[礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。兄弟姉妹が共に集まり、互いに励まし合い、一緒に主を待ち望むことができるとは、なんと幸いなことでしょうか。
今年の標語聖句は《あなたのみこころを行うことを教えてください》です。みこころを行うことは祝福につながる道です。その祝福はレビ記26章や申命記28章に書いてある事柄です。3つのことが書いてあります。①《わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(レビ26:4)》収穫が豊かに与えられます。②《わたしはその地に平和を与える。あなたがたはだれにも脅かされずに寝る。また、わたしは悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの地を行き巡ることはない。(レビ26:6)》住むところに平和が保たれます。これら2つのことは、私たちが容易に想像し、期待することです。実際、クリスチャンになったばかりの頃は、豊かさと平和を求めて祈ることが多いのではないでしょうか。しかし、しばらくクリスチャン生活を歩むうちに、次の3つ目の祝福が一番のものであると気が付きます。③《わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。(レビ26:11-12)》主のみこころを行う人は祝福を受けます。その一番の祝福とは「もはや主は私のことで悲しんでおられない」ということです。私たちを愛してくださっている主の心に、涙はなく、喜びがあることです。主のみこころを行うことを知らなかったとき、主はいつもつらい思いをしておられました。ご自分の子どもたちである私たちが罪を犯し、のろいを受けなければならないことは、天の父にとって大変な悲しみだったのです。しかし、もはや悲しみは過去のものとなりました。主はみこころを行う者たちを見て、喜んでいてくださいます。これが一番の祝福です。
《あなたのみこころを行うことを教えてください》と今日も祈りつつ、主のことばに耳を傾けましょう。聖書をお開きください。レビ記19:11-18(211ページ)【聖書朗読】
「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」主のみこころを聖書から学んでいます。主は初めに世界を創造され、人をご自分のかたちに造って園に置かれました。神である主は言われました。《「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創2:18)》そして、アダムから取ったあばら骨を一人の女エバに造り上げました。アダムはエバと結ばれ、一体となり、世界で初めの夫婦となりました。主が造られた人間関係は、まず夫婦から始まったのです。夫婦は互いに恋い慕うように造られた存在です。愛によって結び合わされ、家族でなかった二人が家族となることです。夫婦は共に助け合って主の働きをします。それから、子どもたちが与えられ、家族関係が生まれました。家族は主を礼拝する人たちとして造られました。家族は主を恐れることを教え、学びました。家族は、夫婦がそうであるように、共に助け合って主の働きをします。また家族は父に贖われる人々です。衣食住は備えられ、敵から守られ、捕らえられたときには救出され、家の中で自由が与えられる人々です。その家の父は家族の贖い主でした。さらに、家族はどの家にも属していない寄留者や孤児、やもめなどをもてなし、受け入れる人々です。しかし、そのような主のみこころがありながら、実際には家族は破綻と再出発の場でありました。ここまでが昨年お話してきた部分です。
さて、家族の次に、主が造られた人間関係は何でしょうか。家族とは、私たちの見慣れている核家族や大家族よりも、もっと大きなグループでした。父の家と呼ばれていましたが、今の感覚ですと一族と言ったほうが近いかもしれません。一族はひとつの場所にまとまって家を連ねていましたが、その次の人間関係というと、ご近所関係となります。家と家の関係です。それぞれの家の父が、ひとつの町で集まって、家同士のあれこれをやりとりしていました。
今日開いた箇所には、家族の次の関係について4つの単語がでてきます。隣人(רֵעַ)、同胞(עָמִית、仲間)、兄弟(אָח)、民(עַם)です。家族が「父の家」と呼ばれたように、ご近所関係を指す言葉がありました。主が律法で示された掟は、約束の地に共に住む人たちを愛しなさいというものでした。盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。虐げてはならない。軽んじてはならない。不正なジャッジをしてはならない。中傷して回り、いのちを危険にさらすことがあってはならない。憎んではならない。恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。このように言われました。
ここにも夫婦関係から家族関係にみたことと同じことが起こっています。夫婦は互いに恋い慕い、愛によって結び合わされて、共に主の働きをします。それと同じように、家族も共に主を礼拝し、共に主の働きをするのです。夫婦に見られる人間関係が、家族にも拡大されていき、夫婦がそうするように家族内の関係でも共に助け合います。そして家族関係にみられることが、今度は家を越えたご近所の関係に広がっていくということです。それで隣人を兄弟と呼ぶのです。あなたが家族にするように、夫や妻にするように、自分自身にするように、隣人にも同じようにしなさいと主は言っておられるのです。
現代は夫婦から始まる人間関係を重要視しない時代です。夫婦関係は色々とある人間関係の中のひとつにすぎないと考えている人が多いでしょう。世の世界観は、政府と個人によって社会が成り立つと見ています。民主主義にしろ、共産主義にしろ、その点は変わりません。愛の関係によって社会が成り立つとは考えず、法律によって社会ができていると考えます。その理由は想像に難しくありませんね。夫婦や家族があまりに破綻しているから、それを模範にして社会が成り立つとは思えないという現実があります。「愛の関係って、あなたの頭はお花畑か」と言われてしまいそうです。警察白書によると、日本国内で起こった殺人事件のうち54.3%(475件、2019年)が親族内の殺人だったそうです。残念ながら家族関係や夫婦関係はすべての人間関係の模範になっていないのです。これが神を認めない世界の現状です。最高ではないけれど、マシな方法として、政府と個人という構造にしています。困った人は政府が制度で守る。愛の関係は社会の基礎ではない。そう人々は考えています。
