2022.5.8 母の日礼拝「ひとりの神」申命記32章10~14節



今日は母の日です。この日に合わせて教会員の年配のお母さんの組会(エステル会)は数週間前から賛美の練習を積みました。コロナ禍のため練習量は多くはなかったのですが。YouTubeで聞いてください。
婦人たちの白いブラウスで会堂はいつもより明るく感じられます。その歌声に、人生の山や谷を共に通った日のことが思い出されます。牧師先生のお祈りもいつもより切々と心に響いてきます。主が私たちをご自分の瞳のように守ってくださるというイメージをを母の姿と合わせていました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。母の日おめでとうございます。今日は母の日礼拝ということで、エステル会のみなさまに賛美をしていただきました。おひとりひとりの信仰を乗せた歌声が主のみ前に届けられたこと覚え、感謝しております。

 数ヶ月前から準備を始めてくださり、集まりごとに練習を重ね、今日を迎えられました。ひとつひとつのご労と協力を見させていただき、み名をあがめております。教会の集まりとしての活動は、とても時間のかかることだと思います。私たちは週に1、2回集まり、話し合って活動をしますので、例えば会社のように5日間顔を合わせて行動していくことと比べれば、単純に考えて5倍以上の時間がかかることになります。これが私たちの「集まる活動」のスピード感覚です。
 教会は集まることと散らばることをリズムをもって繰り返しています。集まっている時には集まっている時の働きがありますし、散らばっている時には散らばっている時の働きがあります。働きとは、会社で仕事をすることに限定されません。学校で過ごすことも、家事をすることも、子育ても介護も、あるいは家族や友だちと旅行をすることでも、病院に通って医師や看護師と出会うということでも、子どもたちにとって幼稚園にいくということであっても、あらゆる働き(営み)があります。クリスチャンは集まって神の国を示し、散らばって神の国をもたらしているのです。そういうことですから、私が牧師としてひとつ心がけていることは、日曜日と水曜日の集まり以外の散らばっている時にみなさまを煩わせないことです。その代わりに背後でしっかり祈っていることです。そしてここに奉仕のバランスがあると思います。集まりのための奉仕が散らばる時の働きを妨げるほどであればやり過ぎです。一方で、集まれないほどに、散らばった時の働きが膨れ上がっているとすれば、これも考えてみなければなりません。そしてすべての働きを長年継続しても、過労にならない程度の範囲に収まっていることだと思います。
 今日の特別賛美を、企画からすべて担っていただいたこと本当に感謝します。木に新しい実が成ったことに感動しつつ、何よりもエステル会の祝福になりますようにお祈りしております。
 祝福のお祈りと共に、この朝は母の日にあわせた御言葉を開かせていただきたいと思います。今日の聖書箇所をお開きください。申命記32:10-14(374ページ)【聖書朗読】
 
