2024.02.18 主日礼拝「主とともに歩む日々」詩篇39:12-13

季節外れの暖かさです。皆様体調を崩さないようお気を付けください。

(ひでまる)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。ようこそ礼拝式におこしくださいました。今日もイエス様が恵みの座を開いてくださって、私たちを招いてくださったことを共に感謝し、味わいたいと思います。

牧師家族は1週間の休暇をいただきまして、妻の実家に帰省し旧正月を過ごしてきました。不在の間、お祈りとご協力をいただきましたこと感謝いたします。数年前には新型コロナ予防の為、ビザ免除が停止し、自由に帰れなくなりました。今では元に戻って自由に行き来できるようになり、恵みを実感しています。

海外に出かける話では、よく「ビザ」という言葉を聞きます。ビザとは、外国人が国に入るときの許可証のことです。国の許可がないと外国人はその国に入ることができません。その国の国民ではないからです。国民は生まれながらに自分の国にいる権利をもっていますが、外国人は許可がおりている期間だけその国に滞在することができるのです。もしその国から許可を取り消すので、出ていきなさいと言われたら滞在し続けることはできません。

聖書は、イエス様の弟子の国籍は天にあると言っています(ピリピ3:20)。すなわち、私たちクリスチャンは霊的に言えば、イエス様の国の国民であり、この日本には外国人(異邦人、寄留者)としてビザをもって滞在していると言えます。異なる生活様式をもっていますので、文化的な衝突も時に起こり得ることです。しかし、神の国の生き方から結ばれる愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に反対する法律はどの国にもありません(ガラテヤ5:22-23)。人々はいつか、畑の中に隠された宝のように、天の御国の価値を見つけるでしょう。

礼拝式のひとときは、私たちが自分の国に帰ってきて、息ができる時です。主の臨在に触れ、共に神の恵みを楽しみましょう。

聖書をお開きください。詩篇39:12-13(973ページ)【聖書朗読】

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」今日のテーマは「主と共に寄留する」です。

寄留とは、日常で使われない言葉だと思いますが、聖書においてはよく出てくる単語です。一時的に他の家や他の土地に身を寄せて住むことを寄留と言います。古代イスラエル人の歴史を振り返ってみると、実はほとんどの時代で彼らは寄留者でした。イスラエル人はアブラハムから始まりますが、アブラハムは東の方からやってきた寄留者でした。やがて主が土地をくださるとの約束を握りつつも、自分の土地をもたず、家を建てられないで、天幕(テント)で生活をしていました。エジプトで彼らは寄留者でした。最初は居住許可をもらっていたのに、いつの間にか奴隷になっていました。出エジプトした荒野で彼らは寄留者でした。約束の地に入る時を待ち望んで、自分の土地ではない荒野を旅しました。バビロンで彼らは寄留者でした。少数派となり、人々から嘲られて、自分の故郷の歌を余興に歌ってみろと言われたりしていました(詩篇137:3)。このように神の民の歴史と寄留は切り離せない事柄です。また彼らの歴史は、私たち人と神である主ととの目に見えない関係を示している模型ですので、私たちの人生にとっても心に留めておくべき重要な事柄です。

さて、主は律法によって、神の国の生き方を教えてくださいました。その中に一年のカレンダーがあります。現代のクリスチャンは、聖日に集まって、また散らばることを一週間単位で繰り返していますので、それだけというイメージが強いでしょう。律法のカレンダーはレビ記23章に記されています。そこには確かに毎週の安息日が最初に書いてあります。でも、それだけではありません。それ以外に複数の祭りが決められて、それを守るように言われています。特に3つの祭りは大きなもので、全国から旅をして一つの礼拝所に集まり、祭りを行うように決められていました。その3つは過越祭、五旬節、仮庵祭です。特に過越祭と五旬節は1ヶ月ほどしか離れていませんので、人々は仕事を休んで、旅をして、礼拝場所に1ヶ月滞在して、帰りました。その礼拝所は、契約の箱が移動するにつれて変わり、シロ、ベテル、ギルガル、ギブオンなどの場所でしたが、エルサレムに神殿ができてからはエルサレム神殿が3大例祭の礼拝所となりました。現代のクリスチャンは自宅近くの会堂に週に一度集まるだけのことが多く、巡礼の旅に相当する体験がなかなかありません。年に一度の泊りがけの聖会がこれに近い経験となるかもしれません。

