2022.1.16 主日礼拝「主とそのわざを認める」士師記2章6〜23節


凍えるように寒い日が続いています。オミクロン株の感染の拡大が止まりません。
これからどうなる?しかし、蝋梅の芳しい香りで気持ちが和みます。また、今教会堂の屋根を緑に塗り替えています。仕上がるとどうなる?それも楽しみです。
また、聖書の言葉は私たちの心の向きを変えてくれます。
まだ手に入っていない主の恵みを見るかのように思えるからです。(Re)

[礼拝説教]  中尾敬一牧師

聖書箇所:士師記2:6-23(427ページ)

説教題「主とそのわざを認める」
 おはようございます。今日もようこそ礼拝にご参加くださいました。会堂で、またYouTubeを通して、皆様と共に主を礼拝できます恵みに感謝したいと思います。コロナの第6波に入りました。感染した場合の危険性が高い方、またその同居の方にはオンライン出席をお願いしております。感染症対策も今一度、引き締めてください。
 先週は病などで試練を通られた方々が多かった週でした。祈祷会で次々に祈りの課題が挙げられましたので驚いたことです。お祈りしております。肉体的困難が起こる時は、精神的にも不調が起こってきます。また霊的にも不調が起こりやすくなります。生きる意味が分からなくなる。神に失望する。罪意識が過剰になる。恨みや敵意を持つ。宗教的集まりをやめてしまう。神との一体感を持てない。助けられることが苦痛になる。牧師が嫌いになる。などは霊的不調の症状です。一人の人間は肉体と精神と霊が統合されていますから、肉体的・精神的困難が霊的不調を引き起こすのも実は自然なことです。こういったことは私たちが風邪を引いてしまうように、どんな人にも起こりうることです。ですから、ある程度、自己診断して対応を行う必要があります。
 霊的不調にある時には、聖日の説教を聞くのがしんどいことがあります。なぜなら、聖日の説教は基本的には健康な人に向けて語られている、いわば霊的なカツ丼だからです。それは力をつけ、病を予防するための栄養ある食事です。でも、風邪の人にカツ丼は大変なのです。霊的なお粥と休息が必要でしょう。むしろ兄弟姉妹の励ましを受けたり、賛美したり、祈ったり、詩篇や困難の時のための信仰書を読んだりする必要があります。また肉体的・精神的困難の解決も必要です。時に牧師と個人的に話したり、祈ってもらったりすることが役立つでしょう。(※軽症の人が殺到すると医療崩壊ならぬ牧会崩壊が起こるのですが。でも必要な時には相談してください。)
 それでは聖日の説教もお粥にすればいいじゃないと言われるかもしれませんが、それはそれで問題になります。病気からの回復を繰り返したいために「霊的不調でいたい症候群」になることがあるからです。問題が解決するとどうして良いか分からなくなり、礼拝することをやめ、また問題が起こると神様のところに来るということがあり得るのです。聖書には霊的健康な人に語るカツ丼のような御言葉があります。よく噛んで、消化して、体を力づけ、健康を維持していくための霊的糧です。
 今日の聖書箇所をお開きください。士師記2:6-23(427ページ)【聖書朗読】
 
