まだまだ寒いですが春の息吹を少しずつ感じるようになりました。今日のメッセージを聞いて常に言い訳を考えて自分自身を守ろうとしてしまう心の内側を見透かされたようで、しっかりと主のみこころを行っていく者になりたいと思いました。そのためにも新約聖書だけでなく旧約聖書も学んでいく必要性を改めて教えられました。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も主のみ前に集められ、共に主を恐れる時をもてますことを感謝いたします。私たちにとって、主の日は喜びの日です。けれども、最初から喜びの日だったのではありません。シナイ山に降りてこられる主の臨在を民が見たとき、彼らは非常に恐れました。主は正しいさばきを行われる方です。彼らは、主がエジプトで行われた奇跡をよく知っていました。もし自分たちの心の中にある、神の義にふさわしくない部分が見つかったらどうなるのでしょうか。あのエジプトにくだされた恐ろしい怒りが、今度は自分たちに下ると思ったでしょう。主のみ前に出ることは本来、恐ろしいことです。かつて、古代イスラエル王国が主を捨てて偶像礼拝をしていた時、偽預言者たちは神の民に「平安がある」と言いました。「平安だ。平安だ」と語ったのです。主は偽預言者たちを咎めなさいました。《悪しき者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きることがないようにした。(エゼ13:22)》と言われました。主はどんなときにも、私たちが悪の道から立ち返って生きるように願っておられます。
十字架を見上げることなしに、平安だと言うべきではありません。それは偽の預言です。御子イエス様の十字架には神の怒りがあります。罪を罪としてはっきりと罰する正義の現われがあります。私たちはみな悪しき者ではありませんか。御子の十字架の前に立つことは恐ろしいことです。しかし、あの十字架には神の無条件の愛が現されています。イエス様は私たちのためになだめの供え物となられました。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらしました。ここに本当の平安があります。私たちは今日も主のみ前に出て、悪の道から立ち返ろうとしています。もう後戻りしないでイエス様についていくと決めたのです。私たちのコーチである聖霊なる主に、みこころを行うことを教えていただきましょう。
聖書をお開きください。民数記35:9-28(308ページ)【聖書朗読】
隣人との関わりを聖書から学んでいます。私たちはクリスチャンになってからも、隣人との関わりを結構、自己流でやっているのではないでしょうか。現代クリスチャンは新約聖書に偏りがちです。赦しなさいとか、怒るのに遅くなりなさいとか、励まし合いなさいとか。それらの御言葉をおぼえて、その先は自己流でやってしまいます。しかし、初代教会に語られたそれらのことばは、要するに「聖書を思い出し、聖なる生き方をしなさい」という意味です。当時の聖書といえば旧約聖書のことであり、そこには具体的に神の民の生き方が書いてあります。新約聖書のことばが短く簡潔なのは、すでに旧約聖書で語られていることを一々細かく言う必要はないからです。初代教会は聖書を学んでいて、神の民の生き方を教えられていました。でも、現代クリスチャンである私たちは案外そうではありません。事の経緯を分かっていないし、具体的に隣人とどのように関わるべきか学んでいないのです。結果として、世で学んできた古い生き方を新しいパン生地に混ぜてしまうことになります。そのような状態では、イエス様の教会にある愛の交わりが現れてくることを期待できません。
さて、先週の話を思い出してください。主はご自分の民に、《あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(レビ19:18)》と教えられました。ところが今日の箇所では、《血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい。(民35:19)》と書いてありますね。「たった一週間で全く反対の話をするのか?どういうことか」と思われたでしょう。これは反対の話をしているのではありません。翻訳上の難しさから生じる誤解です。12節に「復讐する者」、その後にも「血の復讐をする者」という言葉が出てきます。この「復讐する者」は、元のヘブル語では「ガアール(gaw-al'、גָּאַל)」とかいてあります。ゴエールの動詞形です。ゴエールは家族の話で出てきた贖い主のことです。家族の長(父の家の父)は家族を贖う役割をもっていました。今日の箇所に出てくる、「復讐する者」とは、ゴエール(贖い主)のことです。恨みと復讐心に囚われて仕返しをする人という意味ではありません。正義のために行動を起こさなければならない役目をもった一族の長のことです。《あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。》という主のおきては、この箇所でも変わりません。
