主が必死に伝えようとしておられることを知ることができます。
 神である主は、神のことばを種として撒いておられるといいます。「神のことば」とは何でしょうか。それは聖書を細切れにして出てくる格言やおみくじのようなものではありません。物語であり、歴史です。人がどこから生まれてきて、今どの状態にあり、やがてどこに行き着くのかを、アブラハムの家という具体例を通して説明しています。これは目に見えないはずの事柄でした。ですから「奥義」と呼ばれているのです。奥義とは神しか知らないことを指しています。神しか知らない、あるいは神の目にしか見えていない人類の過去と現在と未来を、主は一生懸命に伝えようとしておられます。
 最初の種は畑に落ちないで道端に落ちました。人がどこから生まれてきて、今どの状態にあり、やがてどこに行き着くのか、主が一生懸命に伝えていても、それを自分の人生と結びつけようとしないなら、種は道端に落ちてしまいます。これはユダヤ人が書いた面白い書物だけど、私とは関係がない。ちょっとした興味で話を聞いているのですが、それが根をはって、芽を出すことはありません。しばらくして興味も去り、聞いたことを忘れてしまいます。クリスチャンも他人事ではありません。今週聞いたことを、来週には忘れているということがないでしょうか。一字一句覚えなさいということでありませんけれども、聖書には大河ドラマのような「大河」があるわけですから、大筋をよく心に留め、自分の人生に植えていくことです。説教であんなジョークがあって笑えたとか、そういうことはその日の話を覚えておくためなら良いのですが、どちらかと言えば忘れてもいいことです。神の国の奥義を自分の人生に植えましょう。
 そうすると、私たちもまた古代イスラエル人と同じように歩んでいると分かってきます。神の国の奥義を人生に植える。それはすなわち、主イエス様を私の人生の王として受け入れ、洗礼を受けるということです。私たちはそれが出来ないほどに罪深く、神に対して頑なだったのですが、イエス様の十字架によって罪が赦されました。洗礼はイエス様の十字架の死をいただくこと(ローマ6:4)、またアブラハムのように信仰の一歩を踏み出すことです。この洗礼と結びついているイスラエルの歴史は出エジプトです。洗礼では水を通りますが、これは紅海の分かれた水の間を通ってイスラエル人が救われたことと結びついています。アブラハムの子孫はエジプトを脱出してから、どのような歩みをしてきたでしょうか。試練があり、また誘惑がありました。
 もしイスラエル人だけが救われて終わりであれば、直ぐ様、安息の地に入ってめでたしめでたしだったのかもしれません。しかし、主はアブラハムの家を通して、世界のすべての人びとを救い出したいと願っておられました。彼らはエジプトの400年間ですっかり忘れてしまった、アブラハム、イサク、ヤコブの神をゆっくりと、しかし確実に知っていくために、荒野を通って約束の地へ向かいました。荒野というのはきっと私たちが想像しているよりは狭い場所です。そこにいれば周りの国々から見られているような場所です。そこで彼らは食べるものがなくなり、飲水がなくなりました。しかし、主は天からパンを降らせ、岩から水を出して、民を養われました。周りの人々は驚いて彼らを見ていたのです。人間の人生に欠かせないもの、また人生を豊かにするものは、すべて主が天から降らせ、岩から湧き出させてくださっていると知りました。それを知るための試練でした。
 種まきの例えで2つ目の種は、岩の上に落ちてしばらく残っていたのですが、根をはることができず枯れてしまいました。私たちが必要だと思っているもの、欲しいと思っているものが手元からなくなってしまうということは、神の国の奥義を植えた人には必然的に起こります。試練が起こってビックリするのは、聖書を一部分しか読んでいないか、読んだことを忘れているのです。聖書を読んで下さい。試練の先には天からのパンと岩からの水があります。試練の後で主の備えを知ると聖書は言っています。
 また主の民イスラエルは様々な誘惑にあいました。主に従うと言ったけれども、やっぱり自分流でやりたい。自分の目に良いと思えることをやりたいという誘惑です。主を礼拝するために金の子牛を造りました。主に誓約を立てて、人を生贄にして焼いてしまいました。主の祭司のエポデを祀って、人々に拝ませました。王様がほしいと言って、王を立てました。主の神殿を作ろうと言って、神殿を建ててしまいました。預言者を無視して、国を守るために外国の軍隊に頼り、はしごを外されてしまいました。
 茨の中に落ちた種はこうです。聖書の物語を自分の人生に植えて、それが根を張り、芽が出て、茎が真っ直ぐに伸びていくように願うよりも、「他の種から生えてきた、あの植物の方がいいなぁ、あの植物もいいなぁ」と心移りしてしまうのです。私たちにとって、その別の植物は富や快楽でしょう。自己流にやることを手軽に実現させてくれるものです。
 あの時、主の民は律法を読んでいませんでした。預言者のことばを聞いていませんでした。「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち」になってしまいました。そうなれば、もう神のことばの種は成長しません。イエス様の兄弟ヤコブはこう言っています。《自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(ヤコブ1:25)》
 最後に良い地に落ちた種があります。「立派な良い心で」とはどんな心だ!?と思われるでしょう。これは要するに頑なではない心です。神のことばの種を自分の畑に植える心です。種を植えて育ててみようとする心です。そして《それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。》必要なのは忍耐です。試練と誘惑を越えた先で、主の約束を確かめることができるからです。エジプトから脱出したイスラエルはどうなったのでしょうか。忍耐することができず、聖書を読まない、預言者に耳を貸さない人となり、ついには主を無実の罪で十字架にかけて殺し、アブラハムの家から追放されてしまいました。パウロはクリスチャンたちにも警告しています。《見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(ローマ11:22)》
 しかし、立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐する人は、主の約束を必ず受け取ります。ナザレ会のみなさんが賛美してくださった詩篇100篇を読んでみましょう。神の国の奥義を自分の人生に植え、忍耐して約束を受け取った人たちの感謝の賛歌です。詩篇100篇《全地よ 【主】に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。【主】こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。主に感謝し 御名をほめたたえよ。【主】はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。》
 
お祈りいたします。《また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」》
 
 天の父なる神様。いつくしみ深い主よ。あなたの恵みはいつも私たちとともにあります。この世界と人間はあなたのことばによって造られました。それ以来、人があなたに逆らって、園を追い出された後も、あなたは神のことばの種を蒔き続けてくださっています。畑に落ちるか分かりませんのに。根を張って、芽を出し、真っ直ぐに伸びていくか分かりませんのに。ひたすら種を蒔き続けてくださいました。
  「目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち」に語り続けるのは、どれだけの愛と情熱と忍耐が必要なことでしょうか。人にはできないことです。私たちの目を開いて、あなたの愛がどれほど深く、広く、高いのか悟らせてください。
 主よ。私たちがいつも目を覚ましていることができるように助けてください。どうかいつもあなたに聞き従う者としてください。みことばを聞いて、自分の畑に植える者でいられますように。試練があると先に教えていただいているのですから、いざ試練が来た時に、驚きあやしむことなく、その先の天からのパンと岩からの水を期待することができますように。誘惑に覆われることなく、神の国の苗が成長するように、一心に見つめて、それから離れない者としていただけますように。
 あなたは、一粒の種は成長して何倍もの実を結ぶとおっしゃいました。種があったので実が結ばれました。その種はあなたからのものです。すべてのものは神から発し、神によって成り、神に至ります。主のみ名があがめられますように。蒔くための種を与えてくださる主よ。あなたの働きのお手伝いをさせていただけることをありがとうございます。今日もひとつ種を蒔きますので、恵みの雨と太陽を注いでください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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