 今日からはヨシュアからソロモンの時代を見ていきたいと思います。ヨシュアの時に主の民は約束の地を与えられました。荒野を通っている間、イスラエルはひとつの民族でした。12のグループがありましたが、彼らはみんな一緒に移動し、ひとつの幕屋も民と共にありました。それから、ついに約束の地を与えられ、部族ごとに所有地がきまりました。レビ族は所有地がありませんでしたが、それぞれの部族の土地の中に住む町を与えられました。彼らは定住し、カナンの地に散らばりました。こうして主の民は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。と言いたいところなのですが、聖書はここで終わっていません。ここからエデンの園から続く歴史を思い出させるような出来事が起こっていきます。やがてイスラエルは安息の地を失ってしまうのです。何が起こったのでしょうか。
 イスラエルはアブラハムから始まりました。初めはひとつの家族でした。それが一族となり、ヨセフの時代に70人がエジプトに移住しました。エジプトでさらに数が増え民族となりました。ヤコブの子供が12人でしたから、それぞれの子供がひとつの家族、一族となって、12の部族ができました。彼らは段々と増えていったのです。素晴らしいことですね。良いことですね。彼らはずっと一つの共同体でした。ひとつの歴史を共有し、アブラハム、イサク、ヤコブの神に仕えていました。同じ幕屋で生贄をささげ、祈っていました。それからカナンに所有地が与えられ、それぞれの土地に住むようになりました。するとそれぞれの土地に様々な問題が起こり始めました。ひとつの部族に敵が攻めてきた時、イスラエル全体がそれと戦うはずでしたが、戦いに参加する部族と参加しない部族が出始めました。文化の違いも出来始めました。ひとつの幕屋で礼拝することが物理的に難しくなり、それぞれの地域に礼拝所が出来ていきました。やがて歴史観も変わってきます。アブラハム、イサク、ヤコブの神を忘れ、自分の部族の歴史を考えるようになりました。
 教会でもこのようなことがありますね。「教会の歴史」といって何を想像しますか?最初はあの長屋で礼拝していて、それからここに移転して、会堂を増築して、あの時、あの兄弟がこれこれ、あの姉妹がこれこれ。王寺教会の歴史を思い出しますよね。イエス様がペテロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます(マタイ16:18)」とおっしゃったことや、ペンテコステや、ニカイア公会議とか、東西分裂とか、十字軍遠征とか、修道院運動、宗教革命、大宣教時代、リバイバル運動。そういった事はあんまり思い出さないでしょう。あるいは、隣の教会のことはどれだけ知っていますか。王寺教会から一番近い教会ってどこの教会でしょう。どんな人が集まっているのでしょうか。彼らはいま何をしているのでしょう。礼拝でどんな讃美をして、どんな説教を聞いているのでしょうか。全然知らないですね。そのような状況がイスラエルの国の中に起こり始めました。
 士師記の1章には所有地に入った部族がカナン人と戦ったことが記されています。そこにはアドニ・ベゼクという王を完全に打ち負かしたことと、カナン人を追い払えなかったことと、カナン人を追い払わなかったことが書いてあります。戦いの成功と、一部失敗と、完全な失敗です。とても現実的な話だと思いませんか。理想的にはいっていない。非常に複雑な状況が起こりました。ある地域にはカナン人が少数派として残っています。強くなった時にはコントロールできました。ある地域ではイスラエル人のほうが少数派で、彼らはカナン人のただ中に住むことになりました。このことが後々に様々な問題を引き起こしていくのです。特に覚えておきたいことは、イスラエルがカナン人を追い払えなかったことがあるということです。約束の地では、どんなに頑張っても問題の種が残っていることがあったのです。人間の限界という非常に現実的で複雑な状況の中で残された試練でした。
 教会でも同じようなことが起こっています。問題の種を抱えていないことは一時もありません。役員や幹事など歴任されてきた方はよくご存知でしょうし、そのような立場でなくても、現実的で複雑な問題の種が教会にはあると知っておられることでしょう。問題の種がひとつもあってはいけないと思い始めますと、役員さんであっても気が参ってしまうに違いありません。しかし、私たちがそのような問題を見つけたとしても躓くことがありません。この士師記があるからです。救われて約束の地に入った民が、どのような歩みをしていたか知っているからです。そこには複雑な状況が必ずあるのです。
 今日お読みした箇所は士師記全体を要約しています。カナン人が残っているという状況の中で、主の民はその後の歩みを間違えていきました。10節《その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、【主】を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。》ここで「知らない」と書いてある言葉ですが、知識として知らないという意味ではありません。もし主の存在を全く忘れてしまったのなら、そもそも士師記の中にヤハウェという言葉が出てくるはずがありません。モーセ五書も保存されることはなかったでしょう。もし聖書がモーセの時代の地層からしか出てこなくて、それ以降の新しい地層には見当たらないということなら、イスラエル人は主を忘れてしまったのです。でもそのようなことは起こっていません。「ヤハウェを知らない」とは、これまでの歴史が主によって導かれてきたことを認めないと言う意味です。いまここに私たちが存在しているのは主のわざによると認めない世代が出てきたのです。エジプトから脱出できたのも、カナンに入ることができたのも、偶然なんじゃないと。その時は奇跡的に思えたけど、今落ち着いて考えたら、神が私たちを救い出したということではないよねと。12節《彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、【主】の怒りを引き起こした。》バアルは雨を降らせる神として祀られていました。農業にご利益をもたらすものに頼ろうとしたのです。主が先祖を助けてくれたかどうかは別に興味はない。大事なのは今、雨が降るかどうかだと。これが問題だったのです。主が聖絶しなさいと言われたのに、しっかり聖絶しなかったこと/聖絶できなかったことは確かに問題でしたが、一番の問題は主を知ろうとしないことでした。
