2022.1.9主日礼拝 申命記10章10~22節 「主がお与えくださった良い地」


今年から、コロナの前のように、礼拝司会 と感謝祈祷を信徒と牧師先生が分担することになりました。「あれっ、先生の顔変わった?」と思った方もいるかも(笑)

メッセージは年末からの続きに戻ります。エジプトから脱出させて下さった主がイスラエルの人々に土地を与えられる箇所です。それは、それからの世界の歴史にどんな影響をもたらしたか?5つの視点から。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:申命記10:10-22(333ページ)
説教題「主がお与えくださった良い地」
 
 おはようございます。年末年始が光の矢のように過ぎていきまして、日常に戻されていることでしょう。先週は新年礼拝をもたせていただきましたが、はるか昔のようです。ここは大きな道路の側にありますので、普段は車が行き交う音が聞こえます。お正月はその音がほとんど聞こえなくなりまして、外を見たら道路の真ん中で寝ていられるくらい、全然車がいないのです。経済活動が止まるとはこういう事かと、しみじみ感じました。牧師の活動は年末年始も何も無いわけですが、静まり返った町の中でとっても仕事が進みました。音があるだけで随分と集中力が散らされているのだなと気付きました。あの静けさが恋しいです。
 先聖日の礼拝は外の静けさと打って変わって、集まった人びと、また子どもたちによって喜ばしい時となりました。それぞれのご親戚と過ごされた方も賑やかな時を過ごされたことでしょう。お孫さんの成長に驚かれたとあちらこちらで聞きました。ある方は教会のことを色々と質問されたとおっしゃっていました。「教会になぜ行くの」「教会で何をしているの」みなさん、どのようにお答えになりますか?子どもたちって良い質問しますね。子どもたちの質問に答える良い方法があります。物語を語ってあげることです。子どもたちは目の前にあることが不思議でたまりません。どうしてこれがこうなっているのか、その歴史を知らないからです。古今東西あらゆる時代、あらゆる文化で人びとは子どもたちに物語を語ってきました。「昔々あるところに」と話してきたのです。
 しかし、もし私たちが神の恵みの福音を点でしか知らかったとしたら、物語を語ることができません。とても抽象的で、哲学的な方法によって話すしかありません。「キリストの十字架によって義と認められ」と言っても子どもたちには全然わからないのです。私たちは神の恵みの福音を線で知る必要があります。「はじめに神が天と地を創造された」から始まり、エデンの園からイエス様の十字架に…飛んではいけません。飛ばし過ぎです。そんなに途中を飛ばしたら子どもたちは納得してくれませんよ。すべての物語を語り、その世界に私たちが生きていると話してあげましょう。やがて子どもたちは世界の歴史を学び、自分で書物を開いて調べ、聖書が実際の歴史と重なっていることを知っていくでしょう。また自分の人生に起こる出来事を見ながら、主が生きておられることを知るでしょう。
 聖書箇所をお開きください。申命記10:10-22(333ページ)【聖書朗読】
 
