2023.12.31 年末感謝礼拝「感謝があふれる秘訣」エレミア書2:1-9

1年間守られて感謝の礼拝でした。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今年最後の主日を迎えました。一年を振り返り、主と共に歩んだ日々を思い出しましょう。主はファラオから救い出すお方であると同時に、荒野で水とパンを備えるお方、また約束の自由を与えてくださるお方です。主はエジプトで、私たちの神です。主は荒野で、私たちの神です。主はカナンで、私たちの神です。私たちがもっているものは全て主の恵みであることを再確認し、主に感謝しましょう。今日は、クリスマスの飾りが取り外され、絵も下げられ、御言葉だけが残されています。私たちは裸で生まれ、何も持たないで主のもとに帰っていきます。主とついに顔と顔を合わせて、お会いする時は、会堂を持って行きません。飾りも持って行きません。お花も持っていかないし、楽器も持っていかないし、素敵な服も、お土産も、献金も、何も持たないで行きます。ただ主と私たちだけ。「主よ、この日を待っていました。ついにあなたと対面する時を。」

教会の始めの頃を思い出してみれば、私たちは建物を持っていませんでした。長屋を借りて、そこに集まっていました。会堂の飾りも、少しづつ買い足して今日に至りました。高校生だった時、そんなに沢山献金できたわけでもなかったですよね。でも、主は私たちの礼拝を喜んでくださいました。沢山の物があるから主に喜んでもらえるのではありません。私たちの感謝の心をささげましょう。

聖書をお開きください。エレミヤ書2:1-9(1284ページ)【聖書朗読】

年末感謝礼拝の朝、清々しく年を締めくくれたらと思っている時に、こんな箇所が開かれました。ちょっとやめてよ、という感じですが。_ 今日は感謝を学ぶようにと導かれています。

感謝を学ぶことは、実はとても難しいことです。私たちが「感謝って大事だな」と気が付くのはどんな時でしょうか。それは、今まで当たり前のように上手くいっていると思っていた関係が、急に壊れてしまった時ではないでしょうか。(実は急にではなくて、積もり積もってのことですが、相手がついに爆発するまで気が付かないことがほとんどでしょう。)そういうわけですから、神の民がその昔に神の怒りを受けた様子を見て、学ぶことができたら幸いです。私たちはまだ、今日開かれた箇所に書かれている言葉ほどは怒られていません。敵がやってきて王寺教会を取り潰してしまおうという事態にはなっていません。今日の箇所で主が怒っておられるのは古代イスラエル人に対してです。私たちはこの様子を横目で見ながら、「反面教師ありがとう」ということで、感謝の大切さを学ぶことができるのです。我が家の子どもたちは3人兄弟ですけれども、下にいくにつれて、色々と上手ですね。どうやら横目で見ているようです。お姉ちゃんがあんなことして怒られた。親がこんな時にこうすると、お兄ちゃんが怒られてる。見てるんですよね。そして、自分は親の怒りを上手く免れようと。本当に上手なものです。

さて、一体全体、どんな経緯があって、主はこれほどまでに怒りを爆発させてしまわれたのでしょうか。エレミヤ書は南ユダ王国がバビロン捕囚に遭った時期に語られた主のことばです。エジプトで奴隷となっていたイスラエル人たちが、ファラオから解放され、荒野を40年間旅して、ついにカナンに入り、ダビデ王国が建てられ、その地での生活が続いていた時のことです。

2節《わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。》婚約時代とは荒野の40年間のことです。この箇所では、真実の愛と主への従順があったと書いてあります。その時を思い返してみれば、実際は、主への不平不満が沢山あり、主のしもべに従わなかったこと数知れずでありました。でも、不従順な人たちは滅ぼされましたので、エレミヤ時代のイスラエル人たちは荒野では従順であった人たちの子孫ということでしょう。ですから、荒野での主との関係は比較的良かったと言われています。

荒野は人が住めるところではありません。物もない、食べ物もない、水もない場所です。あらゆる物が不足している場所です。しかし主は、天からマナを降らせ、岩から水を湧き出させ、さらにはうずらや、服や、履物まで与えて、40年間の旅を支えてくださいました。その間、略奪しようと襲ってくる敵から、民を守ってくださいました。《イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。(出40:36-38)》と書いてあります。彼らはそのような不安定な生活の中、主に従って留まり、主に従って旅立ちました。これが新婚時代の真実の愛、荒野での主への従順です。

ところが問題は、カナンに入ってからでした。6-8節《彼らはこう尋ねることさえしなかった。「【主】はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「【主】はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者(王)たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。》乳と蜜の流れる地といわれたカナンでの生活ですが、この箇所から暗示されるように、どうやらカナンでも困難に遭遇することがあったようです。「主が導き入れてくださった良い土地で、どうしてこんな悪い状況が起こるのか。主はどこにおられるのか。私たちと共におられないのか」と叫んでも不思議ではない状況にあったようです。ところがそのような時さえ、彼らは主を思い出しませんでした。「主がどこにおられるのか」と尋ねることは、主の臨在を信じていないということであり、宜しくないことです。でも、まだそうやって疑問の声を投げるだけでもマシじゃないか、と主はおっしゃっています。それすらもなくて、全く主を忘れています。一般の民だけではなく、なんとリーダーたちでさえ! 祭司や、聖書の教師や、王様や、預言者でさえ!

