2022.1.30主日礼拝 「苦難の日も 平穏な日も」第二コリント人への手紙1章3~11節

 














教会堂は屋根が新しく塗り替えられ、久しぶりに清々しい全体の姿を現しました。また、1年間会堂内の壁に掲げられる標語の絵も完成し、新しい年度の出発を実感する朝でした。短い礼拝の後、総会が開かれました。お説教では、コリント教会にパウロが出した手紙の中から慰めの溢れる言葉を味わいました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:IIコリント人への手紙1:3-11

説教題「苦難の日も 平穏な日も」
 
 今日の聖書箇所をお開きください。IIコリント人への手紙1:3-11(355ページ)【聖書朗読】
 
 コリント第2の手紙は、コリント第1の手紙の次に送られた手紙です。コリント第1の手紙がコリント市の群れに書き送られ、それが教会に読み聞かせられ、そしてその後の教会の変化があった後で、次に送られたのがコリント第2の手紙でした。第1の手紙は手厳しい内容でしたね。祈祷会でお話しした通り、群れの中に分派があって、互いに言い争いをしていたので、パウロは教会を諌めなければなりませんでした。右のページのIコリント16:22には《主を愛さない者はみな、のろわれよ。》と書いてあるほどです。IIコリント2:4には《私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。》と書かれおり、ここにパウロの気持ちが表されています。
 今度の第2コリント人への手紙は、前の手紙と打って変わって、パウロの感謝と喜びに満ちた手紙となっています。IIコリント7:9《今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。》とあり、分派は解決されたようです。主に感謝し、主のみ名をほめたたえている喜びの姿があります。
 その頃、コリント教会は迫害の中を通っていたようです。この迫害というのは現代の日本に住むクリスチャンたちが経験するレベルのものではありません。命が狙われる程の迫害でした。しかし、コリント教会は主からの慰めを受けていました。聖書を読めば、そこにはいつも救い出してくださる主の姿が書かれていました。そして、ここに記されているように、今も変わらず神のみ守りあるとの証が沢山ありました。パウロはエペソで命が救われたことを証ししています。イエス様が十字架上で歌われた詩篇22篇を思い出してみましょう。《わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。わが神 昼に私はあなたを呼びます。しかし あなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。あなたに叫び 彼らは助け出されました。あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。… あなたは 私に答えてくださいました。私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ 会衆の中であなたを賛美します。》あの十字架の苦難の日に、イエス様は慰めを受け、御父を賛美されました。同じように、私たちも苦難の日にこそ慰めを受け、主を賛美するものです。
 主の民の歴史を見ますと、彼らには苦難の日と平穏な日がありました。エジプトの奴隷になっていたり、荒野を彷徨っていたりした日があり、また約束の地で敵から守られて平穏に暮らしていた日がありました。どちらが良かったのでしょうか。平穏な日の方が良いに決まっていると思うでしょう。ところが平穏な日々になると、民は主を知ることを止めてしまったといいます。今日の私たちがあるのは主のあわれみと恵みによると認めなくなったといいます。残念なことです。主が私たちに願っておられることは、私たちが安息のうちにあり、主に全く信頼して、感謝し、互いに兄弟愛をもって愛し合っていることです。
 教会には苦難の日を通っておられる方と平穏な日を過ごしておられる方が一緒にいるところです。この後、総会があります。総会が開けるのは平時です。有事となれば、総会などやっている場合ではありません。戦争になって鉄砲の弾が目の前で行き交っているのに、総会を開く人はいないでしょう。大震災が起こって、避難所生活している時に総会も何もありません。大怪我をしてすぐに手術をしなければならない時に、総会があるから後にしてくれと言う人もいないでしょう。総会に出られるということは、平和だということ、安全だということ、健康だということです。しかし、それどころではない人も一緒にいる。それがイエス様の教会です。そしてそのような方々こそ、主の慰めを良く知っておられるのです。主の恵みを深く理解しておられる、また経験しておられるのです。そのお証から、良く学ばなければなりません。そういうわけですから、互いに仕え合いましょう。
 教会総会によって、イエス様の教会に筋をつけることはできません。総会の決議で教会を定義することはできません。それができるのは、ただ聖書だけです。よく目を覚まして、偶像礼拝に気をつけましょう。
 教会を建てあげるとはどういう意味でしょうか。聖書は何と言っていますか。エペソ4:13-16《私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。》私たち一人ひとり、兄弟姉妹がキリストの愛によって結び合わされること。それが教会を建てあげることです。建物を建てることではありません。制度や組織を作ることでもありません。それらは道具であり、目指しているのは愛による一致です。
お祈りいたします。《私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。》
 
 天の父なる神様。あわれみ深く、あらゆる慰めに満ちておられる主よ。この朝も私たちを慰めてくださり。ありがとうございます。人を創造されてから、どれほどの年月が流れたことでしょうか。しかしあなたは私たちを見捨てず、あらゆる苦難の叫びを聞き、救い出してくださいました。今、苦難の日のただ中にあるお一人ひとりをかえりみて、あなたに希望を置いて、より頼む者としてください。苦難を経験してきた先人たちの祈りを思い出し、また何より、十字架の苦難を通られた主イエス様を思い出すことができますように。
 主よ。平穏な日を過ごしている者たちにも、あなたのあわれみをお与えください。主の民が、あなたを知ることをやめ、偶像礼拝に陥った轍を踏むことがありませんように。この朝も、自分自身に頼らず、神に頼る者としてください。苦難を通る兄弟姉妹から、多くのことを教えていただいていることを感謝します。
 聖霊なる主よ。私たちの内を行き巡ってくださって、私たちを一つとしてください。互いに感謝し、互いに尊敬しあって、共に主のみ名をほめたたえる者たちでありますように。
キリストの愛によって、私たちをひとつに結びあわせてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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