教会ではクリスマスの準備を始めています。
今年も沢山の方が教会に訪れますように。(あかつきさん)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。宣教月間の2週目に入りました。毎年、クリスマスの準備で忙しくしている頃にやってくる宣教月間ですが、宣教とクリスマスは切っても切れない関係があります。クリスマスは主イエス様が人として地に来てくださったことを記念しています。これは宣教師の原型です。
ヨハネの福音書にはこのように書いてあります。《この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。》イエス様が来てくださるまで、旧約聖書の物語を読んでいますと、エデンの園を追い出されてから、何度も何度も罪の闇に打ちのめされているイスラエルの姿を見ます。こうなれば良くなる、ああなれば良くなると思って、自分の目に良いと思う方向に進むと、また別の闇が襲ってきたのです。まるで蜃気楼を追いかけるような歩みでした。あちらに良いものが見えるぞ!と走っていったら、そこには何もありません。古代ユダヤ人たちはバビロン捕囚から解放されて、エルサレムに帰ってきました。神殿も建て直しました。でも、何か思った通りではなかったのです。帝国の支配は続いているし、別の苦難がありました。その頃にユダヤ教が出来上がってきます。神殿で儀式をするのが大事だとサドカイ派、律法のルールどおりの生活が大事だとパリサイ派、祈りと断食によって欲を断ち切るのが大事だとエッセネ派、帝国と戦って勝利するのが大事だと熱心党…。しかし、イエス様は心の内側から汚れが出てくると指摘され、内側を隠すように表面を白く塗っても、神の前には意味がないことを明らかにされました。イエス様にはいのちがあり、イエス様は人の光です。闇はこの光に打ち勝ちませんでした。御子イエスの血が私たちをきよめます(Iヨハネ1:7)。旧約聖書はこんなに分厚いのに、こんなことは初めてでした。人々は光を求めて見当違いの方向を探し回っていましたが、どこに行っても闇を見るばかり。しかし、光が私たちを捜して来てくださったのです。
宣教師は主イエス様を指し示すために出かけていきます。「なぜあなたは故郷を離れて、ここに来て住んでいるのですか?」と聞かれたときに「イエス様があなたを捜して来られたことを知っていますか」と答えるためです。宣教師のために祈りましょう。働きが成功するように祈るのではなく、イエス様の姿を映し出し、イエス様が来てくださったことを多くの人に伝えられるように祈りましょう。
聖書をお開きください。創世記4:1-16、25-26(6ページ)【聖書朗読】
家族についてのお話は今日で一旦区切りとなります。「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで家族について見てきました。家族は主を礼拝する。家族は教え、学ぶ。家族は仕事をする。家族は贖われる。家族はもてなし、受け入れる。このように主が掟によって教えてくださった家族のあり方が聖書には書かれていました。
しかし、今日お話したいのは、聖書はそれだけの書物ではないということです。主の掟(御心)を教えていただいた人たちが、実際どうだったのかが記されているのです。聖書はこうして文字が書いてある本ですが、紙に文字が書き込まれる前に、出来事が起こっています。主がお造りになった世界とそこに置かれた人々、そして神である主と彼らとのやり取りという、現実に起こった出来事があるのです。そしてそれを次の世代にも伝えるために、文字となって、私たちはそれを読んでいます。かつて何があったのか、そして今、私の人生に何が起こっているのか知り、今、私に語っておられる主のことばを聞くために聖書が与えられています。聖書の言葉が現実につながるものでないなら(もし現実逃避のために読まれるようなことがあれば)、神である主との関係は深まらないままになってしまいます。
さて、家族がどうなったのか、思い出してみましょう。まず先ほど朗読しましたのはアダムの家族に起こった出来事です。アダムとエバはエデンの園で罪を犯し、のろいを受けました。しかし、主は彼らを愛しておられたので、園を追われた彼らをなおも祝福されました。カインとアベルが生まれたのです。世界で初めの家族でした。長男のカインの名前は「私は手に入れた」という意味です。どれほどの喜びだったのでしょうか。そうしてもう一人、男の子が与えられました。喜びに喜びが増し加わりました。ところが、大事件が起こりました。カインがアベルを殺してしまったのです。アダムとエバの様子はほとんど書いてありませんが、想像するに余りある悲惨な状況だったことでしょう。殺されたのも息子、殺したのも息子なのです。どのように心を整理したら良いのでしょうか。アダムの家族は破綻しました。
