礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も、私たちを一人ひとり呼んでくださった主の御前に集められていることを感謝し、恵みをおぼえましょう。
毎年10月21日はインマヌエル綜合伝道団の創立記念日です。その前後に教団創立記念礼拝をもっています。50周年記念誌から、教団発足時の歴史を一部印刷してお配りいたしました。戦時中の宗教弾圧が終わり、戦後の新しい時代に入っていく時に、蔦田二雄師は日本基督教団や以前のホーリネス教団に戻るよりも、新しい運動を起こしていくようにと主から導きをいただきました。これが確かに主の導きであったという証に、各地からの牧師や教会の合流があります。時を同じくして、主の導きを切に祈っていた牧師たちがいたということ、またそれぞれに主に祈っている中で、インマヌエル綜合伝道団に合流していくように導かれたということです。ここに主の御業がありました。当時の牧師・教会の数を考えると、両手でも数えられそうなくらい少ないのです。今、私たちが現状を見て気落ちしているとしたら、一体何の冗談かと当時の人々に言われてしまうのではないかと思います。
私たちは「見かけの良い教会」を素晴らしい教会として思い描いていないでしょうか。ジョン・ウェスレーがThe almost Christian(ほぼクリスチャン)という説教で語っていましたが、イエス様の弟子でなくても、正直さ、正義、困窮者支援、淫らなことや誹謗中傷を避ける、アルコールに溺れない、争いを避け平和に暮らすように努める、他人の利益のために労苦を惜しまない、謙虚に振る舞う、真面目に神に祈る、神に仕えようとする意思をもつ等、そのようにすることができます。クリスチャンでなくても、この領域まで来ることができます。しかし、それらが出来ても、神の御前では何の役にも立ちません。クリスチャンは絶えず救い主である神を喜びます。クリスチャンは自分のすることが、主イエスの御名によってなされ、キリストによって神に受け入れられる霊的ないけにえとなることを望んで、隣人を愛するのです。そのようなクリスチャンが何人いるかが大切なことです。たとえ数えるほどしかいなくても、主の御業はからしだねのように大きくなります。教団創立記念の時に、大切なことを思い出しましょう。
さて、聖書をお開きください。マルコの福音書9:14-27(84ページ)【聖書朗読】
今日の箇所で、イエス様と出会った人は、息子を助けてほしいと願っていたひとりの父親でした。マタイやルカの並行記事(マタイ17:14-18、ルカ9:37-43)も参照しながら、その息子の様子をもう一度見てみたいと思います。彼の息子は一人息子で、幼い時からこのような状態でした。症状としては、「口が聞けない。耳が聞こえない。突然叫ぶ。引きつけを起こして、ところかまわず倒れる。泡を吹いて転げ回り、歯ぎしりし、からだをこわばらせる。火の中や水の中に入る。」ということが起こりました。マタイの方では、父親の話は病気が原因としていますが、マルコやルカでは悪霊が原因としています。結局、悪霊が原因であったと最後には分かりましたが、この父親は何が原因であるのか分からなかったのだと思います。「どうしてか分からないが、私のひとり息子には幼い頃からこのようなことが起こっている。なんとかして助け出してあげたい」と心から願っていたのでしょう。みなさまにも似たような経験はあるでしょうか。同じような境遇におかれている方を知っておられるでしょうか。
彼がイエス様の噂を聞き、癒やしの奇跡によって何とかなるかもしれないと思って、やってきた時、当のイエス様は3人の弟子たちと共に変貌山に登っておられました。彼は弟子たちに息子のことを頼みました。霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、弟子たちにはできませんでした。それで、何が起こったかというと、それを見ていた律法学者たちがイエス様の弟子たちに議論を吹っかけ、弟子たちも応戦して、さらに野次馬が集まり、周りを囲んでしまいました。どんな議論をしていたのでしょうか。あまり知りたくもありませんけれど。それは律法に違反しているとか、大預言者エリヤはこういう風にやったとか、やいのやいの責めていたのでしょう。
このとき父親はどんな気持ちだったでしょうか。彼はただ息子を助けてほしいだけなのです。でも、誰も助けることができないし、当人たちをダシにして議論を始め、言い争って、さらには多くの人たちが論争を面白がって見物しているのです。こんな悲しいことってあるでしょうか。どんなに絶望していたことでしょう。
現代でも困っている状況を他の人には話さないという方がおられます。いろんな理由があるでしょう。でも、そのひとつは、話しても誰も助けにならないからではないでしょうか。親身になって助けてくれて、実際に現状を良くすることができる人になら話してもいいけれど、ただ自分の見識を表そうとして寄ってくる人たちには何も知られたくないのです。これはこんなことが原因になっているはずだとか、私の言うようにこれを食べたら良いとか、あいつの言うことは聞いてはいけないとか、色々と“貴重なご意見”をくださいます。でも役に立ちません。最近はどこでこんな話がされているかというと、インターネットですね。ある人があれやこれやコメントし、それに対して別の人がそうじゃないと言い、また別の人が非難して、多くの人が見物しながら「いいね」をつけているという有り様です。そのような人たちは議論して相手を負かすためには多くの労力をかけているのに、困っている人を助けるためには全く労力や時間をさこうとせず、身銭を切ることもありません。ひとつも助けにならないのです。
イエス様はこの様子を見て言われました。《ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。》イエス様のこの言葉は不甲斐ない弟子たちを嘆いていると読んでおられる方が時々おられますが、イエス様の嘆きはもっと深いものでした。父親とその息子をそっちのけにして議論に応戦してしまった弟子たちだけではなく、聖書から主の御心を知って正しく人々を導かなければならないはずの律法学者たち、愛がなく自分を楽しませてくれるものに流されているだけの野次馬たち。この場のどうしようない状況を全部指して、不信仰な時代だと嘆いておられたのです。あれから2000年以上経ちましたが、世界は未だに同じことをしています。イエス様のこの言葉は、2千年前に実際に発言されたものであり、また今この瞬間においても、主イエス様の心にある思いなのではないでしょうか。《その子をわたしのところに連れて来なさい。》とおっしゃって、ようやく人々に囲まれていた男の子は、輪から抜け出して、イエス様の元にかくまわれました。
