2022515主日礼拝「みこころを求め 主に拠り頼め」 II 歴代誌14章2~12節


やっと良いお天気が戻ってきました。礼拝説教では、聖書を独りで読む時分かりにくい箇所を扱ってくださいました。ヤロブアムとレハブアム、ダビデ王後の二人の王。その行状から王たるものがどのように神様に従わなかったか、神を憂いさせたかを知り、そして神様の深い忍耐と哀れみに改めて感謝し、神に従うことの大切さを心しました。会堂の壁には復活したイエス・キリストが天に挙げられるオブジェが飾られました。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。雨の続く一週間でしたが、私たちはまた新しい週を与えられて、兄弟姉妹と共に集まってまいりました。この日を共に喜び、主に感謝いたしましょう。主はあわれみの忍耐をもって、帰ってきてくださる日を一日一日延ばしてくださっているのですから、畏れをもって復活の希望を告白し、また世に出ていって光を輝かせましょう。

 今日は5月の例会がもたれます。昨年に牧師が交代してから、1年間これまでになかった形で例会が開かれてきました。そろそろ慣れてこられた頃かなと思っています。これまでになかった形とは、牧師が必ずしもその場にいないということです。礼拝の説教や年間標語聖句などで示される主の計画を聞きながら、例会のメンバーで具体的な形を模索していく必要があります。どうして主はこの牧師を王寺教会に遣わされたのだろうか。よく思い巡らせていただきたい質問です。主の摂理が見えてくるのではないでしょうか。
 私たちが目指していることのひとつは、これから散らばっていく先で、神のみこころに従うということです。日曜日以外の6日間で主のみこころに生きることです。聖書の言葉で「信仰の従順」と言います。日本において、私たちが散らばっていく先でクリスチャンはあなたひとりです。そこに牧師はいません。兄弟姉妹もいません。主とあなたがいるだけです。自分でみこころを思い巡らし、従っていかなければなりません。そのことを考えますと、牧師が補助的な立場に回っている例会は、ひとつの訓練の場になっていると思います。
 聖書の真理は、どの時代のどの地域の人にも当てはまる大きな啓示です。私たちは主のみこころをよく理解し、私の時代、私の場所で従っていかなければなりません。モーセと預言者の関係を考えてください。預言者たちはどのように語ったでしょうか。「創世記何章何節!」と言ったでしょうか。モーセの書、すなわち律法を深く理解し、目の前の状況に対して、神のみこころに従いなさいと語ったのです。呪いではなく祝福を選びなさいと。《まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。》とイエス様もおっしゃいました。信仰の従順は、私たちを救い、私たちに必要を与え、私たちを自由にします。
 今日も主のみこころを知りましょう。今日の聖書箇所をお開きください。II歴代誌14:2-12(775ページ)【聖書朗読】