詩篇には巡礼の旅を背景とした詩が多くあります。例えば、詩篇84篇にはこう書かれています。《万軍の【主】よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。私のたましいは【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。》主の住まい、主の大庭とはエルサレム神殿を指しています。毎年巡礼で訪れる神殿、またそこに滞在していた期間の体験を思い出しているのです。《なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。》シオン(エルサレム)への大路とは巡礼に向かう道中のことです。神殿にいつも住んでいる人たちは幸せだな。巡礼に向かう道中をいつも心に描いている人は幸せだなと歌っています。《まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。》巡礼で神殿にいる一日は、帰ってきて過ごしている一年の残りの期間よりも素晴らしいという告白です。他にも詩篇15、42、43、48、61、122篇などを後で読んでみてください。

主が定められた神の国の生き方には、巡礼の旅が組み込まれていました。カナンに入って相続地を手に入れ、家を建てて定住してからも、彼らが世においては寄留者であることを忘れないようにするためでした。私たちにはなかなか巡礼の機会はありません。ですから、年に一度の聖会に出かけることをもう一度考えてみていただきたいと思います。スケジュールの都合をつける必要がありますし、費用も労力もかかります。家族はどうするか、そういうこともありますね。しかし、それらのことは当時のイスラエル人も同じ課題がありました。それでも、巡礼は安息日と同じレビ記23章で決められた祭りでしたので、安息日を守ることと同等の意味合いで巡礼の旅に出かけていたのです。聖日礼拝で会堂に集まるのと同等に、聖会に出かけることを考えても、かけ離れた考えではないでしょう。(そうはいっても様々な限界はありますので、聖会に出られなくても)少なくとも、心の中にシオンへの大路をもつことを大切にしていただきたいと思います。すなわち、主の臨在への飢え渇きをもつということです。

神の民の一年は、神殿に滞在する短い期間と、地元にもどる残りの長い期間でした。敬虔な人々は、日常生活を巡礼に向かう旅の途中と考えました。日常生活は寄留であり、神の住まいこそ、恋い慕って絶え入るばかりの場所なのです。主の住まいこそ、私たちがようやく息のできる場所。敵から完全に守られている平安の場所。神の国の生き方でも摩擦が起こらない唯一の場所です。

さて、今日の聖書箇所には不思議なことが書かれています。《【主】よ私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙っていないでください。》この部分は、寄留者の涙として分かります。前の部分を読んでみると、涙の理由が書かれています。他人の悪に苦しめられ、しかし復讐は神のみ手にゆだねて黙っている姿があります。私たちも日常生活のなかで、人から苦しめられながら、黙っている時があります。主が必ず守ってくださると信じ、人に向かっては黙って待ちながら、主に助けを求めて叫ぶ時があります。寄留者とは外国人です。自分の価値観と違う法律や裁判官のいる国に滞在しています。当然、不当と思える事態に直面することがあるのです。そこには苦しみと涙があります。では、その続きの箇所を見てください。《私はあなたとともにいる旅人 すべての先祖のように寄留の者なのです。》ここに「あなたとともにいる旅人」と書いてあります。短い部分ですが、大切なことが書いてあります。旅路に主が共におられるということです。寄留の地に主が共におられるということです。

でも、ちょっと、待ってください。巡礼の旅を思い出すなら、主の住まいは神殿ですよね。主が住んでおられるところに向かって、旅をするわけです。主がおられるところを恋い慕って、寄留の場所から、主の臨在に向かっていくのです。その旅路に主がともにおられるとは、なんと不思議なことでしょうか。しかしこれは真実です。主は天の故郷に向かって旅している私たちと、いまここに共に寄留しておられるのです。

