2022.2.13主日礼拝「神殿:王の心と主の心」歴代誌第2・7章11〜22節


 



ことさら寒い毎日の上に、奈良県は大阪のベッドタウンのせいか、コロナ感染者も全国5位(?)とか。気分が下がります。しかし、お日様の光は少しずつですが、暖かみが増してきて、梅も開花し始め、早咲きの桜はもう蕾がはじけそうです。天地の創造者、主が生きておられることの証を見るようです。今年も春が近い!そして、私たちのために身代わりで死んでくださった主が復活されたお祝いの日、イースターも来ます。(Re)

[礼拝説教 ] 中尾敬一牧師

聖書箇所:II歴代誌7:11-22(765ページ)
説教題「神殿:王の心と主の心」
 
 おはようございます。今日も兄弟姉妹とともに週の新しい日の朝を迎え、イースターによみがえられた主を礼拝する時をもてますこと感謝です。やがて新しい天と地に残される希望を思い出し、満たされたひと時となりますように願います。
 我が家の子どもたちはおかげさまで元気に成長しています。話も随分上手になりました。ただ、分かっているようで分かっていないこともあるようです。先日も話を聞いていましたら、「今日は公園に行ったね。明日はスーパーで買い物したね」と言っていました。「スーパーに行ったのは昨日だよ。明日は寝てから起きたら明日だよ」と言ったのですが、果たして分かっただろうかと思いました。未来を教えることは難しいですね。自分はどうやって明日という概念が分かるようになったのだろうかと考え込んでしまいました。もちろん憶えていませんし、その道の研究者でもありませんので、知りませんけれど。素人考えで思い巡らせてみれば、一日がいつも同じ繰り返しなので、昨日と今日があったように、今日と明日があると分かるようになっていくのではないだろうかと思うのです。
 私たちは聖書を読みながら、人間の歴史、特に主の民の歴史を順番に追っています。これまでにも同じことが繰り返し、繰り返し起こってきたことを見てきました。こうして同じことが繰り返し起こっているということは、私たちにとっても重要なことだと思います。なぜなら私たちは聖書を読みながら、未来のことに希望を置いているからです。これまでの歴史が示していることは、人の知恵や努力によっては救いがないこと、世界の呪いが取り去られても、私たち自身が呪いの源であり、私たちが神の怒りを受けなければどうしようもないこと、主のあわれみと恵みが唯一の救いであること、主イエス様こそファイナルアンサーであることです。それを何度も繰り返しています。それゆえに、間もなく来る主の日に、イエス様が帰ってこられて、私たちの完全な救いがあると知っているのです。
 さばきつかさの時代、王様の時代、南北分裂、預言者の時代、捕囚と帰還。とてもややこしい時代の話に入っています。登場人物が一気に増え、地名も多くなり、時代によって同じ場所の地名が変わります。実はほとんどのクリスチャンが理解しようとすることを諦めてすっ飛ばしてしまっている部分ではないでしょうか。でも、大切な部分です。主の民がエジプトのファラオやカナン人たちと同じように暴虐と抑圧の源となり、主によって滅ぼされてしまう話です。気持ちが滅入ってしまいそうな話ですが、ここを通らずにイエス様の十字架の完全な救いを知ることはできません。聖書は患者に病を告知する医師のようです。手を打てば治るけれども、放っておけば死に至る深刻な病が進行していますよと。
 今日の聖書箇所をお開きください。II歴代誌7:11-22(765ページ)【聖書朗読】
 
