2022.2.6主日礼拝「君主制も同じ」列王記第一 2章1~10節

   


寒い日が続いています。教会は総会を越えて係なども新しくされ、玄関先のお花たちも植え替えられてういういしく春を待っています。最初に、私たちは、聖書をおみくじを引くように扱ってはならないと注意を促されました。神の御心の奥深いところで聖書は全体がつながっているものだから、全体を知って理解しなければいけないと。(そのためにも多少退屈と思えるところにも大事なことが含まれている。飛ばさないで、先生の講解をゆっくり聞こう!)毎回、深い理解が加わります!(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師 


聖書箇所:I列王記2:1-10(593ページ)
説教題「君主制も同じ」
 
 おはようございます。コロナが蔓延しておりまして、オンライン出席の方も増えていますが、会堂かオンラインかに関わらず、共に心をあわせて礼拝の時をもてますこと感謝です。
 今日も聖書を共に学んでいきたいと思います。これまで開いてきた箇所も思い出しながら聞いてください。聖書の説教は全部繋がりがあります。私の説教と他の牧師の説教にも繋がりがあります。なぜなら聖書は小間切れの「おみくじ」ではなく、あらゆる箇所が互いに関係しながら、神の言葉を伝えているからです。
 人生の荒波に遭遇して、どうしたら良いのか途方にくれている方もおられるかもしれません。主は私たちの叫びを聞いて、助け出してくださることを思い出してください。どんなことがあっても、主は私たちの日々の必要を十分に与えてくださるお方であることを思い出してください。主が私たちを敵から守ってくださるお方であることを思い出してください。《にわかに起こる恐怖に、悪しき者たちの来襲に、おびえるな。【主】があなたの頼みであり、足が罠にかからないように、守ってくださるから》と聖書に書いてあります。こういった「神様の御心」と私たちが呼んでいる事柄は、繰り返し書かれているので、聖書のあらゆる箇所から見つかります。何か良いおみくじが出るまで、聖書をパラパラあちらもこちらも開いてみる必要はありません。そのように聖書を利用しないようにしましょう。主の御心は歴史の中で何度も何度も繰り返して現され、私たちに教えられています。
 主イエス様は人々から色んな質問を投げかけられました。その時、イエス様は、「えっと、チョット待って。確か今週の礼拝で朗読した箇所はどこどこの部分で、そこにはこのように書いてあったから、あなたはこうしなさい」と言ったでしょうか。安息日に人を癒やしてよいか聞かれた時、イエス様は安息日とは何かを説明なさいました。人里離れた場所で食べ物がない人たちをどうするか聞かれた時、主が必要を備えてくださることを示されました。嵐で沈みそうになって叩き起こされた時、嵐をしずめ、主が守ってくださるお方であることを教えられました。これらは聖書に示されている主の御心です。イエス様の言動は、質問の答えになっていないようにみえますが、実際には核心の答えなのです。
 私たちはイエス様の弟子なのですから、イエス様と同じように聖書を読みましょう。今日は聖書全体のどの部分の話をしているのか。今までの話はどのように繋がっているのか。ひとつひとつを蓄え、つなぎ合わせていきましょう。毎週の説教、また日々のディボーションはそのようにする時です。占いの時間にしないこと。そして苦難の日も平穏な日も、聖書全体を思い出してみることです。聖霊はみことばを思い出させてくださいます。
 今日の聖書箇所をお開きください。I列王記2:1-10(593ページ)【聖書朗読】
 
