今日は牧師先生達の働きを覚えて感謝する謝恩日聖日でした。聖書の中で「牧師」と「羊飼い」が同じ意味で使われていると知りました。私たちの教会に3名も引退された牧師先生がいることを感謝し手本として、キリストに倣うものとして歩んでいきたいです。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。年に一度の関西聖会を過ぎて、謝恩日聖日を迎えております。
関西聖会は私たちにとって都上りの礼拝のようだと以前、お話しました。年に一度、旅をして、費用も時間もささげて出かけていく聖会です。エルサレム神殿に旅する礼拝を思い出させます。詩篇84篇を詠った詩人は、エルサレム神殿に住んで毎日、都で礼拝をささげている人たちは幸いだと憧れていました。私たちも聖会に行きますと、心に語られる素晴らしいメッセージをいつまでも聞いていたいと思うものです。
今回のメッセージで岩上先生がこんな話をしておられ、私の心に留まり励ましをいただきました。神戸教会の青年たちがある時、岩上先生に言ったそうです。「聖会のメッセージはすごく良いのだけど、普段の説教はそんなに…だよね」と。すると横で聞いていた福牧の頼子先生が「レストランに食べに行くと美味しいよね。でも毎日外食していたら良くないでしょ。」と言われたとか。岩上先生でもそんなこと言われるんだと励ましを受けました。日常の食事は食べた瞬間に感動が来るようなものでは必ずしもないのですが、口から入り消化され、身体を作っていきます。日々食べるものによって、細胞が新しくなり、免疫が鍛えられ、力が強くなります。それは瞬間的な感動にならないかもしれませんが、とても大切です。ピーマンや人参を細かくしてハンバーグに入れるような、説教の工夫もあります。すぐに分からなくても、イエス様の母マリヤのように心に留めて、霊の糧を食べ続けていくことです。
私たちに与えられる聖さは、私たちが自分で生み出せるものではありません。ぶどうの枝が木につながっていることで実をならせるように、主につながっている時に聖さが与えられます(ヨハネ15:5)。主を離れては、栄養を失って死んでいくだけです。いつも主につながる枝でありましょう。
聖書をお開きください。エペソ人への手紙4:11-16(388ページ)【聖書朗読】
今日は謝恩日聖日礼拝です。年に一度、牧師(引退牧師)の存在について心に留め、祈り、また御言葉から教えられる日です。
今日は「牧師」という言葉が出てくる聖書箇所を開くように導かれました。実はこの「牧師」と訳されている箇所は聖書の中に1節しかありません。ここで「牧師」と翻訳されているギリシャ語の言葉は、この箇所だけに出てくるのではなく、他にも何箇所も出てくる単語です。でも、エペソ4:11だけは「牧師」と訳されています。
この「牧師」と訳されているのは、直訳すると「羊飼い」という単語です。みなさんがクリスマスに良く耳にする御言葉があります。《さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。(ルカ2:8)》ここに出てくる「羊飼い」と、エペソ4:11の「牧師」は全く同じ単語なのです。しかし、ルカの福音書の方では明らかに羊の世話をしている羊飼いの話ですが、エペソ4:11は教会の職務についての話をしていて、羊飼いの話ではありません。ここで「ある人たちを伝道者、ある人たちを羊飼いまた教師としてお立てになりました」と翻訳してしまうと、意味が分からなくなるでしょう。
この手紙を受け取ったエペソの教会の人たちは、羊飼いという単語を聞いて、牧師を思い浮かべました。それは一体どういうことでしょうか。そのヒントは旧約聖書にあります。
神の民イスラエルの間で、羊飼い(牧者)と呼ばれていた人たちがいました。預言者ではありません。祭司でもありません。それは王様のことです。旧約聖書で「牧者」と出てきたら、そのまま羊飼いの場合もありますが、羊飼いの話でなければ、それは王の話です。イスラエルの王とは何者でしょうか。イスラエルの王とは、エジプトやカナンの王たちのようではない王です。エジプトやカナンの王たちには、羊飼いのイメージはありません。彼らは、人々にムチを打って働かせたり、子どもたちを神々への生贄としてささげたり、強大な軍事力と経済を誇る者たちでした。しかし神である主は、イスラエルに王が立てられることを不本意ながらお許しになられた時、イスラエルの王は羊飼いの心を持つ人物であるようにと願われました。主がお選びになったダビデ王は、王になるまで羊飼いでした。実際に羊飼いとしての経験を与えられ、王として整えられたのです。
エゼキエル書34章には主が思い描いておられた「羊飼いである王たちの役目」が記されています。牧者なる王は、自分を養うのではなく、民を養います。弱った人々を強め、病気のものを癒やし、傷ついた人を介抱し、排除された人たちを連れ戻します。失われたものを捜し、尋ね求め、集めます。敵を打ち破り、民を守ります。決して過酷な仕方で支配することはありません。エゼキエル34:23《わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。》この預言は主イエス・キリストを指し示すものでした。イスラエルの王たちは、結局、羊飼いである王となることができませんでした。イエス様だけがまことの王でした。イエス様の姿を見る時、私たちは主が思い描いておられた牧者なる王を知ることができるのです。
世の中の人々はクリスチャンたちが礼拝する様子を奇妙にみています。「私のいのち、主にささげます」と歌っている様子をみて、「かわいそうに。洗脳されて。」「いのちをささげるって何?気持ち悪い」と思う人も少なくはないでしょう。人々は牧者なる王という概念を全く知らないのです。彼らには王と羊飼いは全く結びつくはずのないものです。どうしてクリスチャンたちは感謝と喜びもって主を賛美するのでしょうか。それは、主イエス様が私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかられた王だからなのです。イエス様は言われました。《わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)》
