2022.7.17 主日礼拝 「バビロンで祝福を受けよ」エレミヤ書29章1~14節

会堂玄関前の元気な夏の花々(写真はSさん)

元首相が殺された事件は、誤った教えにのめり込み財産を無くしてしまい家族が破滅してしまったことを恨んでの犯行だと明らかになってきて、信仰は違えども、私たちクリスチャンも心を痛めています。だから宗教は怖いと短絡的に言われそうです。イエス様は過激な行動を慎むように教えておられます。真実に信仰が育っているクリスチャンは穏やかで何事も慎み深く節度があるものです。自らの姿を顧みるチャンスになりました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。今日も兄弟姉妹と共に真の神である主を礼拝できます恵みを、主に感謝します。私たちはともすれば偽りの教えに惑わされていた可能性もあり、昨今のニュースを読みながら本当に心を痛めています。広く認められている真理(例えば、神が世界を創造された)で、人々の心を引き付けた後、偽りを練り込み、搾取していく人たちがいるのです。欺きの業に憤りを覚えます。囚われている方には、どうか聖書を読んでいただきたい。また聖書を利用して好き勝手いう人の声ではなく、聖書を一生懸命に説明しようとする人々に聞いていただきたいと思います。

 献金の話で言えば、マルコ12章、ルカ21章に出てくる、献金箱に持っているすべてを投げ込んだ貧しいやもめを思い出す方もおられたでしょう。この箇所を引用して、多額の献金を求める教えは偽りの教えです。旧約聖書をしっかり読んでこられたみなさんには、ぜひ気が付いていただきたいと思っています。主の律法によれば貧しいやもめは、民の十分の一献金から生活のための経済的支援を受けることができた人でした。彼女は主が与えてくださる日々の糧で十分に満たされていたのでしょう。しかし多くの金持ちは、これは自分の力で手に入れたお金だ、適当な額を献金して、後は蔵を建てて食べて飲んで楽しめと思っていたのかもしれません。神に感謝して、神の恵みによって生きていた人は誰でしょうか。献金の額の話ではありません。
 では、今日の教会の献金の支出を考えてみると、古代イスラエルとは違う点があります。十分の一献金が群れの貧しい人たちのためにいつも分配されてはいません。そのようにすれば分配を受ける動機で洗礼を受けようとする人たちが出るかもしれませんし、あるいはその領域は行政が担っているということもあるでしょう。色々と現実的な理由があります。大規模な災害起こった時などは特別ですが、基本的には行政の働きが正しく行き渡るように祈っています。
 そのような制度の違いを考慮して聖書を解き明かす人の声を聞いていただきたい。古代イスラエルでは、貧しい人々はまず民がささげた十分の一献金から生活費をもらって、もらった中から十分の一を捧げていました。十分の九で文化的な生活を送れる額を主からまず頂いていたわけです。では、私たちの世界の行政は十分の九で文化的な生活を送れるように保証しようと考えているでしょうか。そうではないですね。十分の一献金に関しても杓子定規ではありません。
 イエス様は《真理はあなたがたを自由にします(ヨハネ8:32)》とおっしゃいました。自由の真理を知っているということは、私たちの救いです。神の恵みです。
 今日の聖書箇所をお開きください。エレミヤ書29:1-14(1344ページ)【聖書朗読】
 