 前回はソロモンの子レハブアムとソロモンの家来ヤロブアムによる、イスラエル王国の南北分裂をお話いたしました。特に北イスラエル王国が人間の知恵によって、大きな失敗を犯した場面でした。ヤロブアムは北王国にエルサレム神殿に代わる礼拝所を作ろうと考え、金の子牛を二つ造って配置し、レビ族を追い出して別の祭司を任命し、自分で勝手に祭りを定めてしまいました。
 南ユダ王国の人々は、北側を見下して、私たちにはエルサレム神殿があるぞ、私たちにはアロンの祭司がいるぞ、私たちは正統なダビデ家の王がいるぞと誇っていました。ところがどうでしょうか。今日の箇所のアサ王は南ユダ王国の王です。3節を見ると、南王国に異教の祭壇と高き所、石の柱、アシュラ像があったことが分かりますね。(このアシュラは日本人に馴染みのあるインドの阿修羅とは別物ですよ。)古代中東のアシュラは女神です。母の日礼拝のメッセージを思い出してください。女神があったということは、ユダの人々はひとりの神である主を知らなかったということです。こんな状態で北と南は互いに非難しあっていました。目くそ鼻く…あ、ごめんなさい、五十歩百歩とはこのことです。
 元々、イスラエル王国はなぜ分裂してしまったのでしょうか。ソロモンが民を奴隷にしていたからです。レハブアムは相談相手を間違え、ソロモンの路線を継続し、さらに重労働を課しました。ヤロブアムは横暴なレハブアムから民を救ったのです。北イスラエル王国の人々はヤロブアムをモーセのように思ったに違いありません。モーセがファラオからイスラエルを助け出したように、ヤロブアムはレハブアムからイスラエルを助け出したと。しかし、ヤロブアムはモーセのように民を救い、アロンのように罪を犯しました。
 一方のレハブアムは、ヤロブアムに追放されてしまったアロン家の祭司とレビ族を受け入れて守り、金の子牛を礼拝しないで主を尋ね求めようとする人びとを受け入れました(II歴11:13-16)。ところが、《レハブアムの王位が確立し、彼が強くなると、彼は【主】の律法を捨て、彼とともにいた全イスラエルもそうした(II歴12:1)》のです。彼とともにいた全イスラエルとは、主を尋ね求めて北イスラエル王国を離れてきた人たちも含まれています。彼らはみな主の律法(聖書)を捨ててしまいました。ですから、当然、ひとりの神である主を忘れてしまったのです。
 北にしても南にしても、一体何をしてるのと思いますね。彼らはそれぞれの状況の中で精一杯やっていることは分かります。一生懸命なんですね。王としての責務がありますから。でも、士師記の時代と同じことをやっています。彼らは《自分の目に良いと見えることを行っていた》のです。士師記には何と書いてありましたか。《そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。(士21:25)》今のイスラエルを見ると、王がいますよ。社会正義を求めたヤロブアム王と、宗教的敬虔を(少なくとも最初は)求めたレハブアム王がいます。それにも関わらず、結果は一緒でした。王たちそれぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。主のみこころは、ただひとりの神である主を私たちの王とすることです。
 今日の聖書箇所に主を王とすることの具体的な例が出ています。アサ王はユダの人々に、主を求めさせ、主に拠り頼みました。主を求めること、それは律法と命令を行うことです。当時の人達にとって律法と命令とは、創出レビ民申命記のモーセ五書のことでした。私たちにとっては、新旧約聖書です。聖書がなければ、私たちはひとりの神である主を見失ってしまいます。主を礼拝しているつもりで金の子牛を拝んだり、女神を拝んだりしてしまうのです。士師記のエフタは娘を生贄にしました。ヤロブアムはヤハウェの像として金の子牛を造りました。もし聖書を知っていれば、教会学校の子どもたちでも分かる間違いです。聖書を神棚において拝んでいてはいけません。これを開いて読み、主がどなたなのか知らなければなりません。そして主のみこころ(ご計画)に従うのです。
 主のみこころに従う人は、主に拠り頼むようになります。ただ主だけに拠り頼むことこそ、神のみこころだからです。モーセを思い出してみましょう。申命記30:15-20《見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、【主】は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、【主】があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。》
