おはようございます。今日からイエス様が十字架にかかられた一週間を記念する受難週が始まります。最初の日曜日は棕櫚聖日と呼ばれ、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことを思い出す日です。あの日、人々は上着や葉のついた枝をイエス様が通られる道に敷き、前を行く人たちも、後に続く人たちもこう叫びました。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」しかし、それから一週間もしないうちに、群衆の言葉は反転してしまいました。今度はピラトの前で「十字架につけろ」と叫んだのです。受難週は、イエス様の救いのわざが明らかにされた週でありました。それと同時に、人々の罪深さがあらわにされた週でもありました。ユダヤ人たちはローマ帝国という自分の外にある問題が解決されることが救いだと考えていましたが、実は自分たちの心の内にある罪が解決されなければならなかったのです。
私たちはクリスチャンとして、イエス様のような愛のある人になりたいと願っています。そのために必要なことは何でも頑張りたいと思うものです。イエス様はその秘密をおしえてくださいました。「多くの罪を赦されている人は多く愛し、赦されることの少ない者は、愛することも少ない」ということです。すなわち、愛の人になるために必要なことは、私たちが自分の罪の多さ、大きさ、深さ、どうしようもなさを更に知らされることなのです。私たちの罪の大きさは、イエス様の十字架の救いの大きさです。受難週、そしてイエス様の十字架は私たちの心のメッキを剥がして、内側を明らかにします。私たちはそれほど多くを赦されたのです。今まで気がついていたよりも、実はもっと赦されていたと目が開かれる朝であることを願っています。ここに主の豊かな恵みがあります。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書19:4ー16(224ページ)【聖書朗読】
イエス様が十字架にかかられた週は過越の祭りの時でした。過越の祭りとは、主が民に命じられた3つの巡礼を伴う祭り(過越祭、五旬節、仮庵祭)のうちのひとつでした(レビ23章)。神の民の成人男性はみな、全国から神の宮(エルサレム神殿)に集まって、聖なる会合を開くように命じられていました。過越の祭りは、出エジプトを記念する例祭です。救いの主が、エジプトの奴隷から民を解放し、荒野を導き、シナイ山で律法を与え、約束の地に所有地を与えてくださったことを忘れないようにするための大きな祭りでした。
毎週の安息日の前夜には、親しい人たちと一緒に食事をして、神様に感謝していました。特に過越祭の安息日前夜は、一年で一番特別な食事の時でした。イエス様はその特別な食事を、12弟子たちと共に楽しまれました。「最後の晩餐」と呼ばれている食事です。
それから、イスカリオテのユダは出ていき、イエス様はゲッセマネの園に行って祈られました。祈りが終わると、ユダが、ローマ兵と千人隊長、祭司長やパリサイ人から送られた下役たちを連れて、イエス様の前に現れました。そこで、弟子たちは散り散りに逃げてしまい、イエス様は逮捕されました。逮捕されたのは、イエス様が何かの罪を犯したからではなく、祭司長やパリサイ人たちがイエス様を殺そうと企んだからです。
とはいえ、ローマ帝国には法律がありましたから、捕まえて勝手に殺すことはできません。裁判にかけなければなりません。その裁判も複雑でした。ユダヤ人の祭司長や律法学者たちから構成される最高法院(サンヘドリン)がありました。モーセの律法やタルムードによって裁く、ユダヤ民族の裁判です。それから、ユダヤの国を治めていたヘロデ王の裁判がありました。ヘロデ王はサマリヤ地方出身の血筋があり、ローマ皇帝から王位を授けられていました。さらには、その地方を管轄していたローマの総督ピラトの裁判がありました。ピラトはローマ人です。
イエス様を殺そうとしていたのはユダヤ人の祭司長やパリサイ人、律法学者たちでした。イエス様がご自分を神と等しくされていたこと(ヨハネ5:18)、律法の規定を守らなかったこと、人々がイエス様の教えを受け入れて大人気となったのでねたんでいたことが理由です。しかし、ユダヤ人の最高法院が死刑判決を出しても、ローマ帝国内ではローマ法によって裁かれない限り、処刑はできませんでした。ヘロデ王はナザレのイエスに興味をもって話を聞いてみたいと思っていましたが、処刑したいとは全く思っていませんでした。総督ピラトはユダヤ人の歴史もそんなに詳しくないし、いったい何故イエスのことで人々が騒いでいるのか、詳しい事情がよくわかりません。そういうわけで、祭司長やパリサイ人たちは、何とか知恵を絞って上手く事を運び、ローマの権限によってイエスが死刑にされるようにと計画し、実行したのでした。
まずイエス様が逮捕されてすぐに、最高法院が開かれました。ところがそこですら上手くいきませんでした。多くの証人が出てきて、嘘の証言をしてイエス様を訴えましたが、どれも証拠が得られませんでした。最後は大祭司のほとんど強行突破で、「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要なのか」と言い、議会は「彼は死に値する」と判決を下しました。これでようやくローマの裁判に引き渡す準備が出来ましたので、彼らは総督ピラトにイエス様を引き渡しました。でもピラトはどうして良いかよく分かりません。それでヘロデ王なら、事情が分かって良い判決を下せるだろうと思い、ヘロデ王に移送させました。ヘロデ王は有名人イエスと会って話をしてみたかったので、喜びました。しかし、イエス様が何もお答えにならないので、結局ピラトに送り返しました。またイエス様が戻ってきたので、ピラトはしぶしぶ尋問をしてみますが、何一つ罪を見つけられませんでした。そうして今日お読みした箇所にやってきます。
