2022.4.10主日礼拝「聖書の焦点:十字架」マルコ福音書15章20〜39節


ウクライナでは戦争はなかなか収らず、人々の不幸のニュースのたびごとに心が締め付けられる思いですが、あたりには花が奇跡のように咲き、かぐわしい香りが漂う春のまっ只中です。教会暦では受難週に入り、イエス様の死と復活が語られようとしています。
今日はメッセージの中でフェイク・ニュースを見分けるための3つの方法を教えていただきました!耳をダンボにして聞きました(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。爽やかな春の日が続いております。今週も新しい日の朝をみなさまと共に、主の食卓を囲みながら過ごせますこと感謝です。私たちの国籍は主の元にあり、こうして世に遣わされた私たちが、戻ってくるホームがここにあることを思い出したいと思います。これはとても大切なことです。主のみ元にホームがあることをいつも覚えているなら、マナが降り、岩から水が湧き出る恵みの荒野に私たちの休み場があることを思い出すことができます。そうでないなら、肉や野菜を好きなだけ食べられたエジプトに戻りたいと言い出してしまうことになるかもしれません。日曜日は遊びに行って、美味しいものを食べて、好きなだけ寝て、あ~あの頃が良かった、と。この聖書は何千年前の古文書ですか?あの頃から人は変わっていないのです。

 主はご自分の民の只中にいてくださるとおっしゃいました。私たちが集まる時、その中にいてくださるのです。日曜の朝、教会堂はどうして特別なところになるのでしょうか。この教会堂が神聖なのでしょうか。日曜日の10時半という日時が特別なのでしょうか。神殿を作ったのは誰でしたか。民がどこに移動しても、その只中にいてくださった主に、場所を指定してここにいてくださいと言ったのは、人ではありませんか。安息日とは特定の日時のことだったでしょうか。イエス様は律法を成就するために来てくださいました。その主が安息日を破っておられたのではなかったでしょうか。規則ではなく、主を愛し、隣人を自分自身のように愛することが律法であると教えてくださったではありませんか。
 日曜日の朝、教会堂が特別なところになるのは、ここに主イエス様の弟子たちが、兄弟姉妹が集まってくるからです。共に賛美し、祈り、聖書を読み、私たちが主の恵みによって生きていることを感謝し、国籍が天にあることを喜んでいるのです。ホームはどちらですか。休み場はどこにありますか。イエス様にとって世はご自分の造られた世界でありましたが、休み場ではありませんでした。《「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」》とおっしゃいました。世の楽しみは私たちの休み場になりません。御国が来ますように。「主よ、この群れの心の中にあなたの御座があります」と共に告白しようではありませんか。
 今日の聖書箇所をお開きください。マルコの福音書15:20-39(103ページ)【聖書朗読】
 
