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2025.03.23 主日礼拝 「神の怒りをなだめるために」 マルコの福音書14:32-42

 



春の訪れを感じる本日は62回目の王寺教会創立記念礼拝でした。またメッセージはイエス様が十字架にかけられる直前のお話しでした。この受難節にイエス様の苦しみや主の深い愛を思い、過ごしていきたいです。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日はインマヌエル王寺教会の創立記念礼拝です。1963年(昭和38年)から62回目の記念日を迎えています。

時代を超えて、世界大の広がりをもつイエス様の教会(Universal church)ですが、ある地域に物理的に集められている集団を地域教会(Local church)と呼びます。ローマ教会やコリント教会などのことです。インマヌエル王寺教会もまた、奈良県の王寺町という地域に集まっている地域教会です。教会の歴史は、会社の歴史や国の歴史などで私たちが親しんでいる見方とは全然違う過去のまとめ方があります。聖書的な視点による過去のまとめ方です。聖書的な視点とは何でしょうか。「主が何を言われたのか。主が何をなさったのか。人はそれにどう答えたのか。主はどうお感じになったのか。人の受けた結果は何だったのか。人はどのようにして主に立ち返ったのか。」このような視点です。ですから、私たちがよく知っている現代の歴史書に必ず書いてあるようなことが、聖書には全然詳しく書いてないということが良くあるのです。

インマヌエル王寺教会とは、この時代、この場所に集められているイエス様の弟子たちであって、それ以上でもそれ以下でもありません。それは掴みどころがないような気もします。ある人々は王寺教会にしばらくいて、また次の群れに行きますし、ある人々は、誕生から葬儀まで王寺教会に属します。何を見て、王寺教会の62年の歴史と言ったらよいのでしょうか。_ その答えは、主の御業です。主イエス様はこの場所で何をしてこられたのか。この地域に住む人々はどのように主に応答したのか。これがインマヌエル王寺教会の歴史です。

主の御業は人々の証に断片的に明らかにされます。いくつもの証を繋げて見たときに、目に見えないお方である主が継続的にこの地で何をしてこられたのか知ることができます。主を証することを忘れてはいけません。互いに励まし合って、主がこの地に住む人々を愛しておられる証拠を見たと証しつづけましょう。

聖書をお開きください。マルコの福音書14:32-42【聖書朗読】

主イエス様はすべての人にとって道であり、真理であり、いのちです。イエス様を通してでなければ、誰も神のみもとに行くことはできません(ヨハネ14:6)。しかしながら、ほとんどの人はイエス・キリストを知らないで生活しています。イエス・キリストについては、いくつかの情報を知っているでしょう。例えば、先程、使徒信条が告白されていましたが、その文章を読むだけでもいくつかのことは分かります。マリアから生まれたんだなとか、十字架にかかったんだなとか。世界史の教科書でも少しは出てきますし、ネットで興味本位に調べる人もいて、イエス・キリストについて、いくらかのことを知っている人は多くいるのではないかと思います。でも、イエス・キリストを知っている人は本当に少ないのです。イエス様がどんなお方で、自分のために何をしてくださり、何を語りかけてくださり、どんな関係をもっているのか、個人的に分かっていません。イエス・キリストについて知ろうとするのではなく、目に見えなくてもあなたの目の前におられるイエス様を知ってください。

今日の出来事は、イエス様が逮捕されて十字架にかけられようとしていた直前のことでした。過越の祭りの食事(最後の晩餐)を弟子たちと共にされた後、いよいよ十字架にかけられなければならない時が迫っていました。Iヨハネ4:9にはこう書いてあります。《神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:9-10)》イエス様が地に来られたのは、最初からなだめのささげ物として十字架にかけられるためでした。御父は御子をなだめのささげ物とするために遣わされました。イエス様はそのことを承知で来られました。ですから、十字架にかけられなければならないことを弟子たちに説明しておられる場面が前にもあったわけです。

なだめるとは、怒りをなだめることです。怒りがなだめられるとは、怒りが静まるということです。みなさんが最近、怒り狂った時のことを思い出してみてください。どんなことで怒ったかはさておき、怒りが湧いてきて止まることを知らず、どうやっても収まらないことって誰しもありますよね。表現の仕方には色々あって、物理的に攻撃する人、冷たい言葉を言う人、陰湿な意地悪をする人、無視する人などそれぞれですが、怒り狂っている心はみんな同じです。そんな時に、怒りがなだめられ、静まることを私たちは経験していると思います。誰かがその怒りのただなかにやって来て、気持ちを認めてくれたり、怒りの原因になった痛みを取り除いてくれたり、慰めになるものを与えてくれたりして、て怒りが静まっていくことがあるでしょう。イエス様は神の怒りをなだめるために十字架にかかられました。

それでは、怒りをなだめる側になったらどうでしょうか。怒り狂っている人のところに行くのが好きな人はいますか。いないと思います。どうしてもやりたくないこと、恐ろしくてしかたのないことではないでしょうか。イエス様はゲッセマネの園に来て祈り始めようとしたとき、深く悩み、もだえ始め、弟子たちに言われました。《「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」(14:33-34)》イエス様が向かおうとしておられたのは、ただの人間の怒りではありません。天地を創造された神である主の怒りです。その怒りはイエス様が起こさせた怒りではありませんでした。人が犯した罪による怒りでした。

