item

2024.11.03 主日礼拝 「家族はもてなし、受け入れる」エゼキエル書47:21-23


昨日はすごい雨でしたが今日は天気が良くて良かったです(FU)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。11月は毎年、教団の宣教月間となっています。世界宣教局から宣教月間の祈祷カレンダーが送られてきています。どうぞみなさまもお祈りに加わってください。

宣教とはこういうものだというイメージをそれぞれにおもちだと思います。学校の教科書でザビエルとか、イエズス会とか学びますが、貿易や植民地と関連して「宣教」をイメージする方もおられるでしょう。あるいは実際に出会った宣教師たちの働きから「宣教」をイメージする方もおられるでしょう。最近では一般の企業でエバンジェリスト(伝道師)という肩書をもつ人たちがいて、(彼らの仕事は自社の製品やサービス、技術をユーザーに分かりやすく説明し、啓蒙することですが、)そのようなイメージをもっている方もおられるでしょう。そのように宣教師とか伝道師と呼ばれている人たちの様子を表面的に見てイメージする理解は、実は、宣教とは何かという根幹部分を見落としていることがよくあるのです。

宣教とは、神の宣教のことです。目に見えない神である主が世界の始めから行っておられる宣教です。またそれに招かれて、神の宣教に引き込まれて、参画する人々の働きです。それを理解するには、主のことばから学ばなければなりません。主のことばは聖書であり、主イエス様のことばです。イエス様は宣教に関していくつかのことを教えてくださっていますが、私たちが忘れがちな、このようなことも教えてくださいました。ヨハネ13:34-35《わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。》イエス様のことばによれば、互いに愛し合うことは宣教です。宣教とは、貿易のようなビジネスではありません。植民地のような支配ではありません。宣伝でも啓蒙でもありません。教会の構成員が増えたら良いよねというのはまったく宣教ではありません。教会は楽しいよと言うのは宣教ではありません。こんなめちゃくちゃな私たちが愛された、受け入れられた、赦されたと知らせるのが宣教です。イエス様の弟子である私たちが互いに愛し合うこと。愛の地境が広げられること。神の愛が世界の果てまで広がっていくことです。仲間は主が加えてくださいます(使徒2:47)。この宣教月間に神の宣教をもう一度心に留めましょう。主はあなたを招いておられます。

聖書をお開きください。エゼキエル書47:21-23(1502ページ)【聖書朗読】

しばらく間が空きましたが、「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで学んでいます。神である主がこの世界に最初に作られた人間関係は夫婦でした。夫婦はすべての人間関係の元となる関係です。性格の不一致があり、やり方も感じ方も違い、ぶつかることもしょっちゅうあるけれど、「わたしはあなたを愛している」という関係です。愛しているから他のことは何でも良いという関係です。(もちろん何でも良いと思えないから喧嘩するんですけど、夫婦って愛のある喧嘩をしますよね。)ここに主が作られた世界の人間関係のすべてが込められていると言っても過言ではないでしょう。

夫婦の次に作られた人間関係が家族です。今日は「家族はもてなし、受け入れる」というテーマでお話します。家族とやもめ、みなしご、寄留者(移民)、その他の貧しい人たちとの話です。このことは現代日本の家族観においては、大家族から核家族へとますます家族が小さくなる流れの中で、想像のつかないことでしょう。

家族はおなじ町囲みにいるやもめ、みなしご、寄留者、貧しい者たちをもてなすようにと主から言われていました。「家族は主を礼拝する」と題してお話したことがありますが、主が定めた祭りの時に主の御前に集まって家族が食事をする場面がありました。その定めはこのとおりです。《あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、【主】の前で、あなたの神、【主】が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。(申16:11)》家族は礼拝の食事をするときに、自分の息子、娘、彼らの配偶者や子どもたち、世話人たち、家族の中にいるやもめや孤児たちと一緒に食事をするのはもちろんのこと、同じ町にいる、何らかの理由でどの父の家にも属していないやもめ、孤児、移民たちも一緒に招いて礼拝しなさいと言われたのです。わざわざこのように主が掟を定めなさったのには、この掟がなければ、誰もやもめや孤児、寄留者たちをもてなそうとは考えないだろうという暗示があります。どの父の家にも属していない人は、贖い主(ゴエール)がいないのです。彼らを住まわせてくれる父がいない、養ってくれる父がいない、守ってくれる父がいない、救ってくれる父がいないということです。家族は彼らをもてなさなければならないと主は言われました。

ヨブ記に出てくるヨブは重い病気にかかり、友人たちから「罪を犯したから神の罰をうけたに違いない」と責められました。その時、ヨブはこのように弁明しています。《もし、私が弱い者たちの望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、私一人だけでパンを食べ、みなしごにそれを食べさせなかったのなら、──実は私の幼いときから、弱い者は私を父のようにして育ち、私は生まれたときから、やもめを導いた──あるいは、もし私が、着る物がなくて死にかかっている人や、身をおおう物を持たない貧しい人を見たとき、その人の腰が私にあいさつをすることも、私の子羊の毛で彼が暖められることもなかったなら、あるいは、私が門のところに助け手を見て(裁判官に「分かってるな。目をつぶれ。」と合図して)、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。》彼の言葉をみると、みなしごに悪いことをしたら罪になるというだけでなく、やもめを見て、食べさせなかったら罪になる(でも、私はそのようにしていない)と言っていることが分かります。主の掟によると、悪いことをすることだけが罪ではなく、主が命じられた良いことをしないことも罪なのです。