牧師とは何者でしょうか。私たちには2つの選択肢があります。世の中のメガネを通して牧師を定義するか、聖書のメガネを通して牧師を定義するかの2つの選択肢です。ある人は、牧師をありがたい神がかったお話をしてくれる宗教家だと定義しています。ある人は伝道プロジェクトのリーダーだと思っています。経営者や総支配人、会計、心理カウンセラー、占い師、祈祷師、ケアマネージャー、事務長、会堂管理者などと考えている人もいます。それらは全て、世の中にあるどれかの役割に牧師を当てはめようとする見方です。しかし一方で、聖書のメガネを通して牧師を定義する選択肢があります。ペテロはイエス様にこう言われました。《わたしに従いなさい。(ヨハネ21:19)》《わたしの羊を牧しなさい。(ヨハネ21:17)》牧師とは何者でしょうか。牧師はイエス様の後に従う羊飼いです。キリストに倣って、イエス様がされたように人々と関わる人たちです。
では、イエス様に従う羊飼いである牧師はどんな目的のために存在するのでしょうか。12-15節《ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。》
「奉仕の働きをさせる?やばい、タダ働きをさせられるのか。」と思われた方、ご安心ください。過酷な仕方で支配するのは、古代エジプトの王がしたことです。神の国では、出エジプトの主に仕えているので、そのような過酷な支配はゆるされません。奉仕の働きとは、(〇〇係の奉仕のことではなく、)イエス様のように羊飼いの心を持って王の仕事をすることです。牧者なる王は、自分を養うのではなく、民を養います。弱った人々を強め、病気のものを癒やし、傷ついた人を介抱し、排除された人たちを連れ戻します。失われたものを捜し、尋ね求め、集めます。敵を打ち破り、民を守ります。王の王イエス様に従う神の国の王たちは、そのような羊飼いです。この世の価値観では王の仕事と奉仕の働きは全く相容れない事柄です。ところが聖書の価値観では、王の仕事は奉仕の働きです。イエス様がその生き方によって示してくださったようにです。
確かに牧師になるのはある人たちだけです。全員が牧師のバッチをつけるわけではありません。みんなが説教台に立つわけではないし、牧師館に住むわけではないし、人々から牧師先生と呼ばれるわけではありません。しかし、みなさん、ある人たちが牧師として選ばれたということは、他の人たちは脱落したという意味ではないのです。アブラハムの子孫が先に選ばれたということは、異邦人の脱落を意味しません。ユダヤ人が救われたように、異邦人も救われるというのが福音だからです。先に誰かが選ばれるなら、後に続く人々も同じ特権をいただくのです。これが神の国です。
使徒パウロはこう言いました。《兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(ピリピ3:17)》ある人たちが牧師として選ばれ立てられたのは、模範(手本)として、キリストに倣う生き方を示すためです。他の人たちも後に続いて、同じようにキリストに倣う生き方、奉仕の働き、すなわち牧者なる王の仕事に就くことができます。いえ、むしろ王の仕事をするように勧められているのです。牧師だけでなく、すべての聖徒たちにそう勧められています。
王寺教会には3人の引退牧師がおられます。ここに引退牧師がおられるということは、どれくらい貴重なことかご存知でしょうか。引退牧師がいるから、若い牧師が聖餐式をまだできなくても、代わりにやってもらえて良かったですね。教会学校をしてもらえて良かったですね。人々の話し相手とか、会堂管理とか、事務の手伝いとか…。そのような見方があるとすれば、牧師が何者であるか知らないということです。宝の持ち腐れと言えるでしょう。しばらく前に、エステル会でお証しを聞いたとのことですが、それはとても良いことです。すべての聖徒たちが携わる牧会の模範なのですから、沢山有用な話を聞くことができるし、また見て学ぶことができます。引退したというのは、毎週講壇に立ったり、会計をしたり、週報を作ったり、会堂の管理をしたり、そのような仕事から解放されたというだけのことであり、それらは牧師の働きの本質ではありません。むしろ、私たちの多くが、“現役引退後”(体力に限界があり、色々な制限がある中で)奉仕の働きをするとはどういうことか知りたいと思っていますが、引退牧師は今でも聖徒たちの模範なのです。
またその列には現役牧師や宣教団体に派遣している姉も加えられています。こちらは主の訓練の中でもまれている最中ですけれども、苦闘しながらも、イエス様に倣う生き方の恵みをお知らせしています。
先日ジョシュ宣教師が交わりの時に言っていましたね。「それは良い質問ですね。」牧師が羊飼いの心を持っていること、また私たちもそれに倣っていくことを知っているなら、沢山良い質問をすることができるでしょう。お手本が身近にいることは何という恵みでしょうか。
牧師として立てられる「ある人たち」にならなかったとしても、主が与えてくださる使命は同じです。すべてのクリスチャンが、キリストに倣って歩むのです。それは主にあって誇り高き王の仕事です。牧者なる王の仕事です。
お祈りします《こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。》
天の父なる神様。あなたはご自分の王に救いを増し加え、あなたに油注がれた者ダビデとその裔にとこしえに恵みを施されます。
良い牧者であるイエス様。ただあなただけが私たちの王です。あなたはご自分のいのちをも捨てて、私たちを愛し、私たちを罪と死から救い出してくださいました。あなたのようなお方は他にありません。私たちを支配しようとするのではなく、仕えるために来てくださって、羊飼いとして共にいてくださる主よ。心から感謝し、御名をあがめます。
またあなたは「私についてきなさい。私の羊を飼いなさい」と私たちを招いておられます。そのために、まずある人たちを牧師として召し、キリストに倣う者として私たちの前を歩ませなさいました。私たちもまたその後をついて、キリストに倣うためです。奉仕の働きとは何でしょうか。牧者なる王の仕事とはどのようなことでしょうか。どうか私たちに教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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