 14-15節《【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ行っても、【主】の手は彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。》恵みの主がわざわいをもたらされるとはちょっと驚きですね。しかし、主はえこひいきのないお方です。主の民であろうとなかろうと、暴虐を働く者にはわざわいをもたらされます。エデンの園の後の話を思い出してください。人は呪いを受ける存在から、呪いを生み出す存在になり、荒廃と暴虐の道を進んでいきました。主を離れた者は気付かないうちに暴虐への道を進んでしまうのです。イスラエルが具体的にどうなったのかは士師記に記されています。
 しかし、主の民が苦しんで叫び声を上げた時、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われました。こうして主の戦いをイスラエルにもう一度教えてくださいました。主が私たちを救い出し、先頭に立って戦い、守ってくださり、必要のすべてを豊かに与えてくださると経験させてくださいました。こうして主は試練を用いながら、民が主を知るようにしてくださったのです。私がいまあるのは、主が共にいてくださるからだと認めるようにしてくださいました。
 ところが主が救ってくださった実感が薄れてくると、また主を知ることをせず、主を捨ててしまいました。こうしてイスラエルは「主を捨てて、わざわいに遭い、主を知り」と何度も繰り返していくことになります。しかし全体的に見るなら段々と落ちていきました。士師記を読んで気がつくのは、主が起こされたさばきつかさたちも段々と変な人が出てくるということです。エポデを作って礼拝させたり、娘を生贄として捧げたり。サムソンなんてめちゃくちゃですよね。畑を燃やしたり、女性問題を次々起こしています。イスラエルは2章で今日読んだサイクルを繰り返していきますが、終わりに行くにつれてこのサイクルも少しずつ崩れていきます。そして士師記最後の文は《そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた》と締めくくっています。
 士師記を読んでいますと、それではどうしたら良いのかと言いたくなります。士師記はイスラエルが約束の地を失う頃に書かれたのでしょう。どういう経緯で約束の地を失うようになっていったかを淡々と書いていて、だからこうすれば良かったとは書いてありません。読んでいてスッキリしないですね。当時、イスラエルの部族間には上下関係はありませんでした。とても平和的でしたが、ある意味で無秩序でした。互いに助け合うべきと知っていましたが、現実にはそう動きませんでした。それで、イスラエルは次の時代に王を求め、ひとつの神殿をエルサレムに建てるのです。これは合理的であり、私たちが「普通はそうなるよね」と思うことです。しかし主のみ心ではありませんでした。王を立てることも、神殿を建築することも、主のみ心ではなかったのです。主はその時、《彼らは…わたしが王として彼らを治めることを拒んだ》とおっしゃいました。
 主が望んでおられることは、主の民が主を知る(認める)ことです。今日の私たちがあるのは、主が私たちを救い、あわれんで赦してくださったからです。主に頼ることを知っていきましょう。(箴言3:5-6)
 お祈りいたします。《【主】が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。》
 
 天の父なる神様。恵みとあわれみの主よ。今日もあなたのあわれみに心を留めさせていただきました。いまここに私たちがあるのは、ただあなたのあわれみのゆえです。あなたも、またあなたの行われたわざも認めようとせず、何度もあなたの愛を裏切り、悲しみと怒りに追いやってきた私たちをお赦しください。このような私たちの罪をイエス様が十字架で身代わりとなり贖ってくださったことを心から感謝いたします。
 今年、わたしたちはあなたからの御言葉をいただいています。主が私たちを愛されたように、私たちも隣人を愛するように。主からただで受けたように、ただで与えるようにと言われています。果たしてこれが掲げてあるだけの御言葉になってしまうのでしょうか。それとも、これを行うことができる群れとなるでしょうか。
 主よ。私たちの前の時代にイスラエルの民を歩ませ、その姿を私たちに見せてくださいましたことをありがとうございます。そうでなければ、私たちもまた王や神殿を求めていたかもしれません。あなたを認めることを教えてください。イエス様、あなたが教会の頭です。まるであなたが眠っておられるかのように思ってしまう私たちをあわれみ、その偉大なわざによって私たちを導いてください。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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