今日はエゼキエル書を朗読しました。ここに驚くべきことが書かれています。《寄留者には、その滞在している部族の中で、その相続地を与えなければならない──【神】である主のことば。》移民に土地を分け与えなさいと、主はおっしゃったのです。これはもてなす以上のことです。土地を与えるということは、そこに住み続けることができるということですし、また土地は収入の源ですから、自分たちの収入源を削って、彼らに分けなさいと言われたわけです。これがどれほどの意味か、みなさんよく考えてみてください。

聖書には主の掟(みこころ)がちゃんと記され、私たちに伝えられています。神の民である私たちクリスチャンが何をしようかと考える時、神の家族である教会が何をしようかと考える時、まず主のことばを聞いているでしょうか。「主よ。御心を教えてください。前に進むのに右足を出すべきでしょうか。左足を出すべきでしょうか。…」と祈ったりしてますよね。でも神様から突っ込まれてしまうでしょう。「いや、みこころは教えてあるでしょ。文章に書いて渡してあるでしょ。先にそれを読まんかい。話を全然聞いてないね。まったく君とはコミュニケーション取れないよ」と。だからそんなことはやめましょう。

私たちは、父の家からはぐれてしまった貧しい人たちをもてなし、様々な理由でたどり着いた“外の人たち”を受け入れなければなりません。すなわち居場所と収入源を私たちのうちから切り分けて与える、また彼らを私たちの内のひとりと同じように扱うということです。でも、どうしてそんなことを命じられているのでしょうか。この神様はひどく意地悪で私たちの持ち物を奪い取っていくばっかりの存在なのでしょうか。いいえ、全く逆です。主は気前の良いお方なのです。もとを辿れば、その土地と土地から得られた収穫は、エジプトから逃げ出してきたイスラエルに、主が恵みによって与えてくださったものです(レビ19:33-34)。主は気前が良いお方なので、働きに応じて報酬を与えるということをなさいません。働いた分がどんなに少なくても、主のもとに働きに来たことを本当に喜んで、あふれるほどに財産を分けてくださるのです。朝から働いた人も、夕方から働いた人も、別け隔てなく、豊かに与えてくださいます(マタイ20章)。ですから、私たちはまず主からあふれるほどにいただいているのです。あふれるほどにいただけていない貧しい人がいるのは、良い行いをしない罪を犯している人々のためです。神の恵みを奪い取って一人で食べている人たちがいるからです。だから、神の民は気前の良い人たちでなければならないとおっしゃっています。家族は気前の良い行いをするために共に動くのです。

イエス様の教会は世界大の共同体ですが、その細胞のような個教会があります。王寺教会もひとつの共同体です。そこに様々な理由で流れ着くクリスチャンたちがいますね。彼らを受け入れ、単に礼拝に出ててもいいですよと言うだけでなく、相続地を与えるということは、言うのは簡単ですが実際には簡単なことではありません。私の妻は昨年、日本に帰化したのですが、帰化のために書類審査や面談がありました。日本語ができるか確認されました。家族や本人の犯罪歴や税金の滞納がないか調べられました。それから宣誓書があり、こういう文章を読み上げて宣誓しました。「私は、日本国憲法及び法令を守り、定められた義務を履行し、善良な国民となることを誓います」そんなことが色々とあって審査を通って、法務大臣の判子をもらって帰化しました。新しい人を受け入れる前に、このぐらいのことを審査したいなと思うのが私たちの心理ではないでしょうか。でも、これは帰化の手続きであって、聖書にある主のことばではありません。主のことばはこうです。《寄留者を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたもエジプトの地で寄留の民だったからである。(出22:21)》《あなたがたとともにいる寄留者は、あなたがたにとって、自分たちの国で生まれた一人のようにしなければならない。あなたはその人を自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである。わたしはあなたがたの神、【主】である。(レビ19:34)》審査の話はありません。私はいまだかつて、自分の国で生まれた子どもが審査を経て国籍を取得したという話を聞いたことがありません。外の人と思っている人たちを、主があなたを受け入れたように受け入れなさい。これが主の掟です。

これはすなわち、私たちが今群れにいる人たちと共に困難を乗り越えてすり合わせてきた合意を、何度も何度も手放して、新しい人たちを仲間に入れてやり直していくということでもあるでしょう。憲法及び法令を守りますと宣誓させるのではなく、「あなたが来たのだから、またそれをゼロからやり直そう」と言うことです。それが寄留者と相続地を分けるということなのです。主があなたを受け入れて、群れに加えてくださった時、まず主がそのようにしてくださったからです。

お祈りします《あなたがたは彼らを、イスラエルの子らのうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたと一緒に、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。》

天の父なる神様。私たちが労したのではない地と、私たちが建てたのではない町々を与え、私たちが植えたのではない作物から食べさせてくださるお方。私たちの神である主よ。

あなたの恵みはなんと豊かで、あなたの愛はなんと大きいのでしょう。あなたの家を離れて、さまよっていた私たちを、あなたは自分の家の子のように贖い、家族に迎え入れ、養ってくださっています。あなたは私たちの贖い主となられました。

あなたが私たちを受け入れてくださったとき、審査はありませんでした。ありのままの姿でわたしのところに来なさいと、あなたは招かれたのです。「あなたを子として受け入れるために必要なことは、もうすでに、わたしのほうで準備し終えた」と言ってくださいました。主イエス様の十字架の死と墓からのよみがえりを確かに見せてくださって、信じなさいと手を伸ばしてくださいました。

「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われる主よ。私たちは口先だけでなく、行いと真実をもって愛し、この福音を表したいと思います。どうぞこの群れを、あなたの御心に導いてください。私たちはあなたから聞いたことに従い、主の掟を行います。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages