2022.1.23 主日礼拝 「おかしな士師たち」 士師記11章29~40節


1月もそろそろ終わり、来週の日曜日には礼拝に続いて教会総会を行う予定です。年に1回の大事な集会です。
今日はキリスト教会にとって総会の意味について理解を深めました。旧約聖書の士師記から語られます。
魅力的な人物のいない、むしろ反面教師になるリーダーたちの姿が描かれていて、あまり面白い箇所ではないですが、解き明かしによって理解を深めました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:士師記11:29-40(450ページ)説教題「おかしな士師たち」

 おはようございます。今日も会堂で、またオンラインでようこそお集いくださいました。イエス様がパンとぶどう酒を用意してくださって、食卓に置き、私たち一人ひとりを招いてくださいました。心から主に感謝し、主に仕えているお互いであることを確認し合いましょう。
 来週の礼拝を短く持ち、その後に教会総会を開催いたします。12時までには終われるようにと考えています。ところで、この年に一度開かれる総会ですが、実は教会にとって危うい瞬間であることご存知でしょうか。
 構成員全員が意思決定する総会は、民主主義の社会では非常に大切なものであり、どのような会社も団体も年に一度は総会をもっています。収支報告を行い、適切に運営が行われていることを示し、ビジネスであれば利益を生み出す計画を認めてもらって、それに投資してくださいと言ったりするわけです。教会が総会を行うのは証のためです。違法行為をしていないこと、テロなどを画策する秘密組織ではないことを証ししています。しかし、私たちが注意深く心得ていなければいけないことは、これはこの世を生きる者としての証であって、神のご計画によって行われていることではないということです。主のご計画(御心)は聖書に記されています。聖書の中に、教会は年に一度総会を開きなさいとは書いてありません。先週、士師記1章で、ユダ族がカナン人を追い払えなかったので、イスラエルの中にカナン人が住み続けていたことが書いてありました。それは現実的に避けられないことでした。ユダ族はカナン人と隣同士で住みながら、主を知りつづけなければなりませんでした。これに通じるものが総会にあります。今の時代を生きる限り、教会は総会と無縁ではいられません。これからも必ず行っていきます。
 そうですから、目を覚まして価値観の逆流が起こらないように気をつけましょう。今日の私たちがあるのは、ただ主の恵みによります。主を忘れて、異教の神々に仕えることがあれば、群れは試練にあい、頑なになり続ければ安息を失うことになります。身近にある異教の神々とは何でしょうか。そのうちのひとつを実はみなさんも毎日持ち歩いています。どこにありますか。財布の中です。現代の無宗教とよばれる宗教に属する人は富に仕えているのです。気をつけましょう。士師記は現代のクリスチャンに多くのことを語っています。いまの王寺教会があるのは、運営が巧みだったからではありません。指導者が卓越していたからではありません。沢山の献金があったからではありません。主がわたしたちをあわれみ、導いてくださったからです。
 士師記を詳しく見ていきましょう。今日の聖書箇所をお開きください。士師記11:29-40(450ページ)【聖書朗読】
 
 先週は士師記2章を読みました。2章に書いてあることを士師記の時代は繰り返していますと説明しました。その繰り返しには区切りの一文があります。「イスラエルは主の目に悪であることを行った」この文が出てきたら、そこで一区切りです。ひとつの区切りの中にさばきつかさがひとりの時もあれば、ふたり以上出てくる時もあります。例えばギデオンとアビメレクの話はひとつの区切りの中にあります。
 士師記に出てくる主なさばきつかさは、オテニエル、エフデ、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンです。こうして名前を並べると、歴代の英雄のようです。ところが士師記を読みますと、どうして彼らが選ばれたのだろうかと不思議に思うような人々が含まれていると分かります。オテニエルは名家の出身であり、戦いでの業績もありました。誰が見ても相応しいと言われる人であったと思います(士1:13、3:9)。一方でエフデは小さなベニヤミン族出身で左利きでした。現代では右利きか左利きかで優劣が言われることはありませんけれども、この時代にわざわざ左利きと書いているのは意味があります。戦いも巧妙なやり方でした(3:15)。そのエフデを主は救助者とされました。デボラは女性でしたが、預言者として召されていました。このデボラまでは社会的な評判のことですので、まあまあ良いのですが、次のギデオンから「あれ?」という感じが出てきます。