 これまでソロモンの神殿建設からバビロン捕囚までの時代を見てきました。今日からは次の時代です。バビロン捕囚からエルサレム帰還の時代に入っていきます。
 ソロモンの時に栄華を極めたダビデ王国は、主を忘れ、他の神々に仕えるようになりました。エジプトから解放してくださった神である主を礼拝し続けていましたが、その礼拝は金の子牛礼拝でした。つまり、彼らの頭の中では「主を礼拝しているんだ」というつもりだったのですが、聖書を読むことをやめてしまったので、自分勝手な方法で礼拝するようになってしまったのです。主よ、主よと言って礼拝していましたが、その実態は偶像礼拝でした。主は預言者を遣わし、すでにモーセに語らせ、律法に記されていた警告を思い出すようにと王と民に語ります。しかし、彼らは律法(聖書)を倉庫から出してこようとしなかったし、預言者に従おうとも思いませんでした。時々、主に従う王様が現れました。北王国と南王国で比べれば、南王国の方が少しましでした。でも、どんぐりの背比べです。南王国は少しましだったので、主の忍耐の期間が延長されました。先に北王国が滅ぼされ、それを南王国が見て、悔い改めることができるようにしてくださいました。それでも焼け石に水でした。南ユダ王国にもついに、モーセが警告した事態がその身に降りかかりました。敵の国に滅ぼされ、人々が強制連行されるという事態です。
 さて、みなさん、バビロン捕囚と聞いてどのような印象があるでしょうか。天罰でしょうか。一巻の終わりでしょうか。神に見捨てられたということでしょうか。今日のポイントは、バビロン捕囚を正しい印象で理解していただきたいということです。そのポイントが現れている箇所を開かせていただきました。
 バビロン捕囚は2回行われたのですが、開きました箇所は第1波の捕囚が来て、第2波が来る前の時期です。バビロンに強制連行されていった人々と、カナンに残っている人々がいます。エレミヤはカナンに残されました。エレミヤはエルサレムからバビロンに手紙を書いて、連行された人々に送りました。それはただの手紙ではなく、主のことばを書き送ったものでした。
 バビロンの地で、捕囚の民は恥に覆われていました。罪の結果を受け取ったのです。もう事は動いてしまって、時間は戻りません。どれほどの罪悪感でしょうか。あの時こうしていれば、この時ああしていれば。いくら考えても現実は変わりません。詩篇137:1-4にこのような歌があります。《バビロンの川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。街中の柳の木々に 私たちは竪琴を掛けた。それは 私たちを捕らえて来た者たちが そこで私たちに歌を求め 私たちを苦しめる者たちが 余興に 「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。どうして私たちが異国の地で 【主】の歌を歌えるだろうか。》なぜ歌えないのでしょうか。恥ずかしいからです。罪を思い出すからです。
 そのような人々に主は語られました。「バビロンの地で《家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。》」これは驚くべきことばではないでしょうか。まるで約束の地カナンに入った時の話のようです。
 結局、捕囚とは何だったのでしょうか。それは罪の結果でした。罪の裁きでした。呪いでした(レビ26:40-41)。正しい人たちの執り成しによって、猶予期間が設けられていましたが、一度下ってしまうと取り消されない裁きでした。取り返しのつかない恥に覆われ、神である主に見捨てられたということでした。しかし、いざバビロンに連行されてしまった時、主は民にまるで約束の地に入れられた民に語るように祝福を告げられました。なぜでしょうか。イザヤがその答えを預言しています。《怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、【主】は言われる。(イザヤ54:8)》主のあわれみによって、呪いは祝福に変えられました。そういうわけですから、「バビロン捕囚は呪いです。またバビロン捕囚は、呪いから変えられた祝福です。」
 バビロン捕囚の前後を見比べて変わっているのは、王です。民を支配する王が変わったのです。イスラエルの油注がれた王より、バビロン帝国の帝王の方がましでした。「まし」というのはバビロンの王が優しかったとか、正義と公正を行っていたとか、そういう意味ではありません。イスラエルの王には律法を守り行って、愛に満ちた社会を建ててくれるという「期待」がありましたが、バビロンの王には期待がないのです。王に期待できないので、民は主に期待するようになります。ダニエル記やエステル記のメッセージを思い出してください。彼らにはイスラエルの王はいませんでした。異国の王に支配されていました。しかし、主はダニエルもその友人たちも、エステルもユダヤ人の住民も守ってくださいました。異国の王に支配されていても主が守ってくださるのです。期待して裏切られるよりも、期待できない時に守られる方がましではないでしょうか。そのように、バビロン捕囚は呪いから変えられた祝福でした。
 今日開いたエレミヤ29章の前の章では、偽預言者が偽りの預言をしています。彼は「二年のうちに民はバビロンの王から解放される」と言いました。失敗する前にすぐに戻ると。偽りの預言です。でもこれが人々の願望なのです。神の救いがあるとすれば、失敗を無いことにしてほしい。時間を戻して、恥ずかしい罪の結果を記憶から消してほしい。私が最初に計画していた勝ち組の人生ラインに戻してほしい。_ みなさん、主が今すぐにそのようにしてくださると誰かから聞いても、信じてはいけません。これは嘘です。偽の預言です。主の本物の預言は「バビロンで家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。祝福を受け、そこで増えよ。あなたはその町で平安を得る」です。主は呪いをなかったことにされるのではなく、呪いを祝福に変えるお方なのです。
 エレミヤ29:11はクリスチャンに大人気のみことばです。《わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。》素晴らしいみことばです。ところが、このみことばを開きながら、偽預言者のことばを期待している人がいます。今すぐに、この失敗してしまった人生から、時間が巻き戻って、失敗したことがない時のような人生に戻って欲しい!「神様、みことばが与えられました。ありがとうございます!」_ あなたが想像している声は、本当に主の声ですか?まことに、主はこう言われます。《あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。また、あなたがたが見ている夢に聞き従ってはならない。》
 確かに私たちの人生が罪を犯していなかった時のように戻る日が来ます。しかし、それはすぐにではなく、主の日に戻ります。具体的に言えば、主イエス様が帰ってこられる日です。それまでは捕囚として連れて行かれたところで、呪いから変えられた祝福を経験するようにと主は言っておられます。ですから嘘を信じてはいけません。ユダヤ人たちは、こんな恥ずかしい人生、死んだほうがましだと思ったのです。しかし主はご自分の愛する民に《なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない…。だから立ち返って、生きよ。(エゼ18:31-32)》《バビロンの王に仕えて生きよ。(エレミヤ27:17)》とおっしゃいました。
 主の思いは人の思いを超えています。人は人生の道を誤れば、それで終わりだと考えています。救いがあるとすれば、罪の記憶が消し去られて、私が成功だと考えていた人生の道に戻ることだと考えています。時に、私たちの願望に答えてくれそうな偽預言者の声に耳をかしてしまうかもしれません。しかし罪の結果を変えることはできません。それは予め聖書によって警告されていたのですから、私たちに弁解の余地はありません。例えばイエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人を思い出してください。彼はイエス様を信じても十字架から降ろされることはありませんでした。ところが、主の思いが私たちの思いを超えているのはここからです。主の怒りは少しの間、主の愛は永遠なのです。主は呪いを祝福に変えなさいます(申23:5)。恥ずかしくて死にたくなるような人生を祝福に変えてくださるのです。主の民はやがてひとつのことを知るようになります。約束の地に住んでいたから祝福だったのではない。立派な王様がいたから祝福だったのではない。偉大な神殿があったから祝福だったのではない。主が私たちと共にいてくださることが祝福なのだと。すべての祝福の源は主との関係にあるのだと。十字架の犯罪人も、十字架から降りることはありませんでしたが、主イエス様が隣で一緒に苦しみを分かち合ってくださることを経験しました。私たちもまたバビロンの地での祝福を知らなければなりません。主イエス様をお迎えし、新しい天と地に住む大切な準備だからです。
お祈りいたします。《あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される》
 