血の贖いとは何でしょうか。これは出エジプトの10の災いのうち、一番最後にもたらされた主のさばきを思い出させます。ヤコブの子孫がエジプトで奴隷になっていた時代、エジプトのファラオは数が増えていくイスラエル人を恐れて、非常に重い苦役を課しました。そしてついには、イスラエル民族に生まれてくる男の赤ちゃんをすべて殺してしまうように命令したのです。主を恐れる助産師たちが男の子たちを殺さなかったので、多少の被害は免れましたが、その後エジプト人たちが命令を受けて、男の子を川に投げ捨てるようになりました。主はイスラエル人たちが泣き叫ぶのをお聞きになり、彼らを贖う契約を思い出されました。モーセを選んで、ファラオの前に立たせ、民を解放するようにいって、順番に10の災いをくだされました。最後の災いが起こる前に、主はモーセを通してファラオに告げました。「民を解放して主に仕えられるようにしなさい。真夜中頃にエジプト中の長子は、ファラオの長子から、家畜の初子に至るまで、みな死ぬ」と。しかし、ファラオは心を頑なにして、イスラエル人たちを解放しませんでした。それで、その日の真夜中に、エジプト中の長子は主に打たれて死んでしまいました。イスラエル人たちの人口が増えて恐ろしいからいのちを奪ってしまえというのは、主のおきてに逆らうことでした。神の聖なる怒りが、過越されないでくだったのです。これが血の贖いです。
創世記9章で、主はこう言われました。《わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。(創9:5-6)》贖い主は、家族の長ですが、家族に主のみこころが行われるように、家族に必要を与え、自由を保証し、守り、敵から救い、主を礼拝することを教える人でした。贖い主(ゴエール)が血の贖いをするといったとき、それは恨みや復讐心から仕返しをするのではなく、主のみこころが決して忘れられないようにという心から、神の義を行うのです。先週の「隣人を戒める」に含まれる事柄です。
今日の箇所は、誤って人を打ち殺してしまった殺人者が逃れる町々を定めなさいというおきてでした。血の贖いは、家族の長が行うものでしたが、彼らだけに任せて、周りの人々は無関心でいるのではなく、隣人たちも共に主のみこころに向き合い、すべての人が主を恐れるようにしなければならないと言われているのです。神の民は、たとえ敵であっても隣人の所有を尊重しなければなりません。いのちもまた約束の土地と同様に、主から与えられたものです。「盗んではならない。殺してはならない」のです。当然ながら、誤って人を殺してしまった人は、隣人の所有を尊重しなかったわけではありません。贖い主(ゴエール)が、それを正しく判断できれば良いのですが、そうでないときには隣人たちが関心をもって、逃れの町を用意するのです。こうして、家族の長も主が「隣人の所有を尊重するように」言われたことを示そうとしているし、家族を超える隣人たちの共同体も、同じく主のみこころを示すことになります。
ここ数週間の繰り返しになりますが、この律法は法律ではありません。家族の中で主のみこころがおぼえられるように。また家族だけではなく隣人同士の中でも主のみこころがおぼえられるように。そのような神の民の聖なる姿が示されています(IIサム14:1-11参考)。イエス様の時代の律法学者やパリサイ派たちは、イエス様がいつも主のみこころを行っておられたのに、それを全く理解できませんでした。律法を法律だと思っていたからです。なぜナザレのイエスは律法の規定を守らないのか。やつがメシアであるはずがないと憤慨していました。しかし主イエス様はただ一人、律法を完全に守っておられました。律法の規定をやぶっても、律法に示された主のみこころを行われました。さて、私たちはどうでしょうか。
