2024.01.14 主日礼拝「永遠のいのちを獲得する」申命記12章


「主に従い、神の恵みと自由をよろこび楽しもう」
今年の標語が発表されました!

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。新年に入り2回目の主日です。今日もイエス様の復活の朝をおぼえながら、希望もって主を礼拝したいと思います。

今年は年頭のメッセージを2回に分けました。1回目は信仰の戦いとして、人の知恵に従わず、主に従うことについて語らせていただきました。「従う」という言葉ですが、私たちはこの言葉にある種の危険意識をもっていると思います。一昨年から統一教会の問題が再び表面化してきました。何に従うかは自分と周りの人たちの人生に関わる事柄であって、間違えば重大なことになります。ですから、「従う」という言葉に危険意識をもっていることは必要なことです。霊的な健康を守る免疫となります。

ただし、アレルギーにならないようにしたいですね。アレルギーとは、免疫の異常反応です。ウイルスや細菌が体に入ってきたら、免疫が働き、くしゃみや鼻水で外に出そうとします。これは正常です。ところが、スギ花粉が入ってきた時に、花粉が入っても病気にならないにも関わらず、花粉は危険だと判断して、免疫が働いてしまうことがあります。これがアレルギーです。体を守るはずの免疫が、かえって害を及ぼしてしまうのです。

主の教えには、「従ってはならない」と「従いなさい」の両方が出てきます。「主に従いなさい、しかし主でないものに従ってはならない」という教えです。ですから「従う」と耳にした瞬間に危険を感じることは、主が与えてくださった霊的な免疫です。しかし、アレルギー反応を起こし、主に従うことさえも拒否してしまうなら、免疫は害を及ぼしてしまいます。イエス様を信じるとは、イエス様に従うことです。従うことは信仰の根幹部分であり、従わない信仰生活というのはありません。

聖書を読んでみれば、主に従うといっても、箸の上げ下げまで命令されているわけではないと分かります。10のうち9は自由であるのに、1を従いなさいと言われて、嫌だと言うのが罪人の私たちです。エデンの園から変わっていない私たちの気質です。主はなぜ私たちに従いなさいとおっしゃるのでしょうか。それは、豊かな恵みと自由を得させるためです。私たちが自分の目に良いと思えることを追求し続けるなら、出来上がるのはバベルの塔であって、そこに神の恵みと自由はありません。しかし主は私たちに恵みと自由に導いてくださいます。信仰の戦いを立派に戦い、主に従いましょう。

さて、Iテモテへの手紙6:2-19が年頭メッセージの聖書箇所です。後半部分の話をしますので、今日もメインの聖書箇所はIテモテとなります。ただ、旧約聖書と重ねて読みましょうということで、おそらくエリコ突入より馴染みが薄いと思いますので、申命記の方を朗読します。聖書をお開きください。申命記12章(336ページ)【聖書朗読】

今年の年間標語聖句はIテモテへの手紙6:12「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」です。前半は、イエス様の教えを教え、勧めている主のしもべ(テモテ)と違うことを教え、同意しない者と戦うことについて書いてありました。具体的な例として、エリコ突入に反対した10人の族長たちとの間に起こった信仰の戦いを振り返りました。後半は満ち足りる心を伴う敬虔として、金銭を愛してはならないことが教えられています。今日の話は富(金銭)についてです。

永遠のいのちを獲得することと重ねて思い出すのは、約束の地カナンでの生活です。主の恵みによって与えられた約束の土地でしたが、それは単に土地をあげますという話だったでしょうか。私たちは「永遠のいのちは、単に天国に入る権利だ」と考えている節があります。天国という場所があって、そこに入って、土地を相続するだけと思いがちです。しかし、主はカナンに入る前に、シナイ山でイスラエル民族と会い、律法をお与えになりました。律法は約束の地での神の民の生き方を記した、主の掟と定めでした。すなわち、約束の地に入るとは、その土地に入り、土地の所有権をもつことと同時に、その土地で、主に教えられたことに従って生活することだったのです。エゼキエル書には《イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。(エゼ36:17)》と書いてあります。約束の地が汚される、すなわち、祝福の場所がのろいの場所になってしまいました。そう考えますと「永遠のいのちを獲得しなさい」の意味が見えてきます。イエス様を信じた時に恵みによって与えられている永遠のいのちを“獲得する”とは、いただいた祝福を汚して、のろいに変えることがないようにということです。