 イエス様が十字架にかかられたことを覚える受難週が始まりました。お配りした資料に受難週の出来事をまとめてありますので、参考にしてください。また藤本満先生からの霊想も用いてください。この受難週の出来事は、一日一日を追っていくだけでもひとつの説教になります。しかし礼拝は週に一度ですので、出来事をひとつだけ選ばなければなりません。来週はイースターになります。それで、やはりクライマックスである十字架の話をさせていただきたいと思いました。また、それを元にしたチャールズ・ウェスレーの讃美歌を後でひとつ読ませていただきます。
 さて、説教を準備するにあたって、クリスチャンではない方はイエス・キリストと聞いて何を思い浮かべるのだろうかと気になり調べてみることにしました。「イエス・キリスト」と検索して、ウィキペディアを見てみました。そうすると色々と書いてありました。でも、全然、人物の紹介になっていませんでした。せっかく興味を持って調べたのに、こんなものを最初に読んでいたら、もういいわと思ってしまうのではないかと思いました。イエス様はその人生で何をしたのでしょうか。一言で言うなら、「十字架にかかって死に、よみがえられた」のです。要点はそれだけです。これはイエス様の生涯の要点であり、聖書全体の要点です。
 一年かけて聖書を俯瞰してまいりました。話はどこに向かうのか。イエス様の十字架と復活です。イエス様が十字架で死に、復活されなかったのなら、今まで話してきたことは何の意味もありません。十字架と復活がなかったのなら、聖書には何の価値もありません。私たちの信仰も全く意味がありません。新しい天と地もありません。希望なんて気休めでしかないし、クリスチャンたちは心の拠り所のために信仰をもっている空しい人たちです。しかし、聞いてください。私たちは心の拠り所のために信仰しているのではありません。事実、イエス様自身が《人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。(マタイ24:9)》とおっしゃった通り、クリスチャンになれば時に平安どころか、苦しい人生となるのです。新約聖書時代のクリスチャンは信仰のゆえに迫害され、殺されていました。それでも信じているのは、希望が確かだと知っているからです。イエス様の十字架と復活が私にとって何を意味するか知ったから、イエス様に従っているのです。
 イエス様が十字架かかって死んだことと、死から復活したことは事実だとクリスチャンは言っています。片や、そんなの“教会”が自分の都合に合わせて作ったフェイクニュースだと言っている人たちがいます。どちらが本当でしょうか。こういった議論は情報社会の考えだなと思います。私たちはフェイクニュースが飛び交う世界に住んでいるのです。幸いなことはフェイクニュースを見抜く方法が教えられるようになったことでしょう。
 フェイクニュースを見分ける方法①「発信元を探りましょう」個人がこたつで考えたことを発信し始めた話なのか、取材に基づいた記者による発信か調べましょう。イエス様の十字架と復活を知らせているのはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書です。他にもペテロやパウロが書いた手紙があります。彼らは自分で目撃したこと、人々が目撃したことを元に福音書や手紙を書きました。誰が目撃したかも書いてあるし、その証人が生きている時にそれを書いたのです。読んだ人が本当かなと思って目撃した人に聞けば真偽はすぐに分かります。
 彼らにフェイクニュースを作る利益があったのでしょうか。教会と聞いて、中世の大聖堂や法王を思い浮かべていませんか。当時のクリスチャンは小さな教会堂すらなかったし、法王だっていません。イエスは神の子だと言えば殺されてしまう時代です。またパウロはクリスチャンを迫害して殺していた強者の側にいた人です。人々から認められパリサイ派のリーダーであった人です。クリスチャンからは警戒され、パリサイ派に戻ろうと思えば戻れたでしょう。名誉も金も全て捨てて、自分の死後、何百年か後にキリスト教がローマ国教になるのを夢見てフェイクニュースを作ったのでしょうか。それはないでしょう。
  フェイクニュースを見分ける方法②「他のメディアでも調べてみましょう」事実であれば、こっちの新聞社でもあっちのテレビ局でも、あるいはこっちの国でもあちらの国でも取り上げられるでしょう。先程申し上げた通り、イエス様の十字架と復活は複数の人が取り上げています。彼らは同じ会議室に集まって、こういう話にしようと決めたのではありません。書いた場所も時期もそれぞれです。同じ情報源を使った様子がありますが、それでもまとめる人が違えば色が変わるでしょう。それにもかかわらず十字架と復活は全ての福音書で結論となっています。
 いや、彼らはキリストの信者だから信用できないという方もおられるでしょう。キリスト教徒ではない歴史家の文章も残っていますよ。ローマの歴史家タキトゥスが「イエスはポンペオ・ピラトの時に十字架にかけられた」と書いています。十字架はローマの死刑だったのですから、総督ピラトやヘロデ王、ユダヤ人の法廷、兵士、あるいは過越の祭に来ていた人々のところに行って、証拠を手に入れることができたはずです。しかし、信者であってもなくても、誰も十字架刑があったことを否定しませんでした。そのような考古学文献はありません。復活は信じない人がいましたが、復活の証人が何百人もいることを否定していた人はいませんでした。ローマがキリスト教を迫害した時、イエス様の十字架と復活が嘘であると訴えませんでした。イエスをローマ皇帝よりも偉大な存在とすることは許さないといって迫害したのです。
 フェイクニュースを見分ける方法③「文章の表現を見ましょう」その人の意見なのか、事実を述べているのか注意深く読みましょう。見出しだけ読んで分かったつもりになってはいけません。「イエス・キリスト、十字架で処刑か!?」とか、「イエスは復活したらしい」とか、「十字架で死の後、3日後によみがえったと思われる」とか、そのように書いてあるでしょうか。伝言の途中で、ほのめかしから断定になっていったというのがフェイクニュースでしょう。でも弟子たちは、「私はキリストが十字架で死に、墓からよみがえられ、復活のからだで目の前に現れ、食事をし、教え、天に昇っていくのを見た」と言っているのです。あのトマスは他の弟子たちに説得されて信じたのでしょうか。彼もまた自分の目で見たのです。
