2021.9.19謝恩日感謝礼拝「天の雨で潤う所有地」申命記11章8節〜25節

写真は葛下川ほとりにて・fさんより
台風も過ぎ去り 秋めいた良いお天気です。敬老の日を明日に控え、謝恩日感謝礼拝を行いました。人生の先輩たち、多くの試練を乗り越えて歩んできた方々の人生と、ともなってくださった神様に感謝と祈りを捧げました。礼拝音楽では、中尾先生と同期の矢代神学生の賛美を音声だけで聞くことができました。難病と戦いながら神学院で学んでおられ、詩篇30編4節・5節にご自分でメロディをつけて賛美してくださいました。また、来月から使う新しい『教会福音讃美歌』を中尾先生が試しに歌ってくださいました。シンプルでわかりやすい歌詞になっています。

メッセージは以下です。イエス様の十字架の救いの広さと深さを学んでいます。旧・新約聖書をまたいだ神様の壮大な救いの計画を語ってくださいました。(Re)


礼拝メッセージ(中尾敬一先生)

聖書箇所:申命記11:8-25(334ページ)
説教題「天の雨で潤う所有地」
 
 おはようございます。先週は台風が方向転換してこちらにやってきまして、どうなることかと思いました。教会がガタガタ揺れて大変なことになるかもしれないと思いましたが、大事には至らず、思ったより風は強くならず守られました。今日も教会が守られ、こうして兄弟姉妹がみな会堂にあるいはオンラインで集えておりますこと、主の恵みによることと覚えつつ、感謝しております。
 また今日は謝恩日感謝礼拝ということで、大先輩の兄弟姉妹や引退された牧師方のお証ゆえに主に感謝する時をもっております。人生の荒波をひとつずつ乗り越えてこられ、良きも悪きもたくさん経験して来られた上で、「主イエス様に従う道は素晴らしい」と今日も礼拝に集っておられるお証は、言葉以上のものを語っています。主のみ名をあがめます。どうぞいつまでもお元気でいらしてくださって、引き続き主の愛と恵みに私たちの心を向けさせていただけますように。みことばをひとつ開きます。イザヤ書46:3-4《 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。》主の祝福をお祈りしております。
 さて、しばらく前からイエス様の十字架の救いの広さと深さを学んでおります。主イエス様は聖書の位置で言いますと、旧約聖書が終わって、聖書の3分の2が過ぎてから地上に来られました。そんな後になってからおいでにならなくても、エデンの園からアダムが追放された直後にパッと来てくださって、世界を救ってくださったら良かったのにと思いませんか。ところがそうされないで、一連の古代イスラエルの歴史を過ぎてから、ローマ帝国時代に地上に来られました。そこには意味があったからです。
 イエス様は十字架の贖いは出エジプトです。福音書をよく調べてみると「イエス様の十字架はすべての人にとっての出エジプトであった」と説明している箇所が見つかります。しかしそれは、旧約聖書を良く知っている人がピンとくるように書いてありまして、私たちにとっては詳しい説明がないと見えてこないことです。
 それでは出エジプトとはどのような出来事だったのか。出エジプトで行われた「あがない」とは何だったのか。奴隷状態からの解放、社会の救い、そして今日は3つ目です。経済的な自由のお話をいたします。
 聖書をお開きください。申命記11:8-25(334ページ)【聖書朗読】
 