 母の日のメッセージということですが、(最初からこのように言うと申し訳ないのですけれども、)語る者としてはとても気を遣うテーマです。母とはこういう存在であるとか、その役割こうだと話すことは、ひとりひとりの人権を軽んじて枠の中に縛り付ける行為として知られるようになっています。家事や子育て、介護といった特に負担のかかる役割が、女性、妻、母の担当すべきこととされ、一方的に負担を強いられることがありました。今でこそ、父親たちがベビーカーを押したり、抱っこ紐をつけたりする光景は当たり前になりましたが、それでもまだまだ負担には偏りがあると言われています。
 ある時代のある文化で母親たちの多くがこういう役割を持っていたと言うことは良いのですが、それで枠を作り、この枠にはまる人たちが母親ですよと言い出すと問題になるわけです。
 聖書をよく調べていきますと、ある人たちが思いこんでいることとは反対に、主が人の文化を尊重しておられる様子を見ることができます。人が自由に生きることを喜ばれ、また語らなければならないことがある時も、それぞれの文化に合わせてメッセージを語っておられることを知ることができます。イエス様も《真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:32)》とおっしゃっています。もし私たちが聖書を間違った方法で読んだりしなければ、ここには本当のフェミニズムがあるのです。そういうわけで、今日の話は母親だけに限られたメッセージではなく、他の色んな人にも関わっているところがあると思います。
 さて今日の聖書箇所は、主がどのようなお方か、モーセが民に思い出させている場面です。荒野とは、イスラエル人がエジプトからカナンに至るまで40年間さまよっていた場所です。町ではない場所。水や食料を持ち込まなければ生きることができないはずの場所です。彼らはエジプトから金銀を持ってきていましたから、襲撃にあうこともありました。城壁もない場所です。彼らは旅をしていて、襲撃する敵はその土地を熟知して待ち伏せているのですから、どれだけ不利で弱い存在であったことでしょう。しかし主は《これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られ》ました。どこに進んでよいか分からない民を《鷲が巣のひなを…羽に乗せて行くように…導き、》約束の地に入れてくださいました。約束の地は「良い土地」でした。そこはもはや荒野のようではありませんでした。《谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。》と主がおっしゃった通りの場所でした。高い所とは、自分の力ではとうてい羽ばたいても届かない場所のことです。鷲の翼に乗って、昇っていかなければ届かない場所です。
 《ただ【主】だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。》とはどういうことでしょうか。他の誰も頼りにできなかったということです。それらは頼りになるものではなかったのです。他の誰も頼りにならないという状況で、子供を守り育ててこられた方はいらっしゃるでしょうか。
 こうして主の姿を見させていただくうちに、私たちはあることに気が付くのではないでしょうか。私たちは祈る時に「天の父よ」と祈ります。それはイエス様がそのように祈ることを教えてくださり、それに従うように模範を示してくださったからです。今までもこれからも、「父よ」と呼びかけることは変わることはありません。しかしながら、主は私たちが想像し、こういう存在と思うものよりも大きなお方であることに気が付きませんか。
実に、主は私たちを生んでくださったお方であり、守ってくださり、導いてくださり、食べ物を作ってくださったお方なのです。今もそうです。
 また主は、産み、守り、導き、食べ物を作る役割を担っている人々が直面してきたあらゆる苦難を知っていてくださるお方です。見てください。イスラエルとの関係を。全能だから知っているでしょって、そんな生易しい状況ではありません。心を痛め、悲しみ、怒り、それでも心配し、期待し、助け、決して諦めない。これらを歴史上の事実として味わってこられたのです。主がご自分の民に向けておられる感情は、本当に激しいですね。燃える怒り、「私はあなたを知らない。他の神々に頼りたいならそこへ行け!」と言いながら、「どうして見捨てられるだろうか」と胸を熱くし、「私はあなたを救い出す」とおっしゃって、いかなる犠牲をも物ともせず、自ら呪いを負って助け出してくださいました。このような経験がない方は支離滅裂やと思うかもしれませんが、全然支離滅裂ではありません。こういうことはあるのです。子どもたちを産み、守り、導き、食べ物を与えてこられた方々には、おそらく思い当たる節のある感情でしょう。
 先聖日の説教で「ひとりの神である主」にふれました。歴史上のあらゆる時代と文化において、人々が崇めてきた神々にはそれぞれの担当部署がありました。雨を降らせる神とか、病気を治す神とか、自然界の命の神とか。そしてそこには女神もいました。どうして女神がいるのでしょうか。男の神々には理解してもらえない領域の問題があったのではないでしょうか。しかし主はひとりの神であられるといいます。「ああ、そうそう。キリスト教は一神教ね。知ってる知ってる。」「多神教と一神教があって、キリスト教は一神教なんだよね」そうですね。でも、「主がひとりの神であること」がどういう意味か、私たちはどれほど知っているでしょうか。主はあらゆる事柄を知っておられる、経験しておられる。それゆえにあなたを理解し、救い出すことのできるお方なのです。
 先程は、産み、守り、導き、食べ物を作る役割を担っている人々の話をいたしました。母親だけどその役割とは私は関係なかったという方もおられるでしょう。母親はそういう役割を担う人ですと決められているわけではありませんからね。しかし、ひとりの神がおられるということは、どういうことでしょうか。「ちょっとあなたは私の担当じゃないから、他の神をあたってくれる?」と言うようなお方ではないということです。あなたがどのような存在であっても、主はあなたについてもよく知っておられるということです。あなたが唯一、本当に頼ることのできるお方は主であるということです。
 実際、教会のメンバーを思いますと、女性が多いですね。「主はわたしを理解してくださっている」と証言する女性が多くおられることは何よりの証拠です。預言者サムエルの母であるハンナは、自分の思いを全く理解していない夫と自分を誤解している祭司と直面しながらも、主のみ前で祈り、ただひとりの神を知りました。祈りが応えられ、サムエルを主に委ねた後、彼女はこう言っています。《私の心は【主】にあって大いに喜び、私の角は【主】によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。【主】のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。(Iサムエル2:1-3)》
 さて、主が私たちの苦難を経験してくださったということは、裏を返すとどうなるでしょうか。私たちもまた主の思いを理解できるようになるということです。主がイスラエルに対して語っておられることは、論理的にはまるで矛盾しているように見えますが、その愛の心は、経験した人には分かるのです。感情的な言葉は聞きたくないという人がいても、もしあなたが主の心を知っていたなら、御言葉を理解し、その人に届く言葉で言い換えることができるでしょう。あなたは主の理解者となり、適切に通訳ができる人となるでしょう。主があなたを招いておられます。「あの人にもこの人にもメッセージを届けたいんだ。あなたは私の心を知っているのだから、上手にメッセージを届けてほしい」と招いておられます。
 
お祈りいたします。《主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。》
 
 天の父なる神様。あなたの聖なるみ名を賛美いたします。あなたはただひとりの神。あなたの他に私たちの岩はありません。
 私たちを生み、お世話し、食べ物を与え、育て、守り、導いてきてくださったことをありがとうございます。あなたがおられなければ、今の私はありません。またどれだけ私たちに忍耐し続けてきてくださったことでしょうか。それでもあなたのあわれみは尽きず、御子をお与えになったほどに愛してくださっています。あなたの喜ばれる歩み、それは私たちにとっても一番の祝福の道です。
 主よ。あなたが通られたのと同じように、忍耐とあわれみに生きてこられた母たちを祝福してください。あなたの招きに応え、良い知らせを伝える人々としてくださいますようにお願いいたします。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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