さて、主の掟と定めの内容をみましょう。大きなポイントは、カナン人の生き方を倣ってはいけない(2節)ということと、自分の目にかなう生き方をしてはいけない(8節)ということです。旧約時代の古代人の生き方は、神々のご利益を支えとした生き方でした。新約時代に入りますと、人々は金銭を支えとした生き方をしていました。神はローマの皇帝であって、その軍事力によって信用されているお金が生活の基盤になっていると考える時代です。ですから、異国の神々に仕えてはならないという旧約聖書のことばは、富に仕えてはならないというイエス様のことばに繋がっています。

神の国の生活の基盤は、主ヤハウェの恵みと自由にあります。神々でも、お金でもなく、荒野でマナを与えてくださった主が、神の民の生活の支えなのです。それを信仰もって表すために定められた主の掟がありました。ささげものです。

15-16節《しかし、あなたの神、【主】があなたに下さった祝福にしたがって、あなたのどの町囲みの中でも、いつでも自分の欲するとき動物を屠り、その肉を食べることができる。汚れた人もきよい人も、かもしかや鹿と同じようにそれを食べることができる。ただし血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。》約束の地カナンは乳と蜜の流れる地です。自分で労したのではない土地と自分で建てたのではない町々、また自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑が与えられ、自由に祝福を味わうことができました(ヨシュア24:13)。しかし、ここにも「9の自由と1の従いなさい」があります。「ただし血は食べてはならない」と言われています。なぜ血を食べてはならないのか、衛生的にどうだとか、色々といわれますが、理由がどうという話ではありません。主が食べてはならないと言われたので、主に従って食べないのです。エデンの園の時と一緒です。これが示すのは、「私たちが十分に喜び味わっていられるのは、主に従っているからこそ与えられている自由だ」ということです。

ささげものの基本的な考えは、主からいただいた祝福の一部に手を付けない、味わわないということです。それは主の命令であり、神の国の生き方です。主の命令に従って、一部を食べないことによって、「主に従うからこそ、神の恵みとしての収穫が与えられている。主に従う者は、それをいつでも自由に好きなだけ食べることができる」と認識するのです。そして、ささげられたものはどうなるでしょうか。主はそのささげものを、主が選ばれる場所で他の人とともに一緒に食べ、喜び楽しみなさいとおっしゃっています。ですから、味わわないとしたささげものも、結局は隣人と共に味わうことになります。こうして、主に従う者に与えられる恵みと自由を、みんなで一緒に味わうのです。

また19節に《レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。》と書かれていることも、よく覚えておいてください。レビ族は金の子牛事件の時に、金の子牛を拝まなかった人たちでした。彼らは神の民の中の選びの民族として、特別な生き方をしました。レビ族は自分たちの土地をもたず、民の他の人たちが手を付けないで主にささげたものを収入とし、生活しました。彼らは完全に恵み(もらったもの)によって生きる人たちでした。(現代でこの生活をしているのは牧師たちです。)もらったものにだけで生活するなんて良い暮らしじゃないと思われた方。そうでもないんですよ。自分で頑張って得た収入は自由な気持ちで使うことができます。しかし恵みによって生きると、使うのも窮屈です。主婦(主夫)の方には少し気持ちが分かってもらえるのではないかと思います。レビ族は民を代表して、恵みによって生きる生活をしています。民が彼らを見て、私たちは主の恵みに支えられて毎日を生きていると認識するためです。しかし主は民全員が窮屈な思いで生活してほしいとは思っておられないのです。収穫を喜んで、いつでも自由に味わってほしいと願っておられます。ですから、限られた人たちだけが、ささげものによって生活しているのです。レビ族の生活が窮屈になるかどうかは、周りに人たちの信仰にかかっています。もし、「私が頑張って稼いだものを神様にあげているんだ」と考えていたら、レビ族は肩身が狭くなります。もし、「主が与えてくださった祝福の一部に手を付けないでささげている」と考えるなら、レビ族は神の恵みの中で自由になります。私たちもまた神の恵みによって生きているので、レビ族と他の人に違いはないからです。《レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。》と言われています。これも神の国の生き方です。