そもそもなぜ神は怒っておられるのでしょうか。それは聖書に書いてあります。古代イスラエル人たちが全人類を代表して、人が神に対して何をしているのか明らかにしました。神である主はこの世界をお造りになり、人を形作って、すべての必要を与え、恵みによって自由を与えてくださいました。それなのに人は神である主を忘れ、目に見えないからまるでそこにいないかのように振る舞い、木や岩や金銀で作られた偶像をより頼み、財産が私を守り豊かにすると言って、主を愛し主を頼ることを全くしませんでした。神の恵みによって生きているのに、人は全く恩知らずなのです。恩知らずな人に対して怒らない人がいるのでしょうか。このような恩知らずの罪に、神は激怒しておられるのです。

イエス様がある時、例え話で教えて下さいました。あるところに王様がいました。一人の家来が王様から6000億円借りていました。返済期限の日に彼はお金を返すことができませんでしたので、王様は彼に持ち物を全部売って返済するように命じました。家来はひれ伏して「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言いました。王様はかわいそうにおもって彼を赦し、借金を免除してやりました。ところが、王宮からの帰り道に、その家来は100万円を貸していた人と出会いました。彼はその人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言いました。その人が返済を待ってくださいというのも聞かず、彼はその人を牢屋に放り込んでしまいました。それを知った王様はこの家来に怒ったという話です(マタイ18)。私たちは恩知らずな人たちに対して烈火の如く怒りをあらわにするのに、自分自身は神に対して恩知らずであることを何とも思っていません。私たちの本当の姿です。人はみな神に対して罪を犯しているのです。

その神の怒りをなだめるために、進んでいこうとして、深く悩み、もだえて、祈っているイエス様の近くで、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエス様の願いは「近くに座っていてほしい、一緒に祈ってほしい」ということでした。イエス様は世界で唯一、罪を犯したことのないお方。主を裏切ったことが一度もないお方です。イエス様のせいで神は正義の怒りを起こされたのではないのです。「私のせいじゃないんだぞ。お前たちが行って、自分で怒りをなだめてこい!」と怒鳴っても仕方がないような場面で、イエス様はただひたすらアバ、御父と向き合って心の思いを注ぎだされ、そしてせめて弟子たちには、この十字架の意味をよく分かっていてほしいと思われたのです。でも、弟子たちは眠っていました。口先では調子の良いことを言っていたのに(14:27-31)、自分が恩知らずだとは一欠片も気がついていません。神の怒りがあることを知りません。イエス様が人のために神の怒りをなだめてくださると前に聞いていたのに、全然興味がなく、すっかり忘れています。彼らはイエス様がもだえて悲しんでおられる時に眠っていたのです。眠っていた弟子たちとは誰のことでしょうか。

そんな弟子たちにイエス様はこう言われました。《もう十分です。時が来ました。…立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。》なんという愛でしょうか。世界中の人々が全く無関心であり、最も近い弟子たちさえも眠っていたのに、それにもかかわらず主イエス様は「さあ、行こう」と言って、その身を差し出されました。

主イエス様はあなたのために神の怒りをなだめてくださいました。もしあなたが主イエス様の十字架の意味を知って、十字架で流されたいのちは私のためのなだめのささげ物であったと信じるなら(心の鴨居に、子羊であるイエス様の血を塗るなら)神の怒りはなだめられて、あなたを過ぎ越します。しかし「そんなの知ったことか」と言って受け入れないなら、神の怒りは過ぎ越されることなく、突然やってくる主の日にあなたのうえにくだります。信じる(信仰)とは、単に心の中でひっそり念じるだけのことではありません。信仰は行いとともに働き、行いによって完成されるものです(ヤコブ2:22)。主イエス様を信じる人はイエス様が言われたように、イエス様の弟子となって洗礼を受けます。恩知らずなあり方を捨てて、神に恩を返す人になります。神があなたにあわれみ深いように、他の人にあわれみ深くなります。イエス様がご自分のせいではないのに、神の怒りをなだめてくださったように、自分のせいではない怒りをなだめるために自己犠牲を払える人になります。

かつてイエス様にツァラアトを癒やしていただいた10人は、一人だけがイエス様のもとに帰ってきて、主の足元にひれ伏して感謝しました(ルカ17)。あなたはどうされますか。9人のように、問題さえ解決すればそれでいいと恩を忘れてどこかへ行ってしまいますか。それともイエス様のもとに帰ってきて、感謝し、イエス様の弟子となりますか。

お祈りします《立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。》

天の父なる神様。イスラエルの神、【主】よ、あなたは正しい方です。人はあなたを捨て、ほかの神々に犠牲を供え、自分たちのすべての手のわざで、あなたの怒りを引き起こしました。こうして、あなたの憤りは燃え上がり、消えることはありません。

あなたが人をさばく日に、私たちの心は耐えられるでしょうか。人の手は強くあり得るでしょうか。主であるあなたが語り、事を行われます。

しかし、あなたの愛の深さは測り知ることができません。神の燃え上がる憤りをなだめるために、御子を遣わされました。一体誰が、神の怒りの前に立ちえるでしょうか。ただ一人、罪のない神の御子、人と同じくなられたイエス様だけがおできになることでした。私たちが引き起こした神の聖なる怒りでありましたのに、当の私たちは眠っていて、あなたはお一人でそこに向かわれたのです。

あなたの贖いの代価によって、私たちは救われました。恩知らずな者たちをあわれんでおゆるしください。あなたに感謝し、その御後に従うために戻ってきました。あなたは私たちの神、私たちはあなたの民です。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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