信仰の父、アブラハムの家族はどうでしょうか。甥のロトと妻のサラ、女奴隷のハガル、奴隷からの子イシュマエル、妻からの子イサク。彼らがアブラハムの家族でした。ロトとは微妙な関係です。一緒に仕事をすることが難しくなり、分かれることになりました。ロトが敵にさらわれた時には助けに行きました。どこに住んでいたかも知っていたし、絶縁ではなかったのですが、ロトは主を礼拝する家族を離れて、もはや一緒に礼拝しなくなりました。ハガルはサラと、サラもハガルとうまくいきません。イシュマエルが生まれてから、ハガルはサラを軽く見るようになりました。アブラハムが保身のために、サラをゲラル王アビメレクに差し出すような事件もありました。さらにイシュマエルがイサクをからかっているのを見たサラは、ハガルとイシュマエルを家族から追放するようにアブラハムに迫りました。アブラハムはこの事態を治めることができませんでした。アブラハムの家族は破綻しました。
イサクの家族はどうでしょうか。妻のリベカによって、双子の男の子たちが与えられました。ヤコブとエサウです。この二人は長子の権利をめぐって、互いに憎しみ合いました。エサウはヤコブを殺そうとし、ヤコブは逃げ出して、家を出ていきました。また実はイサクとリベカの夫婦関係が悪かったことが、息子たちの争いのひとつの原因であると暗に示されています。イサクもまた父アブラハムと同じように、自分の命を助けるために、妻のリベカをペリシテの王に差し出すようなことをしました。イサクの家族は破綻しました。
ヤコブの家族はどうでしょうか。ヤコブには二人の妻たちと12人の子どもたちがいました。それだけ子沢山だったのですが、ヤコブは息子たちの誰よりもヨセフを愛していました。《ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。(創37:4)》と書いてあります。兄たちはヨセフを殺そうと企み、結局殺しませんでしたが、奴隷商人に売り飛ばしてしまいました。ヤコブはヨセフが死んだと知らされ、悲しみました。他にも家族の不祥事が続出しました。ルベンは父の側女と関係をもちました(創35:22)。シメオンとレビは、妹の復讐をしない父の代わりに、シェケムの男たちを虐殺し、ヤコブを困らせました(創34:30)。ユダはやもめとなった嫁のタマルを贖わず、夫を与えませんでした。ユダは変装して道端にいたタマルを遊女と思って関係をもち、子どもが生まれたのです。ヤコブの家族は破綻しました。
モーセの家族はどうでしょうか。彼の妻はミディアン人のツィポラで、息子たちがいました。ところが、モーセの息子たちは割礼を受けていませんでした。割礼は主がアブラハムとの契約の中で定められたことで、異国人から家族に加わる者も受けさせるように言われていました(創17:10-12)。ですから、ミディアン人の妻との間に生まれた子たちも、割礼を受けて、主との契約の中に入れられるべきだったのです。でも、モーセはイスラエルを救い出すという一大事に出かけようとする時に、これは私一人の仕事、家族は家族と考えていたようでした。主から与えられた仕事を助けるために配偶者が与えられています。家族も互いに主の働きを助け合って行うために与えられています。現代人はこれを家族の破綻とは思わないかもしれませんが、主の掟からは外れていました。ひとりで仕事に打ち込もうとしたモーセの家族も目に見えないところで破綻していました。
次の時代も同様です。士師の時代はめちゃくちゃですし、ダビデ王の家族もそうでした。
彼らはみな主の掟を教えられ、主と契約を結び、主の命令に従いますと誓った人々でした(出24:3)。しかし、主の御心を知っていながら、罪のために、すなわち嫉妬、欺き、えこひいき、憎しみ、見下し、自己顕示欲、仕返し、対立、性的暴力、殺人などによって、関係を壊し、家族を破綻させてしまいました。これが神の民です。神である主がわざわざ文字にまでして、3500年も経ったあとの私たちに聖書を渡して伝えたかったことは、神の民の家族が破綻していたということです。
しかし聖書には、良い知らせが書いてあります。《アダムは再び妻を知った。(25)》非常に簡潔に、まるで何事もなかったかのように書いてありますが、家族内で殺人があったのに何事もなかったわけがありません。エバは《「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」》と言いました。私たちは何とか乗り越えたとは言わず、神が授けてくださったと言いました。神である主が彼らを立ち上がらせてくださった何らかの出来事があったのでしょう。神が再出発を与えてくださったと告白できたのですから。