この不信仰な時代にイエス様は来てくださいました。めでたしめでたし_となってほしいところですが。父親の様子はそうでもありませんね。イエス様に息子の状態を説明した後、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と言いました。もうすでに失意の底にあるような感じで、弟子たちが駄目だったんだから、この人に頼んでも駄目でしょうと思っている感じがにじみ出ています。
私たちの周りでもこのようなことは起こっているのではないでしょうか。イエス様を信じようと思えない方々には、イエス様自身に失望したのではなく、この不信仰な世界の中で経験してきた数々の絶望が積み重なっていて、イエス・キリストも今までの多くの失望と変わらないだろうと思って、信頼してみようと思う気持ちになれないのではないでしょうか。しかし聖書は、主に信頼しなさいと言っています。信仰深い心持ちが大事とかではなく、信頼できればイワシの頭を信じても良いというのではなく、「主を」信頼しなさいと。主は他のどんなものとも違うお方ですと書いてあります。
イエス様は言われました。《「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」》主は太古の昔から「わたしを信頼しなさい」と何度も何度も語りかけてこられました。出7:9《あなたは、あなたの神、【主】だけが神であることをよく知らなければならない。主は信頼すべき神であり、ご自分を愛し、ご自分の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。》エレミヤ39:18《わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ》 信じる者、すなわち主を信頼する人には、主イエス様はどんなことでもできるし、してくださるのです。何の助けにもならなくて、自分たちをダシにして議論している人々や面白半分に見物している人たちとイエス様は全然違います。神に不可能なことはありません。
しかし、あの父親にとって、この言葉は大きな大きなチャレンジでした。これまで誰も助けられなかったのです。果たしてこのイエスを信じたら何か違うことが起こるのでしょうか。あの時、父親は叫んで言いましたが、彼はあの瞬間に何かを思い切って振り切ったということです。「イエス・キリストも他のものと一緒だ、救いになるわけがない。また期待して失敗したいのか。ナザレ派の広告塔になって利用されるだけだぞ。信じるといえば、律法学者も野次馬もまた集まってくるぞ。…」いろんな声が頭の中を巡っていたのではないでしょうか。イエス様を信頼するというのは、能力的に言えば誰にでもできるのですが、簡単なことではありませんね。
クリスチャンたちはみな、人生のどこかで主イエス様を信頼する信仰の決心をしました。私のようにたとえクリスチャンホームで生まれ育っていても、イエス様を人生の主として受け入れ、信頼して人生を委ねた日は、何かの延長線上になんとなくあったのではありません。なぜなら、イエス様ははっきりと私たちに問われるからです。「できるなら、と言うのですか」と。誰でもいいから助けてくれという曖昧なことではなく、わたしを信頼しますかと問われるからです。今日、イエス様はあなたに何と語りかけておられますか。よそ見をしないで、イエス様に心を向け、あなたとイエス様との二人の語り合いの中で、主が何と語っておられるか聞いてください。
イエス様が「できるなら、と言うのですか」と言われた時、父親は気が付きました。息子を助けてほしい、息子をお助けくださいと言っていたけれど、私に助けが必要なのだと。《「信じます。不信仰な私をお助けください。」》それは信じますと叫ぶ精一杯の意思と、「そのために、主よあなたの助けが私に必要です。信じられるように私を助けてください」という求めでした。神である主を信じられるように主ご自身が助けてくださることを、先行的恵みと言うのですが、これはすべての人に与えられている恵みです。ですから、あなたも同じように祈ることができます。「イエス様を信頼します。不信仰な私を助けて信じられるようにしてください」と祈ることができます。
ここでひとつポイントなのは、彼は「私がイエス様を信頼することさえできれば、息子は助かる」とすでに信じていることです。「私たちをお助けください(22節)」から「私をお助けください(24節)」に変わっています。最後の問題は私だと分かったのです。ここまで来れば、あとは乗り越えるだけです。彼は思い切って、神の助けを求めながら「信じます」と叫びました。今日、あなたはイエス様の言葉にどのように応答されますか。
お祈りします《「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」》
天の父なる神様。あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦すお方。私たちの主よ。
あなたは主の恵みの年を告げるために来てくださいました。誰も助けることが出来ないほどに困りきっている人々に良い知らせを告げ、私たちを救ってくださいました。今もなお、復活の主イエス様は私たちと共にいて、私たちを救い、守り、養い、自由を与えてくださっています。主よ。いまあなたに目を向け、あなたの言葉を聞こうとする私たちに語りかけてください。イエス様、あなたを信じます。信頼して従います。
私たちがあなたを信じて、神の家族に帰るためには、罪の解決が必要でした。しかし、罪の償いはすでに十字架の上で支払われています。イエス様の十字架と復活が私たちのためであったことを信じ、受け取ります。あなたの恵みによって、私たちを赦し、もう一度、あなたの子としてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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