 イエス様の弟子たちは「わたしはイエス・キリストが死んで復活したことを信じます」と言いましたか。新約聖書をよく調べてください。彼らはイエス様の十字架と復活を見たので、聖書と照らし合わせて、「イエス様が主であると信じる」と告白したのです。使徒信条も見てください。主イエスを信じますとあって、その後は事実の列挙です。
 では、現代の私たちは?私たちも見ていますよ。この本(聖書)は何ですか。見えるし、触れるし、ここにあります。沖縄の平和祈念資料館に行けば、戦争被害の証言集が展示されています。ここには中東の地層から発掘された古代の証言を翻訳したものがあります。
 こんなことを説教で説明する時代になりました。また次の時代が来たなと感じる方もおられるでしょう。何十年もクリスチャンとして歩んでこられた方々は、あの時代はこんな話があった、次の時代はあんな話があったと思い出されるでしょう。どの時代のどんな言いがかりにも、クリスチャンは答えることができたのです。それは本物だからです。嘘をつけば、新しい嘘をどんどん増やしていかないといけないので、どこかで破綻します。
 主イエス様は確かに十字架にかかって死なれたのです。その事実が何のためであったかは聖書に記されています。聖書は言っています。この世界は破綻し、理不尽になっていると。それは誰もが経験していることでしょう。災害も、戦争も、病気も、こんなことあってはならないと感じるでしょう。そのような理不尽な呪いから救い出すために十字架があった。十字架によって敵は海に飲まれて滅びることになる。それは先週話したとおりです。もうひとつ重要なことがあります。私たちは呪いを受けて苦しんでいるだけでなく、自分自身が呪いの原因になっていると聖書は言っているのです。アダムの話につづいてカインの話がありました。出エジプトに続いて、バビロン捕囚がありました。彼らは救い出し、豊かな恵みを備えてくださった主を知ろうとせず、脇に追いやり、かつて自分たちを苦しめていた者たちと同じことをしたのです。私たちも同じです。主は小さな弱い者を守られるお方です。そのために虐げる者を滅ぼされます。私たちも古代イスラエル人のように滅ぼされなければなりません。
 しかし、それにもかかわらず、主はあなたを愛しておられるというのです。「もう私は滅びるしかない。誰かの呪いになっているなんて、もうダメだ」と思っている人に「なぜ死のうとするのか」とおっしゃるのです。預言者エゼキエルはこのような主のことばを伝えています。《わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。(エゼ16:1)》
 呪いを滅ぼされるお方が、わたしに生きよと言っておられる。どうやって整合性が取れるのですか。罪を絶対に赦されないお方が、どうやって罪人を愛するのですか。_ 神の義と愛は、十字架で交わるのです!主はあなたの罪を背負って、身代わりとして滅びをうけてくださいました。王である主が、贖いの代価を支払ってくださったのです。《主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた》この御言葉は、何よりも十字架を示しています。
 もし私たちがイエス様の十字架の死を、私の身代わりとして受け入れるなら、私たちの滅びは残っていません。すでに完了したのです。私たちがすべきことは、イエス様の死が私の滅びを十字架にはりつけにしたと信じ、主の恵みに生きることです。主を脇に追いやる生き方をやめて、イエス様が言われたように、またご自身でも模範となられたように洗礼を受け、主を礼拝しながら歩む生き方を始めることです。
 チャールズ・ウェスレーの讃美歌を読みます。①なんと神々しい愛 あなたがしてくださったこと! 朽ちることない神が私のために死んでくださった! 御父と共に永遠にあられる御子が 私のすべての罪を負って木の上にかけられた あの朽ちない神がわたしのために死なれた 私の主 私の愛するお方が十字架にかけられた! ②通りがかる者は皆 彼を見よ 血を流しておられるいのちと平和の君を 罪人たちよ 来て 見よ あなたの創造主が死なれた そして言え 彼の苦しみほどのことが未だかつてあっただろうか! 私と来て 感じてみなさい 彼の血が塗られるのを 私の主 私の愛するお方が十字架にかけられた! ③私とあなたのために十字架にかけられたのです 私たち反抗するものを神に近づけるために 信じてください この真実の記録を信じてください 私たちは皆 イエス様の血で買われているのです すべての人の赦しが彼の脇から流れています 私の主 私の愛するお方が十字架にかけられた! ④さあ 彼の十字架の下に座ろう 喜んで癒しの流れを受けよう すべてのものは彼のため しかし失われています 考えたり 話したりしないで 私たちの心を彼に捧げよう 私の主 私の愛するお方が十字架にかけられた!
 
お祈りいたします。《イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」》
 
 天の父なる神様。あなたを憎む者には咎を報い、あなたを愛する者には恵みを千代にまで施してくださる主よ。この受難週の始めの朝、あなたの義と愛が交わる、御子の十字架を思い出させてくださり、ありがとうございます。私たちの罪はあなたの愛のゆえに、イエス様に負わされ、十字架上で代価が支払われました。私たちをもう一度買い戻してくださったことを感謝いたします。
 この良い知らせは、あらゆる時代に様々な口撃を受けてきました。叩くなら、すきなだけ叩いたら良いと思います。それによって増々、真理が明らかにされるからです。そんなことよりも、私たち自身が主を脇に追いやる生き方に戻ろうとしていないか、その方が重大な問題です。どうかいつもみことばを思い出させてくださり、特にイエス様の十字架を覚えていることができるようにしてください。
 あなたの招きに応える受難週とさせていただけますように切に願います。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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