 先週は士師記から、さばきつかさたちの時代をみました。イスラエル民族はカナンに入り、部族ごとに所有地が与えられました。彼らは出エジプトの主、また荒野でマナを与えた主を忘れないで、主により頼んで歩むように言われていました。約束の地には選択肢があって、主により頼むなら祝福が、主を捨てるならのろいがあると予め教えられていました。ところが、イスラエル人たちは主を知りませんでした。知らないとは記憶を失ってしまったということではなく、「今日の私があるのは主の恵みによる」と認めないことです。主の救いによってひとつとなっていた民は、主を認めなくなり、部族主義に陥りました。様々な社会的駆引きが始まり、暴虐が起こり始め、聖書を忘れ、主がどのようなお方であるかすらも忘れていきました。主ヤハウェはカナンの神々と同じような存在であると理解するようになり、主に向かって子供の生贄をささげても誰も疑問に思わないほどでした。
 あまりに多くの問題が起こり、さばきつかさたちさえもメチャクチャだったので、士師記の最後にはこう書かれています。《そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。》_ この一文は2通りの捉え方がありそうです。ひとつは「王である主を捨てていた」という読み方、もうひとつは「民を収める君主制度がなかった」という読み方です。イスラエルの国に様々な暴虐が起こり、まるでカナン人と同じようになってしまったのは、何がいけなかったのでしょうか。今日は、イスラエルの王、サウル、ダビデ、ソロモンに注目してみたいと思います。
 士師記の時代が終わって、サムエルがイスラエルをさばいていた時代のことです。1サムエル記8章から書かれている出来事です。サムエルは自分の息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命しました。あれ、ちょっと嫌な感じがしますね。ギデオンの時と似ています。ギデオンは息子のアビメレクに後を継がせましたが、アビメレクは暴虐を働き大変なことになりました。本来、さばきつかさは、民が主に叫んだ時、主がそれに応えて興されるはずです。また、そもそも、民が主に叫ぶような状況にならなければ、さばきつかさは必要ないのです。イスラエルの長老たちは、この任命に反応しました。「サムエル先生、私たちを侵略者から守っていてくださるのは主です。主の召命がないのに、ご子息をさばきつかさにしないでください。私たちは主により頼みます。」と言うと思いきや。なんと、こう言ったのです。《どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。》《どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。》主がサムエルにことばを与えて、警告(Iサムエル8:11-18)をしたにも関わらず、長老たちは主の御心に従わず、王様を求めました。
 主は民のことばに応じて、サウルを選ばれました(Iサムエル9-10章)。この時、主は、王を選ぶのは主であることを明確に示されました。まず預言者サムエルに「サウルを王としなさい」と語りました。次にタボルの樫の木のところでしるしを与え、主の霊を下らせました。そして、最後は全部族を対象としたくじ引きでサウルを指名させました。三度も明確に、主が選んだ人が王となったことを示されました。こうして、イスラエルを本当に治めているのは王様ではなく、主であることを知るようにされました。
 一方で、2代後のソロモンの場合はどうだったでしょうか。ソロモンは主が選んだ人物でしょうか。_ ダビデの息子が次の王となることは、確かに預言者ナタンを通して語られていました。しかし息子は何人もいましたね。ソロモンが選ばれた経緯はI列王記1章にあります。それを見るとまるで権力闘争の有様です。アドニヤを王にしたい人たちとソロモンを王にしたい人たちがいます。ダビデ王はというと、「ソロモンを王にすると主に誓った」と言っています。あれ?次の王を選ぶのは先代の王の役目だったでしょうか。主がご自身の主権によって選ばれる者が、王であるべきでないでしょうか。サウル王のように。
 聖書を調べて、主がソロモンを選ばれたと記録されているのは、ダビデの証言です(I歴22:9)。「主はソロモンを王座につかせると私に語った」とダビデが言っています。おそらくダビデは嘘をついていないだろうから、主がソロモンを選ばだろうと私たちは理解しています。しかし、サウルの時と比べてどうでしょうか。誰の目にも明らかに主が選ばれたと分かる方法ではありません。主の存在感の違いをおわかりいただけたでしょう。
 王制が確立して、暫く経つと、前と同じことになってしまったのです。ここで士師記のようにナレーションをいれるとすれば、「そのころイスラエルには王がいて、王が自分の目に良いと見えることを行っていた」となるのではないでしょうか。
 今日開いた箇所は、ダビデがソロモンに遺した最後の言葉です。そこには2つのことがありました。ひとつめは「主のしもべでありなさい」ということです。ダビデが歴代のイスラエルの王たちの中で一番マシなのは、主のしもべであろうとしたことです。苦難の日に主を認めました。失敗した時には預言者ナタンの伝える主のことばを受け入れました。ところが、ふたつめの遺言はどうしたことでしょう。「あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい」と言って、シムイを殺すように命じています。隣人を愛しなさいと言われた律法はどこにいってしまったのでしょうか。こんな矛盾したことが、同じ人から同じ時に語られることがあるでしょうか。サウルもダビデも、王にならなかった方が幸せな人生だったかもしれないと思うことがあります。王になった人たちは徐々に宗教的、道徳的に破綻していき、家族関係に悲惨な結果を招くことになりました。
 ダビデが老いて、後継者を考えなくてはならなくなった時、イスラエルの人々はなぜ主に伺おうとしなかったのでしょうか。預言者ナタンさえも自らの知恵に頼って策略をめぐらしているようにみえます。サウルの時のように、主がご自分のしもべを選ばれ、それを明確に示されるように願わなかったのはなぜでしょうか。ダビデが証言するように、主がソロモンを選んでおられたのなら、人の策略をめぐらせる必要はなかったはずでしょう。
 もしかすると彼らはサウル王の時代が嫌だったのかもしれません。サウルは確かに主が選ばれた人物でした。しかし、王の資質に欠けていました。見た目は良かったけれど、実は頼りなかったのです。敵と対峙する時、いつも怯えていました。主が選ばれる人は頼りないことが多いですね。アブラハムは飢饉でエジプトに逃れた時、妻サライを妹だと言い、彼女の身柄によって安全を得ようとしました。モーセは同胞を救うことに失敗して、自信がなく、アロンに付いてきてもらってやっとファラオの前に行きました。エリヤはイゼベルが怖くなって逃げ出しました。ペテロはイエス様の無罪を訴えるべき場面で、そんな人は知らないと三度も言いました。このような資質に欠けた人たち、弱い人たちを主は選ばれました。どうしてでしょうか。_ 民を救われるのは主であると、民が知るようになるためです。選ばれた人たちは主により頼むことを求められ、主の民もひとりひとりが主を頼みとすることを求められたのです。
 ソロモンは知恵があり、外交手腕も秀でていました。彼が沢山の妻をもっていたのは、外国の王家から妻を迎えていたからです。平和のための外交手段でした。彼の名前はソロモン(シャローム)すなわち平和という意味です。いい名前だと思うでしょう。ところがI列王記2章には、ソロモンがアドニア派の人間を粛清したと書かれています。そして2:46で《こうして、王国はソロモンによって確立した》と締めくくられているのです。暴力によって確立した平和でした。彼は外国に対して強く、また自国民も奴隷にしてしまいました。強制労働を課したと書いてありますね(I列12:4)。まるで私たちのお隣のあの国のようです。人びとはこれを求めていたのでしょうか。
 イエス様はある時、野の花を見なさいとおっしゃいました。そしてこう言われました。《わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。》ダビデ王の後継問題に策略を巡らす人々の心のうちにあるのは何でしょうか。心配です。「サウルみたいな頼りないのになったら、えらいこっちゃ」と。でも、イエス様は野の花を見なさいとおっしゃいました。私たちが雑草と呼んでいる、誰もお世話をしていない花です。誰がそれをお世話しているのですか。世界を造られた主です。太陽を昇らせ、雨を降らせている主です。そんな野の花でも、ソロモンよりも良いではありませんか。外に出て、自然を見てください。それは明らかです。
 結局、イスラエルはどうしたら良かったのでしょうか。私たちはどうしたら良いのでしょうか。主の恵みにより頼んで生きることです。イエス様は野の花の話をこのように締めくくられました。《ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。》ただ主を頼みとして歩みましょう。
お祈りいたします。《野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。》
 