 ギデオンは無力感の塊のような人でした。イスラエルが略奪を受けている原因を洞察できず、主から行けと言われても決意できず、火が岩から燃え上がるのを見るまで信じず、偶像を夜中に壊した後、父の影に隠れているほど勇気のない人でした。ミディアン人との戦いの前夜になってもまだ恐れていました。そのようなギデオンを主は選ばれました。次のエフタは遊女の子であり、憎まれて一族から追い出された人物でした。いざ戦いの時になって、「帰ってきて助けてくれ」と言う人々に嫌気がさしていました。消極的で、暴力的であり、イスラエルを敵から救いたいと思っていませんでした。しかしそのエフタに主の霊が下り、アンモン人を打ち倒しました。最後のサムソンは信仰深い女性から生まれましたが、暴力と愚かさと性に溺れる歩みをしていました。イスラエルを敵から救うという使命にほとんど興味がありませんでした。そんなメチャクチャなサムソンに主はご自身の霊を下されたのです。それはなぜでしょうか。イスラエルは英雄によって救われたのではなく、主ご自身によって救われたと示すためです。士師記は英雄の物語ではありません。幾度にも渡って、主がご自分の民を救い、悔い改めを求め続けておられる話なのです。
 ヨシュア記を終えて、士師記に入ると、あることが変わっています。モーセもヨシュアも、「主のしもべ」と呼ばれていました。ところが士師記に入ってから、Iサムエル記で幼子サムエルが「しもべは聞いております」と祈ったところまで、主のしもべが出てこないのです。士師記に出てくるさばきつかさは、特に後半に行くにつれ、どんどんおかしくなっていきます。今日開いた箇所はエフタの話の途中ですが、とってもおかしなことが起こっていますね。エフタは主に誓願を立てて「人を全焼の生贄としてささげます」と誓いました。そして娘を生贄としてささげてしまいました。モーセの律法、すなわち聖書を知っている人ならすぐに間違っていると分かります。律法には明確に「人を生贄としてささげてはいけない(レビ20:2)」と書いてあるからです。それはカナン人が行っていたことで、主の民は絶対にそれを真似てはいけないと言われていたのです。ところが、エフタはそれを知りませんでした。彼が勝利したのは誓願と何も関係がないのです。彼はさばきつかさとして用いられたにもかかわらず、主がどのようなお方であるか全然分かっていませんでした。カナン人から影響を受け続けるうちに、カナン人の神々と主ヤハウェの違いが分からなくなっていたのです。彼だけでなく、誰一人として聖書を開いて、間違いを指摘できる人がいませんでした。
 主がエフタを起こして、主の霊を下し、イスラエルを救ったのは、ただ主だけが私たちを救い出したと思い出させるためです。あの出エジプトを思い出させるためです。主に選ばれたからといって、主の霊が下り偉大なわざを成したからといって、その人が神のようになったわけではありません。その人の言葉が神の言葉のようになることはありません。民を導く人に求められることは「主のしもべ」であることです。モーセとヨシュアが語った言葉を思い出してみましょう。申命記13:1-4《あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの神、【主】を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、【主】に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。》ヨシュア記23:3-8《あなたがたは、自分たちの神、【主】が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】である。… モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがりなさい。》主の命令と掟はどこに書いてあるのですか。聖書です。モーセの律法に記されていることは何ですか。主がイスラエルをエジプトから救い、荒野で養い、約束の地に導いたことです。ただ主だけでこれを導いたのです。この教えから右にも左にもそれてはいけません。モーセの律法が記された後の時代の民を導く人たちは、いつも聖書を守り行う人、「主のしもべ」でなければいけないと言われています。ところが士師記のさばきつかさたちはそれができていませんでした。こうして主の存在はどんどん脇に追いやられていきました。