 アサ王は敵が迫っているのを見て、主を呼び求めて祈っています。他の王たちはどうしたのか、ぜひ調べてみてください。ある者はエジプトに援軍を頼みました。ある者はアッシリアに贈り物をし、神殿をアッシリアの王のために改造しました。主に拠り頼まない人たちの行動は、贈り物と政治的はかりごとです。しかし主に拠り頼む人たちは、ただひとりの神である主に祈るのです。ずいぶん前ですが、ある方から相談を受けたことがありました。とても深刻な内容でした。その方の身近な人に関わる大きな問題であり、居ても立っても居られないはずの状況でした。しかし、その方は牧師に事情を伝え終えた後、「このために何かをしてほしいということではありません。お祈りしてください」とおっしゃったのです。私は何もしませんでした(できることが無かったのですが)。ただ主に委ねて、主を信頼して祈っていたのです。しばらくして、あれからこのようになりましたとお証を伺いました。まだ完全な解決かどうかは分かりませんでしたが、確かに主が働いて助けてくださっていることを示す出来事でした。牧師に相談に来ても、ある人は目の前の牧師しか見えていません。どのようにして動いてもらおうかと考えています。しかし、ある人はそこにいる牧師と、その牧師を遣わした、ただひとりの神である主を見ているのです。人を動かすものは贈り物と政治的はかりごとです。主に感動を与えるのは祈りです。人には解決できない問題を、主は解決することがおできになります。
 主のみこころを知り、それに従うことを、パウロは「信仰の従順」と表現しています。信仰の従順は聖書のどこを開いても、金太郎飴のように出てくる事柄です。主の民に求められていることは、実はとてもシンプルです。主のみこころを求め、主に拠り頼め。それだけです。ところがヤロブアムも、レハブアムもその単純な事に目を留めることができず、罪を犯してしまいました。どんぐり同士で背を比べ合い、五十歩逃げた者が百歩逃げた者を笑っていたのです。ヤロブアムは何を考えていましたか。このままエルサレム神殿に代わるものがなければ、人々は南王国に流れてしまうだろうと考えました。それは大事なことだったのでしょうか。そんなことはどうでも良かったのです。みなさん、私たちにも大切なことと大切でないことを見極める目が必要です。教会でも様々な話し合いが行われていますが、信仰の従順に関わる話し合いはそんなに多くはないのではないでしょうか。しかし、大切ではない話し合いのために争い、時には分裂まで起こしてしまうのが私たちでしょう。イスラエルを見て、彼らを笑えるでしょうか。
 レハブアムは何を考えていましたか。私たちにはエルサレム神殿がある。アロンの祭司とレビ族が集まっている。私にはダビデ家の血統がある。そう言って、聖書を閉じてしまいました。ユダの人々は誰を礼拝していたのでしょうか。彼らは主を礼拝していると思っていたのでしょう。しかし、聖書を閉じてしまったら、どのようにして主を知るのですか。みなさん、いつも主に向かってお祈りしておられますね。それは主ですか?_ ユダヤ人たちは主に従い、主に仕えていると思っていました。しかし、主イエス様が来られた時、イエス様が主であると分からず、ついには十字架にかけて殺してしまったのです。これは他人事でしょうか。
 主のみこころを求め、主に拠り頼みましょう。私たちの群れは礼拝で聖書を開いてみこころを求め、祈祷会で祈って主に拠り頼んでいます。私たち個々人はディボーションで聖書を開いてみこころを求め、働き場で短く祈って主に拠り頼んでいます。主に拠り頼まないことは偶像礼拝です。最も多いのがお金でしょう。お金が足りていれば大丈夫という考え。あるいは人脈があれば大丈夫、健康であれば、家族がいれば、仕事があれば、持ち家や土地があれば…。それらは偶像礼拝です。ただひとりの神である主への信仰の従順は、私たちを救い、私たちに必要を与え、私たちを自由にします。
 多くの人は、救いのことだけを考えています。何か大きな問題に直面して教会に来て、主に拠り頼んで問題が解決したら、その後どうしたら良いか分からないのです。神のみこころは、エジプトからの救いだけではありません。約束の地に入ることです。信仰の従順を忘れてしまうなら、出エジプトの後、主を知らなかったイスラエル人と同じ結末を見ることになります。主は言われます。《私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。》
お祈りいたします。《【主】よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりはありません。私たちの神、【主】よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。【主】よ、あなたは私たちの神です。》

 天の父なる神様。私たちを愛のみ手によって形造り、いのちの息を吹き込んでくださった主よ。みこころを定め、祝福を置いてくださっていることをありがとうございます。私たちが、あなたのみこころを選ぶ時、ご自身の約束に誠実でいてくださって、祝福を与えてくださいます。あなたの他に、私たちが拠り頼むべきものはあるでしょうか。
 また死を選ぶ者にさえ、あなたのあわれみは尽きることがありません。その呪いを身代わりに背負い、十字架にかかって死んでくださいました。しかしあなたは死に勝利され、よみがえられたのです。もはや私たちが当然負うべきであった呪いは取り除かれたのです。イエス様。あなただけが私たちの主です。みこころを教えてください。
 私たちに大切なことと大切でないことを見分ける目を与えてください。私たちの目にまっすぐに見える道ではなく、《【主】よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。》 
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
写真はSさんより



0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages