2024.02.04 主日礼拝「主に捧げる」詩篇96:7-9

 

献金は讃美する心にともなって行われるものと

いうことを改めて学びました。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。2月に入りました。今月は三年に一度の教団総会が開かれます。新しい教団の代表が選ばれ、局長なども変わります。そのような中で教団の働きは慌ただしくなっていますが、個教会は秋以降の行事、クリスマス、教会総会を終えて一息ついているところです。

イエス様の働きを記念する教会カレンダーも降誕節と受難節(四旬節)の合間にあります。イエス様が公に姿を表されてから十字架にかかられるまでの数年間、イエス様は神の国を宣べ伝え、神の国の業を行われました。病を癒し、嵐を鎮め、人々にパンを与え、死者をよみがえらせ、悪霊を追い出されました。神の国とその義が、イエス様と共に地に来たことをお示しになり、それから、神の国に入る道を開くために、のろいの十字架に向かって進まれ、贖いを成就してくださいました。

私たちは日々、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈っているのですから。イエス様から神の国を学び、神の国(永遠のいのち)にふさわしい生き方を求めていきましょう。

今日はしばらくぶりに、普段のテーマに戻ります。「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」というテーマで昨年秋からお話してきました。聖書をお開きください。詩篇96:7-9(1035ページ)【聖書朗読】

今日の主題は「主に捧げる」です。新年のメッセージでは十分の一のささげものの話をしましたが、今日のささげものは十分の九からのささげものの話ですので、混乱しないようにしてください。ここの理解が曖昧だと、聖書を読んでいても混乱してしまいます。収穫の十分の一に手を付けないということは、(エデンの園を思い出していただくとイメージしやすいと思いますが)主が私たちに与えてくださっていることを表すものです。それは主のものです(レビ27:30、民18:24)。一方で、十分の九は私たちの自由として与えられている「私の所有」と言って良いものです。アダムの子アベルは「自分の羊(創4:4)」をささげものとして主に持って行きました。

神である主と私たちの関係は、「主が与える、私たちも主に捧げる」という関係です。(我が家の子どもたちはまだ幼稚園児ですので、幼すぎますけれども)親は子どもたちが成長していく過程で社会的な人間関係の築き方を教えます。このような時には言葉や気持ちと一緒に贈り物をするのだよと教えることが必ずあるでしょう。

エジプトを脱出し、カナンに入る途上にいた神の民は、シナイ山で律法を与えられました。これは約束の地で、神の国の社会生活を学ぶための説明書のようなものでした。主が与えてくださる地に入るとは、土地があれば良いというものではなかったのです。その場所でどのように社会生活を営んでいくかも非常に大切なことでした。モーセが十のことばの石板を受け取るためにシナイ山に登った時、主はモーセに告げられました。《わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。(出25:2)》ここに「進んで献げる心」という言葉が出てきます。私たちの所有物から主体的にささげるものであるということです。「主が与える、私たちも主に捧げる」という関係が律法で教えられています。

神様にささげものをするというと、日本では、仏教の影響でしょうか、食べ物を食器に入れて食べられる状態でお供えするイメージがあります。ところが聖書はそうではありません。全焼の生贄はその名の通り、灰になるまで燃やし尽くしてしまいます。主は食べるのではなく、その煙の香りを喜ばれるのです。すなわち、ささげものは神の必要を満たすためのものではありません。主は生きるために食べ物を必要とはされませんし、お金がないと生活ができないということもありません。ささげものは神である主の必要を満たすためではなく、私たちと主との関係を築き、良好に保つためのものなのです。その焦点は「関係」にあります。

私たちは一般社会で贈り物をする場面があります。どんな時に贈り物をしているでしょうか。挨拶をする時、お祝いをする時、お礼をする時、励ます時、助ける時、また謝罪する時にも贈り物をしますね。気持ちと言葉とそれに伴った品を渡します。私たちと主との関係においても、心と言葉とそれに伴ったささげものがあるのです。今日の箇所は詩篇の歌ですけれども、礼拝に伴うささげものについて歌われています。《栄光と力を【主】に帰せよ。御名の栄光を【主】に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。聖なる装いをして【主】にひれ伏せ。》力、ささげ物、装いは目に見える形のあるものですね。礼拝の心に伴って、心を表している品々です。

それでは、神の国ではどんな時に主に捧げるのでしょうか。世の贈り物の場面と主へのささげものの場面には違いがあります。今日の箇所で見られるのは、礼拝に伴うささげものです。主を賛美するときにささげる、芳ばしい香りの全焼のいけにえがありました。他には、主に叫び、祈るときにささげられたいけにえがあります(Iサム7:9)。主の御顔を求めるときに「私の叫びに目を留めてください」という心に伴うささげものです。また誓願のささげものがありました(レビ7:16、22:18)。主に約束するとき、それに伴ったささげものがあります。私たちも、イエス様を主として信じ、従いますと約束したとき、それに伴って、自分の人生を生きた供え物としてささげました(ローマ12:1)。それから、感謝に伴うささげものがあります(レビ7:12、22:29)。これは一般の世の中にもありますね。続いて、罪のきよめと代償のささげものがありました。気が付かずに主に罪を犯してしまったとき、または主の信頼を裏切って罪を犯して責めをおぼえる場合に、罪の告白に伴ってささげられました。旧約時代には定められた動物のいけにえが繰り返しささげられて、その度に罪が思い出されていました。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができなかったからです。しかし私たちは、イエス様が来てくださって、ご自分を傷のないささげものとしてささげてくださったことを知っています。そしてそれを信じて赦されました。もう罪のきよめのささげものはいりません(ヘブル10)。もうひとつ、あまり聞き慣れないですが、任職のささげものがありました。祭司職に任命され、聖職に就くときに伴ってささげられるものです(レビ6:20)。