もし共に寄留する主がおられなければ、聖書は創世記3章で終わりです。「アダムとエバがエデンの園を追放されました。主と人は完全に離れ離れになりました。終わり。」ですね。ところが主の住まいを追われて、いばらとあざみが生える土地で苦労する人間と、主は共におられました。また出エジプトを思い出してください。もと共に寄留する主がおられなければ、最初のカナン入国失敗で話は終わりです。しかし、エリコに入らないと言った民とともにモーセは荒野に戻りました。神のしもべモーセが戻ったということは、つまり主ヤハウェが民とともに荒野に戻られたということです。バビロン捕囚ではどうでしょうか。もし共に寄留する主がおられなければ、バビロンに国を滅ぼされて終わりのはずです。ところが、主はダニエルやエステルと共に寄留しておられました。

「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」そのひとつは主と共に寄留することです。私たちの国籍は天にあります。主イエス様を信じ、従いますと約束し、洗礼を受けたときから、世においては寄留者となりました。聖書で伝えられている主の御心に従って生きる私たちは、世間の文化や常識と事あるごとに摩擦を起こし、時には衝突します。また、聖書の価値観によって判断されず、主とは違う裁判官によってジャッジされます。イエス様の前では責められることはしていないのに、人から責められることがあります。私たちの人生には涙があるのです。その時、私たちの心にあるのは、神の臨在への飢え渇きです。このような詩篇の歌があります。《鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは 神を 生ける神を求めて 渇いています。いつになれば 私は(神殿に)行って 神の御前に出られるのでしょうか。昼も夜も 私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と 人が絶えず私に言う間。私は自分のうちで思い起こし 私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに 喜びと感謝の声をあげて あの群れと一緒に 神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。(詩篇42:1-4)》

しかし、まったく不思議なことに、それは事実ですが、主は神殿に向かう旅路で私たちと共に旅をしておられるのです。《【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。…たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。(詩篇23:1、4)》

喜びと感謝の声をあげて、主にある兄弟姉妹と共に、神の家へ旅を続けましょう。旅路には困難があります。涙があります。飢え渇きがあります。死の陰の谷があります。時には主に背いてしまった恥があります。しかし、なんと不思議なことでしょう。インマヌエルの主が、愛のゆえに、私たちと共におられるのです。

お祈りします《私はあなたとともにいる旅人 すべての先祖のように寄留の者なのです。》

天の父なる神様。国々を統べ治め、その聖なる王座に着いておられる主よ。あなたの御名をあがめ、感謝と喜びの讃美をささげます。

天と地の全てはあなたによって造られました。私たちはあなたによって形造られ、あなたの園に置かれたものです。ところが人はあなたを拒絶し、御心を離れて、自分の手で作った町に住み始めました。傲慢と暴力、偽り、争い、ねたみ、差別、仲間外れ、混乱に満ちた世界になりました。表面は張りぼてでキレイにしてありますが、内側は汚れています。いましばらく、あなたは地上の王に支配を許可し、忍耐して人の悔い改めを待っておられます。

私たちはイエス様の十字架と復活によって贖われ、あなたの子として神の国に迎え入れられました。すると、世が私たちの国ではないことを知ったのです。私たちは寄留の者です。このような状況で、あなたの臨在を求めずにいられるでしょうか。

しかし、主よ。あなたはこの旅路に伴ってくださいました。私たちと共に、この国に寄留してくださっています。王の王であるあなたが、へりくだって寄留者になられるとは、あなたの愛はどこまで深いのでしょうか。

聖なる山を降りて、新しい一週間の旅を始める私たちをかえりみてください。み翼の陰にかくまってください。あなたの背に乗せて運んでください。今週もシオンへの大路を心に覚えて、あなたとともに歩みます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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