 出エジプトは聖書の2番目の書である出エジプト記から始まっている一連の出来事です。昔、「十戒」という映画が有名になりまして、海が2つに割れる場面など覚えておられる方もおられるのではないかと思います。しかし、あの映画は紅海を渡って終わりではありませんでした。出エジプトと聞けば、エジプトから出てきたという印象ばかり強いわけですが、聖書が伝えていることは、エジプトから出てきましたよということではなくて、エジプトでの生き方と全く異なる生き方が与えられましたよということなのです。
 出エジプト記はイスラエルが奴隷になっていたところから始まっていますが、少し遡ってみましょう。ヤコブの息子ヨセフの時に、70人の一族がエジプトにやってきました。その時代のファラオはヨセフの功績のおかげで、ヤコブ一族を親切に受け入れてくれました。創世記47章に記録があります。《ファラオはヨセフに言った。「おまえの父と兄弟たちが、おまえのところに来た。エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。》《ヨセフは、ファラオが命じたとおりに、父と兄弟たちの住まいを定め、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地に所有地を与えた。》と書いてあります。そうですから、当初は所有地を与えられていたのです。ここは私たちの土地だと言える場所があったのです。ところが400年経って、イスラエルは奴隷になっていました。当時の奴隷とは自分の土地をもたない小作農家のような立場です。ただし人扱いしてもらえない小作農家です。そのような状態の民を、主は救ってくださいました。所有地を失ってしまった民が、約束の地で所有地を受け取る。これが「贖い」の3つ目の要素です。
 10節《なぜなら、あなたが入って行って所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。》「エジプトのようではない」これはいつもキーポイントです。《エジプトであなたは、野菜畑でするように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやっていた。》これはノルマを課せられた仕事場であったという意味です。彼らはエジプトで最も良い地に住んでいたのですが、生活は豊かではありませんでした。今年はこれだけの収穫を王に収めよと命令され、そのために種をまき、灌漑用水路を整備して水をやらなければなりませんでした。イスラエルの住むラメセスは、エジプト人の倉庫の町となり、彼らは一生懸命働いても生活が苦しくなりました。このような状態から、主はイスラエルをあがなってくださったのです。11節《しかし、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。》14節b《あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。また、わたしはあなたの家畜のため野に草を与える。あなたは食べて満ち足りる。》
 主が与えてくださる地は所有地です。ここはわたしの土地だと言える場所です。ヨシュア記の後半には何々族にどこどこの土地が与えられたという記録が出てきます。こんなの読んでも恵まれないなと思うかもしれません。でも、みなさん。この箇所の意味が分かったら、めちゃくちゃ恵まれるんです。もしあなたが当時のイスラエル人であったら、自分の家が所有している町の名前がここに見つかるのです。カタカナの名前でピンと来ないかもしれませんが、例えば「田中家には王寺町」と聖書に書いてあったとしたらどうですか。「見てよ。聖書に書いてある。わたしの家が主からいただいたのは、この町だと書いてあるよ」と言えるのです。そして律法にはヨベルの年という決まりがありました。何らかの理由があって土地を失ってしまったとしても、50年ごとにすべての土地は元の所有者に無条件で返される決まりがありました。一生に一回は経験することができる間隔です。所有地の記録はちゃんと残されていて、元の一族に返されます。主の民はどの世代の人もみな所有地をいただいたのです。年貢を納める必要はありません。ムチを打ってくる人はいません。そこには自由があります。
 主が与えてくださる地は天の雨で潤っています。課せられた労働に追われる生活ではありません。その土地から生じるものを集め、自由に食べて満ち足りる生活があります。家畜の餌でさえも主が用意してくださいます。
 その土地には自由があるので、選択肢があります。「選択肢がある」これはエデンの園を思い出させます。エデンの園には「園のどの木からでも思いのままに食べてよい」という自由と「善悪の知識の木からは、食べてはならない」という選択肢がありました。主が与えてくださる土地は律法を行う地です。私たちが与えられている自由を用いて、主を愛し、隣人を自分自身のように愛するところです。「いや、そう言われても、《もしわたしが今日あなたがたに命じる命令…に、あなたがたが確かに聞き従うなら》って言われたら、すごく縛られてる感じがする」とおっしゃるかもしれません。しかし、主がどのようなお方か心に留めてください。私たち一人ひとりに所有地を与えてくださる主です。私たちに自由を与えようとして御言葉を与えてくださっているのですから、その道を進むことが自由につながっています。パウロはこう言っています。《「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。(Iコリント6:12)》これは自由奔放な快楽について言っている箇所です。主を愛し、隣人を自分自身のように愛することを忘れてしまうなら、支配される時代に逆戻りしてしまいます。不道徳は自由の象徴のように見えるものですが、実は私たちを溺れさせ、支配してしまうものです。
 また、主の命令を掲げて、人を縛ろうとしたり、ノルマを課したり、裁いたりすることがあってはなりません。律法主義です。《 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)》とガラテヤ人への手紙に書いてあります。教会のカルト化という問題があります。その問題点は、所有地を与えてくださる主を知らないということです。主に仕える私たちには「ここは私の領域だ」と言える自由を与えられています。教会の一致は「リーダが右を向けと言ったからみんな右を向いた」という一致ではありません。それぞれが与えられている自由の中で、主を愛し、隣人を自分自身のように愛そうとした時に、主が内に働いてくださって、気づけば教会がひとつに向かっていることを見出すのです。どうしてそんなことが起こりますか?私たちの内に生きて働いておられる主が、同じひとりのお方だからです。主の他に王がいてはなりません。聖職者と呼ばれる人であっても支配者になってはなりません。主はご自身だけが王様であることを望まれます。人間が王になれば、民の土地を自分の土地のように使い始めるからです。主はそのようになさいません。一人ひとりに所有地をお与えになります。
 かつてのイスラエルにおいて、所有地を失ってしまった人たちはヨベルの年を待ち望んでいました。すべての借金が帳消しにされ、所有地が無条件で戻ってくる年です。実はそれがイエス様の十字架によって私たちにも来たのです。あっちで奴隷から解放されても、こっちで奴隷にされてしまうのが、この世の常です。しかし、ただ主だけが私たちを奴隷から解放し、子としてくださいました。イエス様は、主のことばを私たちにも語ってくださいました。《あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。》イエス・キリストは主です。新しい天と地には私たちの場所が用意されています。主を信じるものには自由が与えられるのです。
 イエス様の十字架による贖いを経験したいと思われる方はおられるでしょうか。イエス様を信じて、洗礼を受けませんか。本当に贖いはあるのか疑問に思われるのでしたら、クリスチャンの証言を聞いてみてください。そして、どこかの時点で出エジプトをしなければなりません。主は首を長くしてあなたの帰りを待っておられるお方ですので、あなたの決意が必要です。「イエス様を信じます。そして洗礼を受けて、紅海を渡ります。」その言葉を待っています。
 
