2024.01.07 新年礼拝「信仰の戦い」Ⅰテモテへの手紙6:2-19


久しぶりの方にも会うことができました。

今年もよろしくお願いします。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

あけましておめでとうございます。2024年最初の聖日です。新年になると、聖書を読みたくなるものです。今年も聖書に親しみ、主に従っていきましょう。

聖書のはじめの言葉は《はじめに神が天と地を創造された。(創1:1)》です。聖書はまず神である主から始まっています。まず主がおられるので、世界が造られ、私たちが存在し、聖書がここにあるのです。一昨年から昨年にかけて、聖書全体を見渡して、歴史を見ました。そこには主がこの世界で何をしておられるのかが書いてありました。目に見えないお方が、世を愛し、またそこに住む一人ひとりの人間を愛して、働いておられる様子が明らかにされていました。聖書を読むと、私たちは、神様がご自分で成し遂げておられる大きな計画を知ることができます。

それから、聖書に登場するのが神の民と呼ばれる旧約時代のイスラエル民族と新約時代の教会です。聖書は主から、民(共同体)に向けて書かれたメッセージです。これは主と民とのやり取りです。神の民の存在意義と、使命が明らかにされています。聖書を読むと、主が神の民に何を求めておられるのかを知ることができます。民に対する神の御心が分かるのです。神の民に対する主の御心が分かると、ようやく、民の一員である私たち一人ひとりへの主の御心(主の計画)が見えてくるようになります。

このように書かれている聖書は、実は現代人の感覚からすると、とっつきにくい書物です。私たちの文化は個人主義だからです。私たちの関心は、「今、私が目の前の選択肢をどちらに選ぶかを個人的に教えてほしい」だからです。主は確かにその質問に答えてくださいます。しかし聖書は神の計画、民の使命、そして個々人の従順と、上から流れていますので、回りくどいように感じることもあるでしょう。もし私たちが自分のことだけに関心をもって聖書を読もうとするなら、聖書の多くの部分は意味のない文字になってしまうのではないでしょうか。もし私たちが神である主に関心をもち、また主が愛しておられる教会に関心をもつなら、聖書の御言葉は一文字も地に落ちることはありません。

主の計画と教会の使命を知るなら、私たち一人ひとりが今、どの選択肢を選んだら良いか、その都度分かるようになります。なぜなら、私たちの最善の選択肢は主に従うことだからです。主がどこに向かっておられるか分かれば、付いていくことができます。

一年の初めに私たちに与えられている御言葉を信仰もって受け取りましょう。聖書をお開きください。Iテモテへの手紙6:2b-19(423ページ)【聖書朗読】

今年の年間標語聖句はIテモテへの手紙6:12「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」です。この御言葉は、解説が必要ですね。《永遠のいのちを獲得しなさい》と書いてあります。19節にも《まことのいのちを得るように命じなさい》とあります。はてさて、永遠のいのちは人の努力で獲得するものだったでしょうか。いいえ。永遠のいのちは神の約束と恵みによって、主から与えられるものであって、人の努力で獲得するものではありません。ローマ人への手紙には《神の賜物(プレゼント)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです》と書いてあります。ローマ人への手紙を書いたのもパウロ、テモテへの手紙を書いたのも同じパウロです。ですから矛盾していたらおかしいですね。第一に、永遠のいのちはイエス様の十字架の恵みによって、主を信じる者に、ただで与えられているものです。

それでは、パウロは何を言いたいのでしょうか。新約聖書は精神論的に聞こえて、具体的に何を説明しようとしているのか分かりにくいことがありますね。こんな時には、旧約聖書の神の民の歴史を思い出してみると良いのです。パウロは聖書(旧約聖書)を解き明かして、メッセージを語っていて、土台は神の民イスラエルの経験に基づいているからです。

「永遠のいのちを持つ」「永遠のいのちを受ける」「永遠のいのちに入る」「永遠のいのちを受け継ぐ」「永遠のいのちに至る」「神の国に入る」「神の国を相続する」「神の国が与えられる」これらはすべて同じことを意味する、別の表現です。イスラエルの歴史の中で、これに相当する出来事(ひな型)は約束の地カナンでの生活です。(他にもエデンの園やエルサレム帰還を参照することができるでしょう。)約束の地カナンでの生活は、神である主ヤハウェの約束と恵みによって与えられたものでした(ヨシュア24:13)。