このように私たちと主との間には、「主が与える、私たちも主にささげる」という相互の関係があります。聖書でそのように教えられているのです。これは関係に焦点があるのですから、私たちが自分でこれが良いだろうと思うものをささげるのではなく、主が望まれるささげものをささげることが大切です。人と人との関係でも同じことです。相手が本当に嬉しいものと、相手が喜ぶだろうと勝手に思い込んでいるものが違うことがあります。主は民に、カナン人の方法から学んではならないとおっしゃいました。特に子どもをいけにえとしてささげてはならないとおっしゃいました。カナン人はモレクという神に生きた子どもをささげる習慣があったのです。主は《自分の子どもを一人でも、火の中を通らせてモレクに渡してはならない。あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。(レビ18:21)》とおっしゃっています。「私が考える最も貴重なささげものは、…そうだ、子どもの命ほど貴重なものはないだろう、私はこれをささげる!」それは主が喜ばれるささげものではありません。むしろ忌み嫌われるものです。世の常識から倣ってきたり、自分の考えだけで勝手にやらないで、聖書をよく調べなければなりません。ここに主が喜ばれることは何であるか書いてあるのですから。

また、私たちの心に伴うささげものは、関係のための象徴であって、量が多ければ神様の目の色が変わるというものではありません。心から進んで、惜しまないでささげることが求められていますが、多額になれば良いという意味ではありません。律法をよく調べていただければ、ささげものはわずかな象徴的意味合いの量であることがわかります。また貧しい人のためのささげものが定められていて(レビ5:7)、どんな境遇の人でもささげものができるように配慮されていました。イエス様の両親のヨセフとマリヤも貧しい人向けの方法でいけにえを献げています(ルカ2:24)。そういうわけですから、もしみなさんが、多額の献金をほめ称える場面にあったり、献金の額が多いほうが良いという話を聞いたら気をつけてください。

さて、心に伴うささげものですが、神の民イスラエルはある問題を起こしました。それは私たちにも他人事ではありません。彼らがカナンに入り、何年も経つうちに、心に伴ってささげられていたささげものから、心が抜け落ちてしまったのです。形だけが残り、そこに心がありませんでした。礼拝に主を賛美する心がありませんでした。祈りに主を求める心がありませんでした。誓願に主との約束を守る心が、感謝に感謝の心が、そして罪のきよめと代償のささげものに罪を告白し、悔い改める心がありませんでした。主はこのころに怒り、預言者を遣わして言われました。《【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きのために、私の長子を、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。》虚礼を廃止して、主との関係を築き直すために心を改めるように求められました。これをリバイバルといいます。

さあ、リバイバルが起こりました。人々が主に立ち返って、信仰復興が起こりました。今後は虚礼は一切なし!といって明後日の方向に進み出してしまうのが人の歴史であります。ちょっと待ってください。「主が与える、私たちも主にささげる」という最初に教えられた神の国の生き方はどうなったのでしょうか。ヤコブの手紙が指摘しているのはこのことです。《あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。… 信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。(ヤコブ2:20,22)》と書いてあります。神の国の生き方では、信仰に伴ってささげるのです。それが主に教えられた、主との関係の築き方なのです。

私たちの礼拝式では、献金の時に讃美歌を歌います。どうしてそうするのでしょうか。音楽なしに献金袋を回したら寂しいからでしょうか。待っている間に手持ち無沙汰になるから、歌っといたら良いということでしょうか。_ そうではないのです。献金のために讃美歌を歌っているのではありません。逆です。献金は私たちの讃美だからです。主を讃美する心に伴ってささげているささげものだからです。《御名の栄光を【主】に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ》と歌われている通りです。

しかし、私たちは失敗と再確認を何度も繰り返していくものでしょう。心に伴ってささげていたものが、虚礼になり、悔い改め、信仰に伴ってささげることを再確認し、ところがまた…という繰り返しです。これは人間の性質なのでしょう。そうであるなら、私たちはそれを自覚して、形を固定化させないで、時々、新しい形に変えていくのが良いかもしれません。教会は右に行ったり左に行ったり、いつも慣れた頃にまた新しくなっちゃうと嘆かれる方がおられるかもしれませんが、教会は意図的にそうする必要があると思います。

お祈りします《もろもろの民の諸族よ【主】に帰せよ。栄光と力を【主】に帰せよ。御名の栄光を【主】に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。聖なる装いをして【主】にひれ伏せ。全地よ主の御前におののけ。》

天の父なる神様。天と地とその中に住むすべてのものを造られた大いなる方、大いに賛美される方、すべての神々にまさって恐れられる方、私たちの主よ。威厳と威光は御前にあり、力と輝きはあなたの聖所にあります。

エデンの園から追い出され、神の国の生き方を失っていた私たちに、永遠のいのちにふさわしい生き方を教えてくださり、ありがとうございます。「もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と御前に出た私たちを、死んでいたのに生き返ったと大喜びして、あなたは迎え入れてくださいました。あなたの子どもとしてくださったのです。私たちは何者なのでしょう。あなたが心を留めてくださるとは。こうして、私たちとあなたとの間に関係が与えられました。

聖書にあなたと私たちの関係の築き方が書いてあることを知りました。「主が与える、私たちも主にささげる」ということ。子どもたちが親から学ぶように、私たちもあなたかた学びます。ひとつひとつ教えてください。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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