おはようございます。先聖日には全国合同礼拝をもつことがゆるされ感謝でした。合同礼拝の後、任命式が行われ、本日は新しい任命による最初の礼拝となっています。この度、私の心に留まっている聖書の言葉はヨハネ15:16-17です。《あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。》これはイエス様のことばです。
任命をどのように受け止めるか。ここには私たちの選択があります。教会を会社のように考えて、人の計画や思惑、政治的な動きの人事活動として捉えるのか、教会をイエス様の教会と考えて、信仰もって、主が任命なさったと捉えるのか。私たちの選択があります。私たちと言いますのは、いま聞いておられるみなさんだけのことではなくて、ここで話している私自身も、また牧師家族も同じように選択肢をもっています。教団の人事委員会が決めたのか、教会のかしらイエス様がお決めになられたのか。何を信じるかということです。
この任命には目的があります。王寺教会が、自分の委ねられた地域に行って、実を結び、その実が残るようになるため。また王寺教会がイエス様のみ名によって御父に求めるものをすべて、御父が与えてくださるようになるためです。そのようになると人の目に映るかどうかは別として、ここにイエス様の約束があります。主を信じ、御言葉の約束をにぎって、共に新しい歩みだしをしましょう。
聖書をお開きください。出エジプト記21:22-25(137ページ)【聖書朗読】
「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」主のみこころを聖書から学んでいます。それは「神の国の生き方」とも言いかえることができるでしょう。
地上の教会と神の国についてまず確認したいことがあります。イエス様の弟子の使命は、キリストのからだを建てあげること(エペソ4:12)です。ですから、クリスチャンの使命は聖書という設計図をもとに神の国を作ることだと誤解してしまうかもしれません。そうではありません。キリストのからだを建てあげることと、神の国をごちゃごちゃに混ぜて考えないようにしてください。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えられた時、《天の御国が近づいた(マタイ3:2)》とおっしゃいました。主の祈りでも《御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。(マタイ6:10)》と祈るように教えられました。すなわち、神の国(天の御国)は天に存在しているということです。私たちがゼロから造らなければならないものではなくて、神である主がおられる天に存在しているのです。みこころにかなう私たちの祈りは、天に存在している神の国が来ますようにとの願いです。
キリストのからだを建てあげるとは、私たちが自分の目に良いと思うことを追い求める自己中心的な生き方をやめて、天にある神の国が地に来るように祈り求め、すでにイエス様が私たちのうちに来てくださったことによって到来している神の国を世にあって生きるようになることです。人の努力によって神の国を造ろうとする試みではありません。御霊のコーチングによって、神のみこころを行うことを教えられていく歩みです。
さて、今日の箇所は「いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」と教えられている箇所です。これは何を教えているのでしょうか。加害者への罰則でしょうか。この主のおきての焦点は、加害者の罰(懲らしめ)ではありません。私たちが世にあって馴染んでいる考え方は、罪人をどのように罰するべきかという観点です。しかし、イエス様が教えてくださった神の国の観点は違いました。イエス様はこのように言われました。《『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)》「目には目を」は悪い者に手向かうためのおきてではないのです。復讐してはならないと教えられていたことと合致します。当時のユダヤ人たちは律法を法律として捉えました。それで主のおきてを取り違え、人々を間違った道に進ませてしまったのです。現代の私たちにもそうなってしまう可能性は十分にあります。
創世記3章に、エデンの園でサタンがエバを間違った道に誘い込んだことが記されています。主はアダムに《善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創2:17)》と教えられました。サタンはエバに《「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創3:4)》と言いました。その後、エバもアダムも善悪の知識の木からその実を取って食べました。そうして人に死が入り、すべての人類は死ぬことになりました(ローマ5:12)が、即座にはアダムもエバも死にませんでした。この出来事を思い返して、どのように思われますか。サタンの言ったことのほうがあってるんじゃないだろうかと思ったりしないでしょうか。またダビデ王が姦淫の罪を犯したのに、石打ちで死刑にされなかったことはどうでしょうか。_ これらのことに、なぜ決められた文字通りに処罰がないのだろうかと不思議に思ってしまうあたり、この世界を一時支配しているサタンの考え方に、私たちは随分と影響をうけ、神である主とのコミュニケーション能力を失ってしまっていることに気が付くのではないでしょうか。確かに主は、私たちに語られる時、独特の語り方をもってコミュニケーションを取られます。私たちは本来、主のことばの意図を自然に受け取れたはずなのですが、罪によって関係が断絶して以来、主を知る知識を失ってしまい、主のことばの意図を取り違えるようになってしまいました。実はこれはサタンのいつものやり方(常套手段)なのです。私たちの考え方に影響を与え、主のおきての意図を巧みに誤解させるようにするのです。