さて、このような生き方をパウロは《満ち足りる心を伴う敬虔(Iテモテ6:6)》と呼んでいます。満ち足りる心は、神の恵みによって満たされ、満足している心です。敬虔は、主に従う姿勢と行動です。この生き方は、この世での生き方と根本的に異なっています。私たちが主に従って、神の国の生き方によって生きようとすれば、信仰の戦いが起こってくるでしょう。それは他の人たちとの衝突というより、私たち自身の不安や誘惑との戦いです。数年前に、金融庁が出した報告書を発端に老後2000万円問題が話題となりました。引退するまでに2000万円の貯蓄があれば老後は大丈夫でしょうという話です。お金があれば老後は大丈夫。これが今の世の一般的な信仰です。(せめて、みなさんの老後は政府が守りますから大丈夫ですと言ってほしかったものですが。)お金があれば大丈夫と信じている人々の間で、《私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置(Iテモテ6:17)》くことには、信仰の戦いがあります。また、私たちが世の価値観に倣って、金銭に拠り頼んでしまうなら、神の国を汚し、約束の地と呼ばれた場所で永遠のいのちを失ってしまうことになります。

以上が富に関する神の国の生き方です。神の国の生き方は他にも多くのことが聖書にかかれています。それらを共に学んで、主に従いましょう。月定献金と私たちが呼んでいるささげものは、私たちのポケットから出たお金ではありません。主が与えてくださった収穫の一部を味わわないで、ささげたものです。最初から最後まで、それは主のものです(マラキ3:8)。これらの献金は主に貧しい人やレビ族のように自由をささげた(献身した)人たちの生活を支えるためと、兄弟姉妹が主の御前で共に食べるために用いられます。こうして主の恵みを共に証しするのです。時々、私たち王寺教会は、兄弟姉妹と共に喜び楽しんで食べるために献金を用いることが苦手かもしれないと感じることがあります。しかし、ささげものの用途として主が指定しておられる、ささげものの主な使い方であることをおぼえておきましょう。満ち足りる心を伴う敬虔をもって、信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しましょう。

今年は、御言葉を一緒に学んで、主の御心を知り、主に従って歩むことを特に意識していきたいと思います。今年の標語を開きます。今年の標語は「主に従い、神の恵みと自由を喜び楽しもう」です。

お祈りします《信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。》

天の父なる神様。恵みとまことの神、主よ。あなたの山には備えがあります。

かつてご自分の民を荒野で養ってくださったように、私たちの日々の糧を祝福し、豊かに与えてくださっていることを感謝いたします。私たちの生活の基盤は、富にあるのではなく、すべての物を豊かに与えて楽しませてくださるあなたにあります。あなたは私たちの望み、私たちの平安の源です。富を生活の支えとする人々の間で、信仰の戦いを立派に戦い、あなたの恵みを証しし、神の国に相応しい生き方をすることができるように教えてください。私たちを誘惑と罠から遠ざけてくださり、満ち足りる心をもって、富を惜しみなく分け与え、主の恵みを宣べ伝えることができるように導いてください。

この2024年の一年をあなたの御手にゆだねます。あなたは主の主、王の王です。私たちはあなたに聞き従います。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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