この「忘れてしまっている」ということは、「感謝」と関係あると思いませんか。毎日、料理が作ってくれている。洗濯してくれている。ゴミ出しに行ってくれている。切れた電球を交換してくれている。洗剤を詰め替えてくれている。子どもを幼稚園に連れて行ってくれている。幼稚園の持ち物に名前を書いてくれている。ペットに餌をあげてくれている。_ 「あ、そういえば、今年は一度も家のトイレを掃除しなかったなぁ。いやぁ、我が家のトイレは本当に素晴らしい汚れ防止機能がついているなぁ。」違うんですよ。誰かが掃除してくれてるんです。もし、これらを忘れてしまって、いつも当たり前に起こっていると思っていたら、感謝は出てこないですよね。

古代イスラエル人たちは、実り豊かな地に連れてきてもらって、良い実を食べさせてもらっていることを忘れていました。当たり前に起こっていると思っていました。主を忘れ、主の律法を忘れました。律法は、カナンに入る前に与えられたものです。「カナンに入ったら、このようにして生きていくんだよ。周りの民から習ってはいけないよ。主であるわたしが教える生き方を守っていきなさいよ」といって与えられたのが律法です。彼らは律法を守らなかった。主は怒っています。「それはルール違反だ!」と怒っているのではなくて、「あなたたちはわたしを忘れた」とおっしゃっているのです。神様は警察だと思っていませんか。私と主は、恋人だ、夫婦だと思っていますか。荒野の40年間が婚約時代なら、カナンは結婚時代です。結婚したら、独身時代と違う生き方があります。生き方を変える必要がありますよね。一緒に生きていくのですから。

私たちは古代イスラエル人と同じことをすることがありますね。イスラエル人たちは、救いの神ヤハウェを信じていましたけれども、備えてくださる主、ここにおられる神、いと高きお方(すなわち全ての神々と呼ばれるものの上におられる方)、正義と公正である主を信じていませんでした。唯一の神、主がそれら全てを担ってくださっているのに、困難から救ってくれるお方ということは、かろうじて覚えていたかもしれませんが、他のことは忘れていました。私たちは、主を証しする機会が時々ありますが、どうでしょうか。救いの証しばっかりということはありませんか?「困難に遭って、救ってもらいました。病気になって、癒してもらいました。主は生きておられます。」もちろん、この証は何もおかしくありません。主は救い主ですし、主は癒し主です。今までのように、救いの証しを日々続けていただきたいと思います。しかし、それだけだったら、主がしてくださっている他の面を、当たり前だと思って、すっかり忘れているかもしれません。

信仰のバックスライドと呼ばれる現象があります。主に救われてクリスチャンになりました。でも、しばらくして信じるのをやめてしまいました。ある時、大きな事件や病気に遭って、主に祈って救われました。またイエス様を信じて、歩み始めました。でも、またしばらくしてやめてしまいました。すると、次の困難に…と繰り返す現象です。礼拝に来なくなって、また来るようになってという場合は目に見えますが、礼拝に毎週来ている人であっても、実は心の中で同じ現象が起きていることがあります。どうして、この現象が起こると思いますか。“救いの神”だけを信じているからです。救われるとしばらくは落ち着きますね。すると神である主が何をしているのか見えなくなるのです。何もしていないように思えてきます。なんで毎週礼拝なんかしてるんだろう、と分からなくなる。かつての神の民と同じことやっているのです。

王寺教会でみんなで祈っている祈祷課題を吟味してみませんか。(何も悪いとは言っていませんよ。これまでのことを続けてください。でも、何か忘れてしまっている領域はないでしょうか、ということです。)大変なことがあると祈祷課題を出しますよね。でも、他のことはどうでしょう。「来年一年の必要を備えてください」「今度、こんな予定があります。主よ。ともにいてください」「主のみ名が貶められています。あなたの愛と栄光があらわされますように」「こんな良くないことが起こっています。曲がったものをまっすぐにしてください」主が何をしてくださっているか思い出せば、もっと色んな事柄について祈れますよね。そして実は「主の祈り」にそれらの祈りが含まれていることに気が付くでしょう。

トイレの汚れ防止機能が優れているのではなく、掃除をしてくれている人がいるのです。「素晴らしい仕事に就けたから、給料が良くて生活が豊かだな」ではなくて、日々の糧を与えてくださっている方がおられるのです。「治安の良い国に住んでいて、安全で助かるな」ではなくて、主がいつも守ってくださっているのです。_ 忘れてしまっていることに、気がついたら、感謝は自然と出てきます。感謝しなさいと言われるまでもなく、感謝が出てきます。

お祈りします《わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは【主】の聖なるもの、その収穫の初穂であった。》

天の父なる神様。私たちと共にいてくださる主。日々の糧を備え、悪から守り、なによりも、私たちが立ち返る時に7を70倍するほど赦してくださるお方。私たちの神、主よ。あなたの御名を兄弟姉妹と共に心からあがめます。

2023年の一年間も、私たちを救い、癒し、守り、導き、良い実を豊かに与えてくださったことを心から感謝いたします。私たちはあなたの働きにどれだけ気が付くことができたでしょうか。あなたがなさっている数々の恵みの内、ほんのわずかしか気がついていないことでしょう。主よ。どうか御言葉の光によって、私たちの人生を照らし、あなたがここにいてくださることを教えてください。

「キリストを主とし、聖なる方としなさい。」と御言葉をいただいて、この一年をはじめました。この御言葉は年明けには消えてしまうものではありません。永遠に残る、あなたの御言葉です。今年学んだことを、来年も再来年も、ずっと心に留めて歩み続けることができますように切に祈ります。

あなたの心に、悲しみと怒りを積もらせている、私たちの罪をおゆるしください。私たちは自分で何をしているのか分からないのです。ただただ、あなたのあわれみと真実の愛によりすがります。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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