2022.4.17イースター礼拝「聖書の焦点・復活」ヨハネ福音書20章1〜29節


主の復活を信じるかどうか。これは私たちの信仰の根幹。私たちクリスチャンは信じています。見たことはないけれど。しかし2千年前使徒たちは、見たと聖書で証言しています、、、分かりやすく語ってくださった牧師のメッセージに感謝し、主の約束が成就された、記念すべき復活の出来事に喜びをかみしめました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

イースターおめでとうございます。年に一回、イエス様が死からよみがえられたことを記念する日です。イエス様は三十数年の地上生涯の最後に、ローマ帝国の死刑である十字架にかかって死に、墓に葬られ、3日目に復活されました。それはイエス様が私たちのところに来てくださった理由です。イエス様の生涯の焦点であり、聖書全体が伝えていることの焦点です。イエス様は復活されて、40日間、弟子たちに現れてから、天に昇っていかれました。今は神のみ座の右に座しておられます。パウロという人が後にこのように言っています。《キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。(Iコリント15:12-19)》クリスチャンは、イエス様が死なれたことと、よみがえられたことを自分の目で見た証言者が、当時500人以上いたことを2000年以上語り続けています。それは考古学的文章として、今もここに残っており(新約聖書)、クリスチャンはこれを大切に守り続けてきました。パウロが言っているのは、イエス様がよみがえられたことが嘘であれば、クリスチャンの信仰は何の意味もないし、クリスチャンは偽りの証人、つまり詐欺師だということです。本当にその通りだと思います。私たちはこれが本当に起こったことなのだと知り、また確かかどうか十分に調べ、その上で人々に語り続けているのです。

 その復活の出来事は週の初めの日の朝、つまり日曜日の朝でした。それでクリスチャンたちは日曜日の朝に集まって、聖書の朗読、祈り、会食をするようになりました。それは今も続いていて、教会は日曜日の朝に礼拝をしています。
 復活の日に起こった出来事を読んでみましょう。ヨハネの福音書20:1-29(227ページ)【聖書朗読】
 