その、神様がプレゼントとして用意してくださり、ただで与えてくださる新しい生活に入るために、神の民は戦いを通らなければなりませんでした。エジプトを脱出した民は、荒野を通って、カナンの入り口までやってきました(民13)。モーセは各部族から一人ずつ族長を出させ、12人をカナンの偵察に送りました。彼らが帰ってきて、10人が「そこに住む者は強そうで、私たちはバッタのようだ」と言いました。ヨシュアとカレブの2人は「主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない」と言いました。民はどうしたでしょうか。10人の意見に耳をかして、ヨシュアとカレブを石で打ち殺そうと言い出したのです(民14:10)。

この時の状況を想像してみましょう。10人の族長たちは民のことを思いやるリーダーたちという感じはしませんか?荒野での生活は大変ですけれども、何とかやってきて、数ヶ月慣れてきたところです。みんなで助け合って、遊牧民として生きる道もあるじゃないですか。それに、エジプトのファラオにもう一回頭を下げれば、もとの土地に帰ることもできるかもしれないし。無理して、エリコに突入すれば、戦死者がでます。下手すれば民族全体が壊滅するかもしれないですよね。だから民のことをよく考えれば、行くべきじゃないでしょう。_ ということで、結局、多数決で結論を決めたのです。約束の地カナンでの生活に入るために、神の民が通った戦いとは、まずこの決断のことです。後のカナン人との戦い以前に、それを始める決断に信仰の戦いがありました。最初の世代は信仰の戦いに敗れ、約束の地を受けることができませんでした。この時、モーセは民のために祈りました。《この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。(民14:19)》そして、民とともに荒野に戻り、40年間を彼らと共に過ごしました。

「信仰の戦い」という文字を見ると、私たちが想像するのは、「他宗教に改宗しないで、キリスト教徒をやめないこと」と思うでしょう。でも、そのような話ではありません。今日の箇所の3節に《私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意》するか、しないかという話が書いてあります。イエス様に従うかどうか。これが教会にある信仰の戦いです。私たちは物事を多数決で決めてはいけません。私たちの見聞きしたことで物事を測って、なるべく多くの人が納得する方法を選ぶようにしていてはいけません。これはこの世の生き方であり、神の国の生き方ではありません。主イエス様がどのように決断しておられるか、御言葉から学び、教えに従わなければなりません。12人の族長はなぜ偵察に遣わされたのでしょうか。エリコに行くか行かないかを判断するためだったのでしょうか。いいえ。彼らが主の約束をみて、それが成就したときに与えられることの素晴らしさを認め、民を励まして、モーセとともに次の戦いを勇敢に戦っていくためです。ヨシュアとカレブはこう言いました。《私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。…【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。》

この決断は本当に戦いだと思いませんか。敵と戦う以上の戦いだと思います。敵と戦うのなら、民はみんな味方として一緒に戦うでしょう。しかし、この信仰の戦いには、同じ民からの言動が突き刺さってきます。「私たちのことを考えてくれていない」「あなたの決断で私たちはしんどくなった」「この先、良いことはない」「ついて来なければ良かった」「前の方がもっと良かった」あの時、イスラエルは大声をあげて叫び、一晩泣き明かしたと書いてあります(民14:1)。それを目の前に見なければいけないことはどんなに辛いことでしょうか。多数決で決めないで、主に従うことは信仰の戦いです。

神のしもべと神の民には契約関係がありました。モーセは主のことばをことごとく民に伝えるという約束、民は「主の言われたことはすべて行います。聞き従います(出24:7)」という約束をしました。それは互いの約束であって、強制的な支配ではありません。互いの約束による結婚のような関係です。もし主のしもべが御言葉をまっすぐ伝えなかったり、民の首に鎖を繋いで、「従え!」と引きずり回せば、いわゆる異端やカルト教会です。しかし、聖書から分かるように、主のしもべと呼ばれる人たちは、民が間違った決断をすると、とりなしの祈りをしながら、民の決断を受け入れて、身を引いてきました。例えばダビデ王はアブサロムに謀反を起こされた時、戦わずにエルサレムを去りました。ダビデの家来は「あなたがそんな行動をしたら、あなたの側に付く人たちが恥をかく(IIサム19:5)」と言いました。それでも、民の決断の結果を身に受けるのが本当の主のしもべです。誰よりもそれをしてくださったのは、十字架の死にまで従われたイエス様です。