 お祈りいたします。《あなたがたが渡って行って所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天からの雨で潤っている。》
 
 天の父なる神様。私たちを奴隷ではなく、子としてくださった主よ。十字架で支払われた代価と、この罪深き私たちが贖われたという恵みのゆえに心から感謝いたします。私たちはもはや子と呼ばれる資格はありませんでしたのに、雇い人のひとりにでもしていただけたら十分でしたのに、あなたは駆け寄って抱き、一番良い衣を着せ、「死んだと思っていた子が生き返った」と大喜びで祝宴をひらいてくださいました。今日も私たちはあなたの子供として祝宴に集っています。
 主よ。私たちに所有地を与えてくださってありがとうございます。自由を与えてくださってありがとうございます。また私にだけではなく、兄弟姉妹お一人ひとりに所有地が与えられていることをおぼえます。どうか私たちのうちに互いを尊重し合う心を与えてください。支配する関係が生じませんように守ってください。ヨベルの年を与えてくださって、負債のあるものを赦すことができるように助けてください。また私たちの負債も赦してください。
 王寺教会に御霊による一致を与えてください。「このように自由にしていてバラバラになるんじゃないの」と世の人は思うかもしれませんが、唯一のお方であるあなたが働いてくださるので心配はありません。あなたが生きておられることを御心に従って示してください。私たちはあなたの手の業です。御手に委ねます。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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