 聖書を読んでみて、どうですか。クリスチャンは良く「信じる」とか「信仰」とか言いますね。だからイエス・キリストの復活も信じているのだろうと思っていませんでしたか。ところが聖書には、弟子たちがイエス様が復活したに違いないと信じたとは書いてありません。その代わりに、イエスの復活を見たと書いてあります。1節「石が取りのけられているのを見た」6節「亜麻布が置いてあるのを見た」8節には信じたという言葉がありますが、これはこの弟子(ヨハネ)がマリアの言っていたことを「あ、ホンマや」と信じたという意味です。彼はマリアの言ったとおりであることを見ました。18節、マリヤは弟子たちに「私は主を見ました」と言っています。20節、弟子たちは主を見て喜びました。そして最後にトマスも復活のイエス様を見ました。
 ヨシュア・プロジェクト(joshuaproject.net)が集めた統計によると、このような話を聞いたことがない人、クリスチャンとすら出会ったこともないという人は世界人口の42.4%となっています。もしあなたがこの話を初めて聞いたのでしたら、その42%にあなたも含まれているわけです。世界の半分以上(57.6%)の人たちは、イエス・キリストの死と復活の目撃証言が残っていることを知っています。そして、その57.6%の人々のうち、それを受け入れて信者となっている人は(世界人口の)32%です。つまり、大雑把に言えば、3人のうち、ひとりは何も知らず、もうひとりは少なくとも知っていて、もうひとりはその証言を受け入れているということです。
 もちろんどのような証言があっても、あるいは指紋などのような証拠や、ビデオの映像などがあったとしても、最後の一歩は信じる必要があります。これだけの証拠があるので、これは本当やなと信じるわけです。ですが、何の取り掛かりもないものを信じることと、証拠となるものがあるものを信じることは随分と違うのではないでしょうか。クリスチャンが信じている神様は(私たちは他の神々と区別して主と呼んでいますが)、目に見えないことを目に見えるように表してくださいました。これは聖書が語っていることの中でも、特に大切なことです。アブラハムには子供を与えてくださいました。モーセには燃え続ける柴を見せてくださいました。イスラエルの民にはシナイ山で、主が火とともに降ってこられる姿を見せられました。人々は主のことばが現実に現れるのを見てきたのです。現代の私たちが辿れる現実のものは、ナザレのイエスです。主ご自身が人となって現れてくださったのです。現代の歴史の専門家でナザレのイエスがいたことを否定する人はいません。聖書は取り掛かりもないものを書いているのではなく、私たちが調べられることを書いています。イエス様は弟子たちに手と脇腹を示され、トマスには《あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。》とおっしゃいました。十分な証拠を得て、《信じる者になりなさい》と言われました。イエス様の手には十字架にかけられた時に釘を打たれた跡があり、脇腹には槍を突き刺された跡があったからです。主がそのように言っておられるのですから、納得がいくまで調べてみても良いのだと思います。主は歴史に介入してこられました。それで、こうして聖書が私たちの手元に残っています。調べる手がかりがここにあります。
 しかしひとつのことは心に留めておいていただきたいと思います。それならやってみようと宗教の研究をするということ、あるいは研究みたいな小難しいことじゃなくて、わかりやすい証拠を見せてくれと祈ってみること、それはまぁ良いですけれども、それが何を意味するか、どこかで知ることになるということです。私たちは人と人の関係という中で、何気なくしていたことが、相手にどのように感じさせるか気付いていないことがあります。ある時に、ふと考えて、あれ、もしかしてとても失礼なことをしたのじゃないかとか、とても傷つけていたのではないかと急に気が付くことがありませんか。トマスは「私は主を見た」と言っている弟子たちに、《「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った》わけです。彼はその時点で自分が言っていることが実際にどういうことか気付いていなかったと思います。ところが、イエス様が目の前に現れて《あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。》とおっしゃった時、トマスは自分が言ったことの意味を知ったのです。彼は指を手に当てることはしなかったし、手を脇腹に入れることもしませんでした。_ その傷は単に釘を打たれた跡ではありませんでした。単に槍を突き刺された跡ではありませんでした。《「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)》と言っていたはずのトマス自身が、ゲッセマネの園でイエス様を見捨てて逃げ、不当な裁判を受けていると知って訴えることもせず、十字架をただ眺めていた、そのせいで釘が打たれ、槍で突き刺された傷跡なのです。その傷跡に手を差し込むことがどうしてできるでしょうか。_ 聖書に「主イエスがよみがえられたのを私は見た」という証言が書いてある。これだけで十分ではないのでしょうか。
 さて、ここまでイエス様が復活されたことについて話してきましたが、それはまだ話の核心ではありません。クリスチャンたちは単に「イエスはよみがえったんだ、すげぇな。イエスはマジで神だわ」と言って盛り上がっているのではないからです。別に蘇ろうが、何の奇跡をしようが、それだけでどうなるのですか。すげぇなで終わってしまう話でしょう。そんな理由でナザレのイエスを「イエス様、イエス様」と言って礼拝しているのではありません。それだけだったら、こんな分厚い本は要りません。A4の紙に「主イエスは死んで、よみがえられた」と書いておけば足ります。
 聖書は主がこの世界と私たち人を作り直されるといっています。主はこの世界とそこに置かれた人を丁寧に形造り、息を吹き込まれました。ところが世界も人も、また環境も社会も壊れてしまいました。どれだけ絶望的状況にあるのか、私たちは普段知らないかもしれませんが、いわゆる弱者と言われる立場に置かれた時、それは明らかに見えるでしょう。主は天と地をすべて作り直し、また人を造り変えて、もう一度、環境破壊も社会弱者ない世界、災害も病もない世界を与えてくださると言っているのです。しかし、そんな話、どこの漫画かゲームの話か、何を言っているのと思うでしょう。そこで主は世界と人が本当に絶望的状況にあることを実際の長い歴史の中で示し、救いのご計画を何千年もかけて何度も教えて来られたのです。それで聖書は66の別々の人物が書いた書物の合本となっており、最初の書から最後の書まで1500年も離れているので、こんなに分厚くなっているのです。その救いの計画は私たちが本当かどうか調べることができるものであり、ついに言われていた通りにイエス様が来られ、木にかけられて死んだ後、よみがえられました。「千年以上前から繰り返し言われていた通りに」ということがミソなのです。「よみがえってすげぇな、イエスは神だわ」ではないのです。「言われていた通りに十字架で死に、よみがえられた。ナザレのイエスは主だ。主イエス様だ!」と信じているのです。これが私たちの信仰です。
 そういうわけですから、イエス様がよみがえられたということは、私たちもまた、確かに変えられて、新しい天と地に残されるということです。パウロはこのように言っています。《聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠る(全員がその時点で生涯を終えて死んでいる)わけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパ(イエス様が帰ってこられる時の合図)とともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たち(その時点で生きている人)は変えられるのです。(Iコリント15:51-52)》イエス様の復活は私たちの希望です。
 チャールズ・ウェスレーという人が書いた讃美歌を、この一ヶ月ほど一つずつ紹介させていただいております。300年ほど前の讃美歌です。最近の讃美歌ですね。(讃美歌の中では。)讃美歌は古典ですので、時代の変化を越えてきたという点も大切なのです。 ① "主キリストは今日よみがえられた" 地と天は声を合わせて言う 喜びと勝利を高く掲げよ 天よ 地よ 応えて歌え ②愛であるお方の贖いのみ業は完了した あの戦いを戦い(Iテモテ6:12) 戦いに勝たれた 死は彼の復活を阻むことができない キリストはパラダイスを開いてくださった ③私たちの栄光の王は再び生きておられる 死よ お前の刺し傷は今どこにあるのか 一度死なれたその御方は 全ての者を救われる 墓よ お前の勝利はどこにあるのか ④私たちは舞い上がる キリストはどこに導かれるだろう 高く上げられた頭に従って 彼のように 彼のように私たちは高く上げられる 私たちの十字架 私たちの墓 私たちの空! ⑤天と地の主よ! 天からも地からも あなたに賛美が捧げられる 私たちもあなたに勝利の挨拶をします あなたの復活に万歳! ⑥栄光の王 たましいの喜び これこそ永遠の命だ あなたは知られ あなたの力は証明された だから歌うのだ それゆえに愛するのだ!
お祈りいたします。《トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」》
 