 士師記、サムエル記、列王記、歴代誌を中心に聖書を開いているわけですが、皆さんの中でなんだか凄くモヤモヤする感覚ってないでしょうか。特に白か黒かはっきりしたいタイプの方にとっては、「結局、主はこれを良いことと思われたのか悪いことと思われたのか、簡潔に聖書に書いておいてください」と言いたくなるのではないでしょうか。もしそのような方がおられたなら、マーブル模様を想像してみてください。白いインクが広がっているところに、黒いインクをいくつか垂らして、水玉模様になりますね。それをゆっくり混ぜたらどうなるでしょうか。それがマーブル模様です。先週はダビデ王の遺言を読みました。まず「主の道をあゆみなさい」と言います。良いですね。ところがすぐさま「あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい」と言います。ええ!?。。。マーブル模様なのです。
 さて、ヨシュアが去ってからソロモン王までの時代を見ています。ソロモン王で区切っているのは、ソロモンの時代にエルサレム神殿が完成したからです。ソロモン王の次の時代でイスラエル王国は南北に分裂し、やがて次々に滅ぼされてしまいます。偉大な建造物が作られて、その後に人々が散らされてしまう様子は、以前にあった話(バベルの塔)を思い出させますね。今日は神殿についてみていきたいと思います。
 まず歴史を荒野まで戻してみましょう。イスラエル人は、シナイ山で主とお会いしました。その時、主はモーセに幕屋を作るようにと命じられ、詳細な設計を教えてくださいました。幕屋の最も奥深い至聖所には、十のことばの石版を入れた契約の箱が置かれました。こうして《わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。(出29:45)》《わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。(出33:14)》とおっしゃいました。幕屋から雲が上ると、主の民は荒野を移動し、雲が上らないと、上る日まで同じところに滞在しました。主がいつも民のただ中に住んでいてくださったのです。それは固定された場所ではありませんでした。
 それからイスラエル人がカナンに住むようになり、幕屋と契約の箱はカナンのいろいろな場所を移動していました。詳細な記述がないのであまり分からないのですが、エバル山(ヨシュ8:33)、シロ(ヨシュ18:1)、ベテル(士20:26)という場所に幕屋と契約の箱が移動したと記録されています。幕屋はずっと同じ場所になくてはならないという意識はありませんでした。律法には「主がみ名を住まわせるために選ばれる場所」という言葉が出てきます。主の民は祭りの時に、「主がみ名を住まわせるために選ばれる場所」でそれを祝うように、主から言われていました。それは約束の地カナンを指しています。一旦カナンに入ってしまった人たちにとって、「主がみ名を住まわせるために選ばれる場所」とはどこでしょうか。ここでもあり、そこでもあり、あちらでもあります。約束の地は広がりがある土地とお話しましたこと、覚えていらっしゃるでしょうか。それは主が私たちを導いて、置いてくださるところです。
 ところが、シロの祭司エリの時代におかしなことが起こりました(Iサムエル4章)。ペリシテ人と戦って劣勢となった時、契約の箱を戦場に持ってきたのです。ところが契約の箱を持ってきたのに、ペリシテに打ち負かされてしまい、箱を奪い取られてしまいました。その時、人は「栄光はイスラエルから去った。神の箱が奪われたから」と言いました。おかしいですね。主はイスラエルのただ中に住んでおられるのではないでしょうか。どんな時も、主が民を守られ、戦いの時には先頭に立って戦ってくださるお方だったはずです。民はそのことを思い出さず、契約の箱を動かせば、神である主を動かすことができると考えました。そして箱がなくなった時、主がいなくなってしまったと考えたのです。出エジプトも荒野の40年も知らない人々のおかしな出来事でした。その後、契約の箱は紆余曲折を経てイスラエル側に戻り、サムエルの時代もサウル王の時代も置かれたままになっていました。
 さて、ダビデ王の時代になりました(IIサムエル記7章)。その当時、ダビデはエルサレムに王宮を建てて住んでいました。このエルサレムという場所。ここは長い間エブス人が支配していた地域でした。カナンの中で占領されずに残っていた、どの部族にも属さない土地でした。ある時、ダビデはエルサレムに住むエブス人から悪口を言われました。それでエブス人を憎んだダビデはこの町を一気に討ち取り、ダビデの町としました。そしてダビデの町エルサレムに王宮を建てたのです(IIサムエル5:6-12)。この不穏な出来事はこのように締めくくられています。《ダビデは、【主】が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。》不穏な感じですね。主に伺った様子がないし、一言も主のことばがありません。結果的に成功した出来事を見て、主がそうしてくださったのだと言う。これは良いのでしょうか悪いのでしょうか。何とも言えませんが、保留しておいたほうが良いように思えます。マーブル模様が見えるでしょうか。ダビデはどの部族ともしがらみがない土地を実力で手に入れ、そこを政治の中心地としました。権力者としては優れた方法だったでしょう。しかし「約束の地は主が与えてくださった」と覚えるためには、ふさわしい場所だったのでしょうか。また彼は、ダビデの町エルサレムを宗教の中心地とするために、契約の箱をエルサレムに運び、幕屋を建てたのでした。