同じように、家族から追い出されてしまったハガルとイシュマエルは、荒野で主と出会いました。最初の追放の時には、主はハガルが家に帰れるようにしてくださいました(創16)。二度目の追放の時には、主は二人の命を救い、新たな家族の出発を与えてくださいました(創21)。
ヤコブとエサウはあれから何年も後に、再会し、和解しました。父イサクが亡くなった時には、二人で一緒に父を葬りました。ヤコブはヤボクの渡し場で、神である主と格闘しました。《「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創32:26)》ヤコブは何のためにあれほど必死に神と格闘したのでしょうか。エサウに赦してもらうためです。主は彼らを和解させてくださいました。
ヨセフはあの物語の最後に、兄たちに言いました。《あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。(創50:20)》モーセの家族にも、命の危機という試練を通してでしたが、主が正しい道に導いてくださいました(出4:24-26)。
聖書はこう伝えています。神の民の家族には、主が与えてくださる赦しと再出発があると。_ ここに良い知らせがあります。
神の民が世界に果たした証とは何でしょうか。神の民を見れば、主が生きておられることが分かると言いますが、どのような証があったのでしょうか。神の民は素晴らしく清らかでキラキラした人たちだったと証明されたのでしょうか。いいえ。彼らは祝福の道を選び取れず、破綻しました。守ってくださる贖い主の敵となって、主に裁かれてしまったほどです。しかし、それにもかかわらず、主が彼らの神であったので、神の民は赦しと再出発を経験しました。それが証でした。
「教会は楽しいよ」と宣伝することは宣教ではありません。実際に、教会は天国のようなところではありません。旧約から新約時代に入って、教会が神の民に接ぎ木されましたが、何か変わったでしょうか。神の家族である教会も破綻したではありませんか。父の妻を妻にしたり、仲間と争って裁判を起こしたり、偶像を拝んだり、姦淫をしたり、盗んだり、酒におぼれたり、そしったり、奪い取ったりして、「そんなことをしていては神の国を相続することができない」と言われたのはコリント教会ではありませんか。しかし、彼らは主に示されて、悔い改め、再出発しました(IIコリント2)。
私たちの家族、また神の家族が破綻したことを否定すべきではありません。「人間だから仕方がない」と言って、何でもない事のようにすべきではありません。主の御心を知っているのですから、それに沿うことができなかった(できていない)ことを、否定したり、隠したり、過小評価すべきではありません。聖書はそのようにしていません。しかし「神の家族も破綻しているね」で話は終わっていないのです。主は生きておられます。主にあって、家族は「赦しと再出発の場」だからです。ここに福音があります。イエス様は私たちを闇の中から光に召してくださいました(Iペテロ2:9)。「主がおられるので、教会には赦しと再出発があるよ」と伝えるのが宣教です。
お祈りします《アダムは再び妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけた。カインがアベルを殺したので、彼女は「神が、アベルの代わりに別の子孫を私に授けてくださいました」と言った。》
天の父なる神様。私たちを引き裂いても、また、癒やし、私たちを打っても、包んでくださるお方。私たちの主よ。今日も私たちはあなたに立ち返ります。
私たちの家族には問題が山積しています。また神の家族である教会も、あなたの御心に遥か及ばず、あなたのあわれみを祈るばかりです。しかし、主よ。人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。あなたは私たちを決して見捨てることはなさらず、あなたの御業によって、私たちを赦しと再出発に導いてくださるお方です。罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語っておられるイエス様。私たちはあなたの御心に従います。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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