 1ヶ月半ほど間が空いてしまいましたので、前回どこまで話が進んでいたのかお忘れの方もおられるでしょう。前回は11月第3週目の説教で、バラクとバラムの話をいたしました。主の民と周りの人びとの話です。主の民と周りには、いつも主の民を見て選択を迫られている人たちがいますと話しました。
 今日は申命記を開いています。申命記はモーセ五書の最後の書です。主の民イスラエルはエジプトを脱出して、主が与えてくださる地へと旅立ちました。荒野を通って数カ月後にヨルダン川の手前まで到着したのですが、最初はカナンに入ることを止めてしまいました。そして荒野に戻り、世代がひとつ変わったところでもう一度ヨルダン川の手前までやってきました。その時に、新しい世代の民に主のことばをもう一度語り直しているのが申命記です。
 主はご自分の民に土地を与えたいと願われました。そして約束を成し遂げてくださいました。この一連の出来事は何を表しているのでしょうか。古代イスラエル人が土地を与えられたことは、世界中の人々にどのようなメッセージを伝えるために行われたことだったのでしょうか。これが今日の質問です。
 ひとつめ。主の民は約束の地で初めて寄留者ではなくなりました。寄留者とは、その土地によそ者として住んでいる人のことです。アブラハムはメソポタミアからカナンにやってきましたが、そこにはすでに住んでいる人たちがいました。アブラハムは町ではない場所にテントを張り、家畜を遊牧しながら寄留者として一生を過ごしました。その後、ヨセフの時代の後に一族はエジプトにやってきますが、そこでも彼らは寄留者でした。エジプトに着いた当初は所有地を与えられたはずでしたが、いつの間にか約束は反故にされ、民は奴隷になってしまいました。エジプトから出た後は荒野を移動して周り、定住することはありませんでした。彼らは約束の地で初めて、その土地の者として定住することができたのです。19節《あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。》寄留者から定住者となったことを忘れないで、主の民の生き方を通して福音を伝えなさいと教えられています。
 ふたつめ。約束の地は主のものであり、主が与えてくださる土地です。主の民は約束の地に入った後、「この地は主のものである。主がこの地を与えてくださった」と代々語り伝えていきました。申命記に出てくる民は、エジプトから出てきた民の次の世代でしたが、モーセが新しい世代にもう一度確認して語った言葉は11節でした。《そして【主】は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば彼らは、わたしが彼らに与えると父祖たちに誓った地に入り、その地を占領することができる」と言われた。》また14節では《見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、【主】のものである。》と語っています。イスラエルは約束の土地に入るために、知恵を絞り、汗を流して努力し、犠牲を払いました。しかし彼らは主が先頭に立っておられたことを確かに経験し、この地は主が与えてくださったと告白したのです。周りの人びとが主の民を見て知ったことは、《天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、…【主】のものである》ということです。
 みっつめ。その土地は広がりのある土地でした。古代イスラエルが与えられた土地に興味を持たれた方は、地図を引っ張ってきて、一体どの地域が所有地であったのか調べてみたいと思われたかもしれません。ところが実際にやってみますと、私たちの現代の感覚からすると混乱することになります。私たちは境界線が線で引かれていることに慣れています。世界には境界線を争っていてキレイな線が通っていない部分もありますが、ほとんどの境界線は経度・緯度によってちゃんと引かれています。しかし、この約束の地は、聖書のある箇所ではこれだけの地域、別の箇所ではこれだけの地域と広がりがあるのです。山と平地がどこで切り替わるのか正確にはわからないようなものです。ある箇所ではヨルダン川を渡った西側のことを指していますが、別の箇所ではヨルダン川の東側も所有地として割り当てられています。主の願いは、諸国の民も主の民に加えられていき、約束の地が広がっていくことでした。世界のすべてのものは主のものであり、主はご自分のものを恵み豊かに与えてくださったと、周りの人びとも口々に告白するようにと願っておられました。残念ながらその後の歴史で起こったことは逆でした。イスラエル人は約束の地をどんどん狭めていきました。ヨルダン川の西側が正統な聖なる地である。いや、南側のユダ王国こそが最も聖なる地であると。そう言ってイスラエル人は、やがてユダヤ人へと小さく小さくなっていってしまいました。
 よっつめ。約束の地は良い土地でした。申命記8:7-10《あなたの神、【主】があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、【主】をほめたたえなければならない。》主はご自分の民を宝として、世界中の人々に見せようとお考えになりました。そのために主の民にお与えになった地は良い土地でした。置かれた人びとが生きるのもやっとという荒れ果てた地に置いて、働かせたのではなく、良い土地に彼らを置いてくださいました。主の民は世界中の人々に、「主は良いものを与えてくださるお方だ」と証したのです。世の支配者たちは、土地をあげましょうという時、どのような土地を与えると思いますか。彼らは夢を与えるのですが、実際に送り出す地は荒れ果てた場所です。南米に行った人たち、北海道に行った人たち、色んなケースを思い出してください。