私たち王寺教会には変えなければならない文化がいくつかあると思います。ひとつには、リクエストをする文化があると思います。あの人はこうしてほしいと言っている。こっちの人はああしてほしいと言っている。利害を調整して、平和に収まる方法を選ぶ。これは民主制です。この世で常識的に行われている方法であり、神の国の生き方ではありません。私たちはそれを聖書から学んだのではなく、世の生き方から学んで教会に持ち込んできたのではないでしょうか。民主制には欠点があります。多数が幸せで、弱い人、貧しい人、権利をうまく主張できない人、差別されている人たちが排除されます。民意は風見鶏のようになびいて、責任を取ることがありません。富む人々がますます富を独占し、貧しい人々がますます搾取される結末を見ています。民主制は神を知らない世界の生き方です。たとえ「神様、私たちを導いてください」と祈ったとしても、行動で民主制の生き方をするなら、口先の言葉と行動が矛盾していることになります。神の国の生き方は、教会が一緒に聖書を学び、主の御心(計画)を知って、従うことです。主は私たちを約束の地に導き入れてくださいます。神の国では貧しい人がひとりもいません。すべての人が神の恵みによって、自由に、豊かに満たされて生活します。私たちの目に良いと思えることをするのではなく、御言葉をよく調べて、信仰の戦いを立派に戦い、互いに励まし合って、永遠のいのちを受け継ぎましょう。私たちの思い煩いは、主が心配してくださるのです。主の道はいつも最善であり、解決は先に備えられています。

先の2年間で私たちが決断したことがいくつかありましたね。公用讃美歌を福音讃美歌に変えました。祈祷会のスケジュールを変えました。例会を幹事さんに任せるようになりました。最終的に従ってくださったことに感謝します。でも、正直に申し上げれば、信仰の戦いは激しいものでした。

群れの文化を変えることは非常に難しいことです。一つ一つの出来事を、もぐらたたきをしても、定着している文化は変わりません。誰か一人の問題ではないからです。私たちが一緒に気が付き、みんなで変えようとしなければ変わりません。モーセに反対した10人の族長たちは、部族の人々の空気を読んでいたのではないでしょうか。荒野に引き返した民は、主のさばきを受けることになりましたが、10人だけがさばかれたのではありませんでした。ヨシュアとカレブを除いた全員が荒野で滅ぼされたのです。(ということは、ヨシュアとカレブの部族の人々も反対していたということです。)教会でも私たち一人ひとりが、主に従う心でいなければ、群れのリーダーたち(役員や幹事)は、激しい信仰の戦いに引き込まれることになります。人々の期待にさらされ、時には押しつぶされてしまいます。何で神様は私を役員に選ばれたのだろうか、何で私は幹事を引き受けてしまったのかと思うようになり、「今日、牧師がエリコに行こうと言い出したらどうしようか。明日、エリコに突入しようと言ったらどうしようか。どうか何もしませんように」と考え始めるかもしれません。そういうわけですから、みんなで一緒に全く主に従い、共に信仰の戦いを立派に戦い、一人も欠けることなく永遠のいのちを受け継ぎましょう。

さて、後半にはもう一つ、富(金銭)の話があります。旧約聖書で偶像礼拝と言われていたことが新約聖書では富の話に引き継がれます。今日は字数(時間が)足りませんでした。年頭の御言葉を二回に分けてしまって申し訳ないのですが、来週に続きを話します。毎年恒例の秘伝の巻物(標語)は来週開きます。

お祈りします《信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。》

天の父なる神様。2024年最初の礼拝の朝、すばらしいあなたの御名を待ち望みます。私たちはこの年もあなたの誉れを告げ知らせます。あなたは私たちに良いことをしてくださいました。この一年も私たちにいつも良いことを計らい、最善の道に導いてくださることを信じ、心から感謝いたします。

あなたはすべてのことをご存知で、私たち一人ひとりの小さな必要さえも、ひとつも軽く見ることなく、十分な備えをしていてくださいます。しかし、私たちは時に、あなたの知恵を信じ切ることができず、自分たちの目に良いと思えることを優先して、あなたに従うことを忘れてしまいます。主よ。そのような時に、今日に至るまで耐え忍んでくださったように、どうか私たちの咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。

私たちは世々限りなく、神の恵みに拠り頼むことを約束いたします。すべてを御手にゆだね、あなたの御心に従います。《まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。》との御言葉を握り、兄弟姉妹と共に信仰の戦いを戦います。あなたが最前線で戦っていてくださる万軍の主であることを感謝いたします。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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