 天の父なる神様。呪いを祝福に変えることのできるただひとりの神である主よ。あなたの真実の愛とあわれみを心から感謝いたします。私たちはみなあなたの前に罪を犯しました。あなたの心を痛めつけ、怒りを引き起こし、その結果を受けたのです。しかし、あなたは呪いを祝福に変えてくださいました。依然としてバビロンに住み続けなくてはならないのですが、しかし今はあなたが共にいてくださいます。私たちが祈る時、耳を傾け、心を尽くして探し求める時、あなたを見出すことができます。あなたの愛を受けられるはずがないにもかかわらず、あなたの愛を受けています。呪いから変えられた祝福を感謝して受け続けることができますように。
 主よ。真理に嘘を混ぜ込み、人びとの願望に漬け込んで、欺いている偽預言者がいます。あなたが遣わしたのではない預言者がいます。その偽りの業を打ち砕いてください。囚われている人たちを自由にしてください。どんな救済制度も洗脳されている人びとを救い出すことが出来ません。かろうじてその周りの人びとを害から遠ざけられる程度のことです。しかし、あなたの真実は闇を照らし、偽りを暴きます。囚われている人たちを覚ます希望です。
 私たちのためにあなたが立ててくださった平安を与える計画を、すべての人に知らせてください。誰がその知らせを届けに行くのでしょうか。ここに私たちがおります。私たちを用いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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