 士師記は今日の教会に多くのことを語っています。反面教師として学ぶべきことが沢山記されています。私たちは聖書にある神のご計画を聞こうとしているでしょうか。神の御心を知ろうとしているでしょうか。今のプロテスタント教会はいくつものことを世の価値観から逆流させてしまっています。宣教はまるでビジネスのようです。人々は神の言葉より、指導者の掲げる未来像に注目しています。指導者たちは聖書から一部だけを切り取って、ビジョンに裏付けをさせています。その姿は主のしもべではなく、神を自分のしもべにしています。
 モーセはある時、このように言いました。《【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(民11:29)》預言者は主のことばを伝言する人です。つまり、「民がみな、直接、主から聞いたら良いのに」という呟きでした。モーセが預言者になったのは、民が主の臨在をみて死んでしまうと恐れたからでした。民に頼まれて、主のことばを伝言しているのに、民は聞き従わず、モーセの苦悩はどれほどだったかと思います。ふとした呟きにモーセの気持ちが現れている印象深い箇所です。しかし、主はあわれみ深いお方です。主はこれを実現してくださると約束してくださいました。ヨエル書2:28-29《わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。》誰か一人が主のことばを伝言しなければいけない状況は終わると約束してくださいました。
 主のことばは聖書に記されています。主のご計画(御心)は聖書全体で説明されています。夢や幻は、私たちが寝てる時に見るのではありません。聖書にしっかりと書いてあります。私の夢ではなく、主の夢です。私の幻ではなく、主の幻です。ところが、現代の教会は何をしているのでしょう。このヨエル書を開いた後でさえ、一人の指導者が出てきて、自分の夢を語っています。聖書から一部を切り取ってきて、裏付けすることさえ平気でしています。そのようなことをすれば、エフタの二の舞となるのです。彼は自分の娘を生贄としてささげてしまいました。
 主のしもべたちを見てください。パウロはどうやって宣教したのでしょうか。自分の夢や幻を打ち出したのでしょうか。いいえ、神のご計画、神のご計画と言っていたではありませんか。彼は神のご計画に従って、ユダヤ人に悔い改めを求め、異邦人に福音を伝え、教会を建て上げるために労したのです。
 私たちは教会総会を前にしておりますが、士師記からよく学び、反面教師としましょう。牧師は主のしもべです。語っておられるのは主であり、主のことばは聖書に記されています。聖書を誤解しないで理解することができるように説明しているだけです。主を恐れ、その御声に聞き従い、主に仕え、主にすがって歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。《モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがりなさい。》
 
 天の父なる神様。アブラハム、イサク、ヤコブの主よ。私たちを偉大な力によって救い出し、暗闇から導き出してくださったことを心から感謝いたします。御子イエス様の十字架によって私たちは救われました。ありがとうございます。
 どうか私たちを、あなたの恵みを一時も忘れず、主に仕え続ける者としてください。あなたの深い愛と恵みの教えから右にも左にもそれることがありませんように。この世で生きる限り、他の神々と無関係で過ごすことはできません。目を覚まして気をつけていることができるように助けてください。
 教会の指導者と呼ばれる者たちを、格別にあわれんでください。主の忠実なしもべであり続けれらますように、試みを乗り越えさせ、みことばの悟りを与え、あなたとあなたのわざを伝える者としてください。
 あなたのご計画を聖書によって教えてくださりありがとうございます。その偉大なご計画がたった1冊にまとめられていることは驚きです。しかし、それでも私たちにとって膨大なページ数であり、大変理解が難しいのです。どうかあわれんでください。ヨエル書で約束してくださったことを、あなたの誠実さに従って果たしてください。お一人ひとりが聖書からあなたの夢と幻をはっきりと読み取ることができますように導いてください。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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