昨今、巷でミニマリストや断捨離という言葉が聞かれるようになりました。余計なものを手放そうと言って、持っているものを売ったり、捨てたりして、必要最低限のもので生活しようとする考えです。それは物だけではなく、人間関係にも及んでいき、「私にとって意味のない人との関係は断捨離していこう」などと言う人たちもいるのだそうです。ある時、ミニマリストを題材とした漫画を見かけました。その漫画の話です。主人公はあるアイドルの大ファン(推し)でしたが、そのアイドルがスキャンダルを起したことから、一気に熱が冷めてしまいました。これまで集めてきたグッズが、宝の山からゴミの山に変わりました。それをきっかけに断捨離に目覚めたのです。ファングッズを処分したところから始まり、オタク仲間との連絡をやめ、美味しい食べ物は食べてもトイレに出ていくだけと思って食べに行かなくなり、職場の仲間ともプライベートでは会わなくなり、あれをしても無駄、これをしても無駄と次々に思うようになりました。そして最後に行き着いたのはビルの屋上。_ 「食事を摂って、仕事して、嫌な目にあってすり減るだけの人生なら、今この瞬間に終わるのが一番すり減らない。生きているのが一番非効率だったんだ」と思い至ったのでした。漫画はそこで友人が登場して、主人公は飛び降りるのをやめるという話で終わりました。愛で結び合わされる関係をすべての人間関係の模範としない世界に私たちは囲まれています。その世界では、あまり深く突き詰めて考えないほうが良いということになっています。真面目に突き詰めていくと生きる意味は見当たらないと言っているのかもしれません。
聖書はこのように言っています。Iテモテ4:1-4《しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。》神様が造られたものを見て感動することってありますよね。どんなに辛い日にも大自然を見て「生きててよかった」と思うことがあります。いのちが生まれたとき、生まれてきておめでとうと誕生日に祝われたとき、病気で死にそうになってから治ったとき、「生きててよかった」と思いますね。美味しい食べ物に神様の恵みを感じて「生きててよかった」と思います。全く他人だった二人が愛によって結び合わされたとき「生きててよかった」と感じます。私たちの心はそれを知っているのです。効率/非効率、生産性という価値観が、神が造られたものの良さを潰してしまっています。主のみこころは、捨てることではなく、すべての良いものを感謝して受け取ることです。
結婚が良いものだと言っても、すべての人が結婚するわけではありません。イエス様も独身でしたし、このようにおっしゃったことがあります。《母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。(マタイ19:12)》聖書は、結婚した人が独身者より優れているとは言っていません。神である主が最初の人間関係としてお造りになった夫婦関係には、すべての人間関係の基礎となる愛の関係があると言っているのです。ですから、それを模範として、愛の関係を家族に、またご近所関係にも同じように拡大していくように命じられています。
さて、みなさん。エリコの城壁がハッキリと見えてきたでしょうか。「主のみこころを行いましょう」みこころがぼんやりとしか見えないときには、よしやろうと思いますよね。でも「え、なに?互いに恋い慕う夫婦関係?家族が共に礼拝し、助け合って主の働きをする?ご近所さんを自分自身のように愛する?。。。え、そいうこと?」「無理無理無理無理~」エリコの城壁、信仰の戦いがハッキリと見えますね。「そんなん私だけが頑張ったって、相手が同じようにしてくれないじゃない」_ ダビデもそうだったのです。周りの家来たちが言っていましたよね。「サウルを殺さない、アブシャロムを手にかけないと言ったって、他の人はそうしていないじゃないですか。このチャンスを逃さないで、他の人と同じように敵を討ってください。」しかし、ダビデは祈りました。「あなたのみこころを行うことを教えてください」と。
イエス様が突然帰ってこられた時に、主のみこころを行っているところを見られる人は幸いです。主はこう言われました。《わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。》
お祈りします《心の中で自分の兄弟を憎んではならない。…あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。》
天の父なる神様。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちます。
あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたは聖なる者でなければならないと言われた主よ。私たちはあなたに救い出された者たちです。あなたが私たちの主であり、私たちはあなたのみこころを行います。あなたの御名によって、あなたの民として相応しい歩みをさせてください。
この世界は、あなたを離れて久しく、愛によって結び合わされる関係を見失ってしまいました。教会が愛によって結び合わされると聞いたとき、何か突拍子もないことのように思えました。しかし、夫婦も家族も近所も、本来は愛の関係が土台となって成り立っていたはずなのですから、あなたにとっては当たり前のことでした。主よ。どうか私たちをあわれんでください。神の国が来ることを切に願います。あなたのみこころを行うことを教えてください。聖霊なる主よ、私たちを平らな地に導いてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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