「目には目を」このおきての焦点は「償い」にあります。被害者の被害の回復と罪人が加害に気づいて立ち返ることが焦点です。私たちが住んでいる社会では、例えば法律に違反して罰金が課せられたら、国に罰金を支払うわけです。それは罰なので、犯罪者が国にお金を取られるということです。しかし、償いは被害を与えた相手に支払うものです(出21:34)。損害を受け、傷つけられ、奪われ、虐げられた人たちの被害を回復するために償われなければならず、損害を与えた者は加害を認めて神の義に立ち返らなければなりません。
例えばアモス書を読むと、神の罰は民が主のもとに返ってくるためのものであったと言われています。主はこう言われました。《わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木が増えても、噛みいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。(アモス4:9)》主が行われたことは、あのバビロン捕囚でさえも、民が主のもとに帰ってくるためでした。
「目には目を」これは復讐の教えではありません。むしろ復讐にブレーキをかけています。人の復讐心は、目には目以上のものを報復したいと思うものです。一つの目には二つの目を、一つの歯には顔全体を、手には両腕と両足を、傷にはいのちを報復するというのが、人の恨み憎しみの力です。「目には目を」それは復讐にブレーキをかける掟でした。
またこのおきては、事件を見ている周りの人々に対する抑止力でもありました。律法にはこう書いてあります。《あなたはイスラエルのうちからその悪い者を除き去りなさい。そうすれば、民はみな聞いて恐れ、もう不遜なふるまいをすることはないであろう。(申17:12-13)》パウロも同じように教えてこう言いました。《罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。(Iテモテ5:20)》
神の国には、被害は回復され、加害者は主の義に立ち返り、周りの人々は悪をまねてはならないという価値観があるのです。先月、人権セミナーで講師が話していた事を思い出します。あれは性加害事件でしたけれども。加害者側(加害者本人や二次被害を起こした教区)が被害者に謝罪して、赦してもらうことを期待することは、あるべきことではないと話されました。加害者が何か言うべきことがあるとすれば、それは被害者の名誉が回復されるための言葉であるとも言われました。名誉を回復するための言葉とは、そのセミナーでは具体的に話されませんでしたが、例えば、何も事情を知らないはずの人たちが、「被害者の女の子が誘ったのではないか」など勝手な想像で噂を流すようなときに、加害者が出て行って「そのような事実はなかった。私が一方的に虐待した」と事実を述べること等でしょう。その言葉は、加害者であるからこそ有効であり、加害者にしか言うことができない言葉です。
「加害者が被害者に謝って、被害者が加害者を赦し、和解が起こる」というクリスチャンにありがちな期待は、新約聖書の教えを自己流でやってしまうという例の一つでしょう。旧約聖書には具体的な主のおきて(みこころ)が教えられているので、それを踏まえて、「悔い改めなさい」「赦しなさい」という教えを実行しようとするなら、悔い改めなさいとは単に謝罪の言葉を述べてスッキリすれば良いということではないし、赦しなさいとは自分で復讐してはならないことであって、主が報いてくださること信じて、その頭上に燃える炭火を積むことである(ローマ12:19-21)と分かるはずなのです。
被害者が受ける数々の苦しみはさることながら、この悲劇の一番の恐ろしさは、信仰へのダメージでしょう。教会が聖書の言葉に従って、私をさらに傷つけ、立ち上がれないようにした。そんな出来事に遭ってしまったら、どうして聖書の言葉を思い出したいと思えるでしょうか。教会の集まりに近づきたいと思うでしょうか。愛の神がいると信じ続けたいと思うでしょうか。
そういうわけですから、神の国の隣人との関わり方をよく学び、(それは私たちの従来の生き方では馴染のないことですが)聖霊の助けをいただいて、みこころを行うことを教えていただきましょう。
神の国には償いがあります。復讐ではありません。償いです。隣人の被害は回復されなければなりません。被害の回復のために何をするのか、あるいは何をしないのか。これが神の国の発想です。罪人が主に帰ってくるために何をするのか、また周りの人々が恐れて、不遜なふるまいを真似ることがないようにするにはどうするのか。これが神の国の視点なのです。
お祈りします《いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。》
天の父なる神様。われらの岩、われらの救いの神。敵から私たちを助け出されるお方。実にあなたは向かい立つものから私たちを引き上げ、不法を行う者から救い出してくださいます。
いのちを失った者にはいのちを回復させ、目を失った者には目を回復させてくださる主よ。世が知らない、本当の救いをあなたは成し遂げるお方です。私たちはあなたによって贖われ、あなたの民となりましたが、まだまだ神の国の生き方に馴染んでいません。どうか私たちがあなたの御言葉の意図を、イエス様が解き明かしてくださったように、まっすぐ理解し受け止めることができるように助けてください。
悪がはびこり、弱い者、虐げられた人々が泣き寝入りするだけの世界に、天の御国が近づいていることを宣べ伝えることができますように。私たちはこの新しい年度も、イエス様の十字架を掲げ、良い知らせを人々に伝えます。みこころを行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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