 最後に、約束の地には自由がありました。エデンの園に選択の自由があったように、約束の地カナンにも自由があり、選択肢がありました。主の民は、主に頼って恵みを受け続けるか、主を退けて恵みを放棄するかの自由がありました。そのように言うと「支配者から独立することが人の自由だ!」と聞こえてきそうな気がいたします。果たして、そうでしょうか。主は人の人生を自分の利益のために利用し、奪い取り、苦しめるお方だったのでしょうか。17-18節を見てください。《あなたがたの神、【主】は神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられる。》主は「正義と公正」の神です。主は恵み豊かに与えてくださるお方です。また奪い取ろうとする者たちを正しく裁き、ご自分の民を守ってくださいます。主の命令と掟は、主の民が主の手足となって、正義と公正を行うようにと命じる言葉でした。主の民は神の恵みを知り、恵み深く生きるように命じられていました。先週、聞いたような話ですね。そしてそこには選択肢がありました。命じられたように生きるか、他の生き方をするかの選択肢です。
 さて、ここまでの話で、お気付きになられたでしょうか。主の民の姿は、すべての人の本来の姿を映しているということに。三位一体の主が天と地を創造された時。主は人にホームを与えてくださいました。さまよう必要がない場所。搾取されることがない場所です。その世界は主が創られた、主の世界です。主はその良い世界をただでお与えになりました。私たちがそれを楽しむためです。この世界は広大です。主はこの良い世界をさらに広く、さらに広く受け取っていくように願われました。いまや人は宇宙にさえ出ていこうとしています。この世界は主が治めておられる世界でした。主の恵みで満ち、人びとは主が恵み深くあるように、互いに正義と公正を行い、互いに与えあって生きる世界であったのです。
 主の民が約束の地を与えられ、世界中の人々がそれを見たとはどういうことでしょうか。周りの人たちが、自分たちは本来どのような存在であったのか思い出すようにというメッセージが、ここにあります。
 カナンの地に先に住んでいたカナン人たちは、どうして土地を失ってしまったのでしょうか。彼らもまたアダムの子孫です。元をたどれば主から土地を与えられた人びとであったはずです。その答えは、イスラエルのその後を追っていくと分かってきます。イスラエルも最後には土地を失ってしまったからです。「カナン人はイスラエル人に土地を奪われた。何とひどいことか」とお考えの方には、カナン人も元をたどれば主に良い土地を与えられた人びとであったことを考えてみていただきたいと思います。彼らはイスラエル人が土地を失ってしまったのと同じ理由で土地を追われてしまいました。しかし、ラハブのように主に仕えることを選んだカナン人は残され、主の民に加えられました。
 主の恵みの福音は今も変わらずこの世界にあります。私たちは主に救われた主の民です。洗礼を受けた時、イスラエル人が紅海を歩いて渡ったように、私たちも水を通りました。私たちはイエス様の出エジプトによって、すなわち主イエス・キリストの十字架によって、主の民に加えられました。世の人々に、人の本来の姿を映して示すために、私たちは存在しています。神の恵みを知り、主は良いものを私たちにあふれるほどに与えてくださっていると証ししましょう。その恵みをもって互いに与えましょう。
 
 お祈りいたします。《見よ。天と、もろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、【主】のものである。》
 
 天の父なる神様。すべてのものを形造り、私たちに良いものを与えてくださっている主よ。このような私たちに目を留め、愛してくださって、ありがとうございます。私たちの働きを祝福し、天からのマナによって豊かに満たしてくださっています。あなたのようなお方が他にいるでしょうか。どうか私たちがいつもあなたの恵みに目を留めることができるようにしてください。世界は色々なところで荒れ果て、災害をもたらしています。病も流行し、あなたからではないものが私たちを苦しめています。私たちを試みにあわせず、悪からお救いください。ヨブはその病が神の不義から来ていると思いこんでしまいました。そのような失敗から学ぶことができますように。またこの世には欺く者たちがいて、主を礼拝することをやめてこちらに仕えよと誘惑してきます。私たちを守ってください。
 今週も私たちをあなたの恵みに心を留めさせ、それを楽しみ、み名を賛美するようにしてください。また、あらゆるところに出ていって、あなたの恵みを証しすることができますように導き助けてください。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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