イエス様の教会である私たちは、全員が主を恐れ、みなが主のみこころを示し続ける人々であるはずです。コリント教会で問題が起こっていたとき、使徒パウロはこのように言いました。《現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。》ある一つの問題において、教会のすべての人が主のみこころを追い求めていなければ、イエス様の弟子の群れとは言えません。
神の民の隣人の間に問題や争いがあったように、私たちの群れも、現実に問題や争いを経験しています。ところがその時に、世の人々と全く同じ方法で争いを解決しようとしているのを見ました。というか、教会全体が主のみこころを示そうとしたという場面を見たことがありません。誰がルール違反をしたのかと言い合っていたり、誰がAさんの味方で、誰がBさんの味方かと噂していたり、どちらが勝訴でどちらが敗訴かと考えていたり、恨みや復讐心が垣間見えたり、そんなことがあったのではないでしょうか。まるでこの世の有り様と同じです。神の国の福音はどこにあるのでしょうか。
神の国の隣人同士のあり方をそもそも知らない。これはあるのかなと思います。御言葉をよく学びましょう。新約聖書だけつまみ食いするのではなく、神の民の聖なる関係を具体的に学ぶ必要があります。新約聖書(イエス様の教え)の解釈なしに旧約聖書を理解することはできませんが、旧約聖書なしに自己流でやってしまうのは大いに問題があります。
また、主の教えられた聖なる共同体の生き方をみんなで求めようとするなら、AさんとBさんのどちらの落ち度が大きいのかという質問は、根本的にズレていますね。主はご自分の聖なる教会に、どのような人間関係をもちなさいと言われたのでしょうか。関係が損なわれたときに、「もう一度、主が示された教会のあるべき姿を思い出そう」と口々にいうような群れになりましょう。なぜCさんやDさんは何も関わりがない様子なのでしょうか。なぜ裁判のような考え方があるのでしょうか。
第1週目の祈祷会で行われている読書会ですが、インサイド・アウトという本を読んでいます。今月の箇所は、私たちの心の内側にあるものを聖書を通して指摘していました。いのちの水の泉である神から離れた人間は、神がお与えになった尊厳をいつも渇望しています。ところが、この渇望を自分を自分で守ろうとする自己防衛によって満たそうとするのです。間違った戦略です。その2つのものが罪人の心の内側にあります。安全な距離を保ったままで互いに心地よくかかわれることを追い求めるようになります。これはこの世の有り様そのままです。このような様子では、主イエス様の愛が教会全体に現れることは期待できません。復讐してはなりません。自分で自分を守ろうとすることをやめて、主のみこころを一緒に行っていきましょう。
「家族の長は血の贖いをしなさい。隣人たちは逃れの町を定めなさい」と主は言われました。これはどういう意味ですかと子どもたちが尋ねるとき、「自分の欲望によって隣人のいのちを奪ってはいけないと主は教えられた。主を恐れなさい」と答えるためです。
お祈りします《あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。》
天の父なる神様。神の神、主の主、偉大で力があり、恐ろしい神。えこひいきをせず、賄賂を取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行い、寄留者を愛して、これに食物と衣服を与えられるお方。私たちの主よ。
あなたは御言葉によって、ご自分のみこころを具体的に教えてくださっています。自分の欲望のために隣人のいのちを奪ってはいけないと教えて下さいました。しかし、人はあなたから離れて、心に一時的にしか満たすことのできない穴があいてしまいました。渇望を満たそうとして、自分で自分を守ろうとするのです。そのためになら隣人のいのちが脅かされ、奪われても仕方がないと言わんばかりです。主よ。私たちはこのような間違った戦略を振り捨てて、一心にあなたを求めようとしています。どうか私たちのうちに働いてください。
みこころにかなわない問題や争いが起こったとき、裁判を始めるのではなく、みなが一緒になって「主のみこころを思い出そう」と口々に言うように。どうか私たちを作り変えてください。あなたは私たちの神、私たちはあなたの民です。あなたを慕い求めます。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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