 天の父なる神様。空の鳥に食べ物と住処を与え、野の花に太陽と雨を備えていてくださる主よ。あなたの豊かな恵みのゆえに、み名をあがめ、心から感謝いたします。
 私たち、人は、野心を持ち、策略を巡らせ、嘘と愚かさと冷酷さに身を委ね、将来を心配しています。着るもの、食べるもの、住む所はいつも人々の心配の種です。人々はお金があれば大丈夫、保険に入っていれば大丈夫、友達や家族がいれば、仕事があれば、土地や持ち家があれば、国の制度があれば大丈夫だと考えています。しかし、外に出て自然の動植物をみれば、衣食住が備えられている生き物たちを至るところで見つけることができます。私たちは一体何を心配しているのでしょうか。主よ。私たちの目を開いて、あなたの恵みを気付かせてください。あなたにより頼み、感謝して歩むことを教えてください。
 主であるあなたを脇に追いやり、まるで自分の手で平和を築いているかのように考えている、人間の傲慢を打ち砕いてください。神の国は主が治めてくださるところ。主により頼む者たちの住む所です。神の義は、約束を果たしてくださるあなたの誠実さです。どうかあなたの真実の愛によって、私たちを守り、養い、導いてください。《まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 【主】の家に住まいます。》
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

女性が司会の役を担うのは王寺教会59年の歴史で初めてのことです。



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