ピラトは祭司長たちに「イエスを有罪とする理由は見つからない」と言いました。しかし、祭司長たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びます。《私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。》と言いました。私たちは律法について最近学んでいますけれど、「律法を持ち出して人を処罰したい」というのは神の御心とは合致しません。これまでユダヤ人たちは主のみ前に多くの背きを行い、律法で示された神の御心を行おうとしませんでした。それで主があらかじめ厳しく言われたところによると「死に値する」のでしたが、実際には神である主のあわれみを受けたのです。哀歌3:22《実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。》と証しされている通りです。彼ら自身、神のあわれみを受けて、これ以上なく、怒りを免れ、恵みを受けてきました。そのことをすっかり忘れて、イエス様をねたみ、律法を持ち出して法律のように扱い、神の御心を無視して、こともあろうに、神ご自身である主イエス様を死刑に定めたのでした。律法の意味は「神を愛し、隣人を愛すること」であって、神を殺そうとすることではありません。
聖書を一生懸命読んでも、主の御心を知らないならば、彼らと同じことをしてしまいます。神を敬うと言いながら、主の心を理解することができず、聖書の言葉尻を掴んで、私たちを愛しておられる主を死に定めるのです。「十字架につけろ」と主に叫んだのは誰でしょうか。
総督ピラトがなかなか死刑判決を出さないので、ユダヤ人たちは次の作戦を思いつきました。「イエスは自分を王としているので、ローマ皇帝に反逆している。よって反逆罪により死刑だ」と訴えたのです。祭司長は言いました。「ローマ皇帝カエサルの他には、私たちに王はありません。」ピラトにとってその訴えは、屁理屈に思えたでしょう。反逆罪となるには、テロを起こしたり、そのために軍隊を準備したりしたと認められなければなりません。ただ王を自称したというだけで、帝国の脅威になり得るでしょうか。処罰するほどのことは何も無いのです。ユダヤ人たちのねたみに、ピラトは恐れを覚えるほどでした。「彼らの要求を飲まなければ、暴動が起こって、治安が乱れるかもしれない」と思わせたのでした。
私たちは神の国の歩み方を聖書から学んでいます。神である主を愛することの本質は、主に全く依り頼むことです。神の民は偶像礼拝をしてはいけないと教えられていますが、それは他の宗教儀式に関わってはいけないというよりも、主以外のものに依り頼んではならないということです。ですから、イエス様は偶像礼拝禁止の教えと同じ調子で、富に仕えてはならないおっしゃっいました(マタイ6:24)。人間は普段、様々なものを心の拠り所としています。「それは人間の普通の営みなんだから、心が穏やかになれるなら何を心の拠り所としてもいいじゃない」と軽く考えていることはないでしょうか。仮にもその年の祭司長で、神殿で神に仕えていた人物が「カエサルの他には、私たちに王はありません」と軽々しく言ってしまいました。何とかイエスを十字架刑に追い込もうと熱心で、「唯一の神である主にだけ仕えなければならない(申6:13-14)」という最も基本的なおきてを忘れていました。
私たちの罪は、心に深く罪悪感を感じるものばかりではありません。そんなに悪いことしたとは全然感じなくても、私たちの造り主、また贖い主である主に依り頼まないで、他のものにすがって助かろうと思ったり、心の平安が得られると考えたり、それがあるから大丈夫だと思うようなことがあれば、それは姦淫の罪なのです(ホセア1:2)。自分自身は悪気を持っていなくて、別になんとも感じていないことでも、他の人から指摘されてはじめて悪いことをしたと気が付くことがあります。何をしているのか分からないで、主に対して罪を犯していることがあるのです。
しかし、話はここで終わりではありません。そのような人々のために、そのような私たちのために、主イエス様は十字架にかかり、完全ななだめのささげ物となってくださいました。主は私たちを赦してくださいました。その赦しの大きさはどれほどでしょうか。教会学校の子どもたちのレベルでは、黙ってお菓子を食べちゃったとか、友達を嫌いだと思ったとか、ある意味で小さな罪の意識からイエス様を信じて、神様の赦しをいただきます。それはとても大切で尊い、悔い改めです。では、それが全てかというと、実はクリスチャンとして歩み、また成長していく内に、それだけではないと気付かされていきます。私たちが気がついていた以上のことを、すでに赦されていたと知っていくのです。主は最初からすべてをご存知でした。でも、あれもあるし、これもあるだろと一度におっしゃいませんでした。私たちの成長にあわせて、ひとつずつ教えて下さっています。
自分の罪を知ることを恐れることはありません。イエス様の十字架によってすべて赦されているので、罪を知るたびに、主の恵みの大きさを知り、多く愛する者に変えられていくからです。
お祈りします《そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)》
天の父なる神様。あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむお方。私たちが赦されるのは、人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によります。
イエス様。あなたはご自分の民の王として来られたお方です。讃美を受け、歓迎され、王座に迎えられるべき方です。しかし、エルサレムに入城されたあと、あなたは裏切られ、引き回され、あざけられ、誰の助けもなく、十字架にかけられました。ホサナと言っていた人たちは、同じ口で「十字架につけろ」と言い始めました。祭司長たちの策略にのまれて、流され、それが何を意味するかも分からないで、「十字架につけろ」と叫んだのは誰でしょうか。それは私たちの姿ではないでしょうか。
主よ。私たちの深い罪をお赦しください。ただひたすら、御子の十字架の贖いによって赦してください。あなたの恵みの大きさが、私たちが知っていたよりもはるかに大きかったことを教えてください。主よ。あなたを愛します。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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