 天の父なる神様。私たちの力、またほめ歌であり、私たちの救いとなられた主よ。あなたこそ私たちの神。私たちはあなたをほめたたえます。約束の通りに、御子を世に遣わし、呪いの木にかけられて死ぬことを良しとしてくださいました。それはただ私たちを愛しておられるゆえです。
 この世の絶望をその身に背負い、呪いとなられたイエス様。私たちの罪と咎を代わりに担い、死を知る必要のないのあなたが、苦しみと恥を受け、死なれました。なんということでしょうか。しかし、あなたは死に勝利し、よみがえられました。復活のからだをもって弟子たちの前に現れ、彼らはそれを見たのです。それまでに1400年かけて書き残されてきた聖書があったにも関わらず、信じようとしないトマスをあわれんで、み傷に手を触れ、また差し込んでみても良いと言ってくださったイエス様。この期に及んで、そこまで私たちをあわれんでくださるのですか。あなたの愛のなんと広いことか、あなたのあわれみのなんと深いことか。
 そして、間もなくイエス様が帰ってきてくださる時、あなたを主と受け入れる者たちを、復活のからだへと、ついに変えてくださることをありがとうございます。あなたは確かによみがえられたのですから、私たちの栄化も確かです。あなたが帰ってこられる日を私たちは待ち望んでいます。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
                写真はSさん提供



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