 そのエルサレムで、王位を確たるものとし王宮にいたダビデ王はこのように言いました。《「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」》王宮の隣に主の神殿を建てようと思ったのです。人の目には素晴らしいように見えた計画ですが、主の目には良いことではありませんでした。主は預言者を通してダビデに答えられました。《あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。… わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。》ダビデはここで気付くべきでした。「そうだった。主と私の立場が逆転してしまっていた。主は民のただ中に住んでおられるのだ。主の神殿を建てようなど間違った考えだった。それはやめよう。そして主のしもべである私も、王宮に住むのではなく民の中に戻ろう」と。この点ではサウル王の方が良かったのです。サウルは王宮を作らず、いつも自分の家に帰っていました。しかし、ダビデは主の神殿を建てる計画を捨てず、もちろん王宮を離れることもありませんでした。
 今日開きました箇所は、ソロモン王がダビデが計画した神殿建設を完了した時の出来事です。11節《こうしてソロモンは、【主】の宮と王宮を建て終え、【主】の宮と自分の宮殿について行おうとしていた、彼の心にあったすべてのことを見事に実現した。》ダビデ王とソロモン王の心。預言者を通して良いことではないと示されたはずの心。彼らはそれを通しました。この様子は、イスラエルが王を求めて主のみ心を損なったにも関わらず、頑なに王を求め、主がそれを認めなさったことと似ています。「主がみ名を住まわせるために選ばれる場所」は約束の地を示す言葉でしたが、主は王の祈りを聞き、エルサレムを王国全体を象徴する場所とされました。王の心と主の心の微妙なすれ違いをよく読み取っていただきたいと思います。主はいままで何度も語ってきたことを、もう一度語られました。「わたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守りなさい。ほかの神々に仕えてはならない。」主の心は全くぶれることがありません。主にとって、神殿は主の存在を示すものではなく、民の選択を示すものでした。残念ながら、最後には神の裁きが起こったことを、崩壊によって示すことになったのです。
 主イエス様はエルサレム神殿を祈りの場として慕っておられましたが、同時に神殿の本質を理解しておられました。エルサレム神殿の石垣を見て《「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」》と言う弟子に、イエス様は《「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」》とおっしゃいました。イエス様の十字架の日には神殿の幕が上から下に引き裂かれました。またイエス様が天に昇っていかれた後、ステパノはこう言っています。《ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの家のために、幕屋のとどまるところを求めました。そして、ソロモンが神のために家を建てました。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(使徒7:46-48)》パウロは、主に贖われたクリスチャンひとりひとり、またその群れが主の神殿であると語りました。そしてついに、黙示録で描かれている新しい天と地には神殿がありません(黙示録21:22)。
 私たちは主の心を自分の心としたいものです。自分の心と主の心がすれ違うようなことにならないように、聖書を良く読みましょう。コロナ禍に入り、私たちは教会堂とは何か再考する機会が与えられています。教会堂は主が住んでおられる場所ではありません。主が住んでおられるのは、私たちひとりひとりの内、また私たちの群れのただ中です。私たちが集まるので、教会堂に意味があるのです。私たちは「主がみ名を住まわせるために選ばれる場所」に集まり、主のみ前で兄弟姉妹とともに喜び楽しむように言われています。兄弟姉妹とともに主の食卓に着き、感謝してイエス様の体を食べ、血を飲むように言われています。集まるとは固定された場所に行くことを必ずしも意味しません。しかし、物理的に集まれないとしたら、どうしたら良いのでしょうか。同じ礼拝の様子を単に共有する以上のことであると思いますが、具体的にどうしたら良いのか分からない。それが今日の教会が抱えている葛藤です。今こそ、共に主の導きを祈るときではないでしょうか。
 
お祈りいたします。《こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る》
 
 天の父なる神様。滅ぶべき私たちを贖い、十字架の血によってきよめ、神の宮とし、内に住んでいてくださる主よ。この朝もみことばを与え、私たちを導いてくださることをありがとうございます。
 あなたはダビデに、彼の子孫が主の家を建てると教えてくださいました。それは神の御子イエス様のことであり、イエス様の王国はとこしえまでも堅く立っています。しかし人は、神のことばを都合よく解釈してしまうものです。主よ。どうかあわれんでください。あなたの心が私たちの心でありますように。あなたが私たちを導いてきてくださったこと、私たちが今日こうしてみ前でかろうじて心をあわせて礼拝できるのはあなたの恵みによることを思い出させてください。
 コロナ禍の波を6度もかぶり、今なおそのただ中にある私たちを顧みてください。試練は私たちの信仰を純化すると言います。火によって不純物が取り除かれると言います。あなたが教えておられる大切なことを悟ることができるように助け導いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。




大阪を囲んでいる山を越えれば奈良、王寺です。
法隆寺の聖徳太子の愛犬と言われる雪丸があちらこちらにいます。写真はFuminさんより。

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