2023.12.3第1アドベント礼拝「待降節:待機と遵奉」 創世記5章25~32節、6章9節、7章11~16節




クリスマスを待ち望むアドベント(待降節)の時期が来ました。急に寒くなり、灯火が恋しい季節です。心もからだも温まりたいですね。(リベカ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今年もイエス様の地上生涯を記念する教会カレンダーが始まりました。待降節の始まりです。王寺教会は今年「愛と平和を広げる聖なる夜メリークリスマス」というテーマを与えられ、新しい教会暦に入りました。ここから待降節、降誕節、四旬節、復活節の4つのシーズンが始まります。イエス様の地上での働きをひとつひとつ思い出しながら、いま私たちはその働きの只中にあって、完成の時を待ち望んでいることをおぼえましょう。

待降節(アドベント)はクリスマス前の4つの日曜日を含んでいます。最初の2つの聖日は、私たちが救い主を必要としていることを認識する時とされています。私たちの内と周りの世界に闇があることを認め、イエス様の光を求める、悔い改めの期間です。

イエス様が人々の前に出てくる前に、荒野で叫ぶ者の声がするとイザヤは預言しました。《『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』(マルコ1:3)》この御言葉は、待降節に読まれることの多い聖書箇所です。みなさん、「クリスマスの準備は出来ていますか?」と聞かれて何を考えますか。クリスマスツリーの準備は…コンサートの手配は…クリスマスカードは…。何かやることが一杯ありますね。しかし、世界を見渡すと、戦時下や災害時の教会があります。ちょっと想像してみてください。クリスマスツリーは焼けて無くなったかもしれません。コンサートはやっている場合ではないでしょう。クリスマスカードを送ると言っても、インターネットすら使えない時に郵便は動いているでしょうか。では、クリスマスの準備はできないのでしょうか。そんなことはありませんね。クリスマスの準備とは、主の道を用意すること、主の通られる道をまっすぐにすることです。バプテスマのヨハネは人々に「悔い改めなさい」と告げました。私たちは平時を生きていて、色々な物を豊かに与えられていますが、それゆえに大切なことを忘れがちです。

クリスマスの備えとして、私たちがすべきことは、主を待つことです。待降節が始まりました。主の通られる道をまっすぐにしましょう。

アドベント礼拝の間、主を待つことを御言葉から教えられ、従っていきたいと思います。聖書をお開きください。創世記5:25-32、7:11-16(8ページ)【聖書朗読】

教会の前の路地から国道に出る時、信号があります。赤が長いですよね。測ってみましたら2分でした。スーパーのレジ。何列もレジがあるスーパーに行くと、並んでいる人たちの籠を見て回ったりしませんか。どこの列が速く進むだろうか。ここが速いと思って並んだら、前の人がもたついて、結局あっちの方が速かった。病院の待合室。予約したのに!予約した時間から1時間、2時間…。イライラしますね。他の予定があったら、焦りますね。

でも、昔を考えてみてください。車がなくて、歩いていた時代がありました。新幹線がない時代がありました。レジの精算機がありませんでした。ICOCAはありませんでした。電話がありませんでした。Eメールがありませんでした。Amazonもありませんでした。何でも素早くできるようになったのですから、現代の私たちにはたっぷりと時間の余裕があるはずです。ところが、時間はどこにあるのでしょうか。昔と比べて、一人の人が抱えている「やることリスト」は爆発的に増えています。現代人はもはや、待つことができません。

私たちは、そのような世での生き方を、神である主との関係に持ち込んでしまうことがあります。主が私のペースに合わせてくれることを期待するのです。「主よ、まだご存知でないなら、お知りおきください。この腰が本当に痛いのです。痛み止めをお願いします。」「主よ、仕事が終わりました。ありがとう。次は会食の予定があるので、そっちの方を祝福してください。」「イエス様。今日はあの姉妹を気にかけてあげてください。辛いことがあったようですから。」私たちは、主が周りの状況に素早く反応しておられないと思っています。注意していただくように、あれもこれも、教えて差し上げなければ。_ すべてをご存知の神であるお方に? それはやってはいけないことですね。無礼なことです。

聖書は《【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。(イザヤ40:31)》と言っています。主を待つことは、聖書のあらゆるところで語られています。主を待つことは、私たちの義務です。私たちは、主を待ちなさいと言われています。

ノアは待ちました。ノアが生まれた時、父レメクは言いました。

《「この子は、【主】がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」(創5:29)》ノアは大きくなってから、この言葉を聞いたことでしょう。しかし、どうやって呪われた地で慰めを与えることができるでしょうか。聖書はノアが500歳になるまでの出来事を何も書き残していません。ノアが何か世界を変えるようなことをしたとか、彼の信仰が誰かの人生に影響を与えたとか、そのような記録はありません。その500年の間に、人の悪はますます増大し、世界は腐敗し続けました。私たちであったら、こんな世界で私は何をすべきかと思い悩むことでしょう。「主よ。私はどんな奉仕をしたら良いでしょうか。」「主よ。私はどんな進路を選ぶべきでしょうか。どの仕事に就くべきでしょうか。」「主よ。今日は誰のところに行ったら良いでしょうか。」「明日は誰に話しかけるべきでしょうか。」_ ところが、ノアの歩みはそうではありませんでした。聖書はただ《ノアは神とともに歩んだ(6:9)》と書いています。

ノアは神とともに歩み、主を待ちました。ノアが主の心にかなったのは、主とのつながりがあったからです。ノアは500歳になって神の言葉を聞きました。その時、彼はそれが主の声であるとすぐに分かりました。彼は疑問をもたず、主の声を聞き分け、従うことができました。同じように、神のことばである聖書に、日頃から親しんでいる人は、この騒がしい世においても、主の声を聞き分けることができます。

主は人の齢を120年にしようと言っておられますが(6:3)、寿命が120年になるという捉え方と、その時点から大洪水が起こるまで120年という捉え方があります。子どもが生まれた時、ノアは500歳で、大洪水が起こった時、ノアは600歳でしたから、大洪水が起こるまで120年かかったと捉えることも十分にあり得ます。おそらくノアが箱舟を作るように言われてから100~120年の年月が経って、大洪水が起こったと考えられます。

神である主は、ノアに箱舟を作るようにと仰せられました。アメリカのケンタッキー州には、ノアの箱舟と同じ大きさの建造物があるそうです。およそ132m×22m×13.2mの大きさです。それを材料を集めるところから始めて、チェーンソーやトラック、クレーンなど無しで、家族だけで作りました。膨大な労力と時間がかかったことは想像に難くありません。10年、20年と年月が経っていきましたが、大洪水が起こる気配はありませんでした。何のために、こんなに労力と時間を費やしているのかと普通の人は思うのではないでしょうか。私たちは分からないことをやり続けるのが苦手です。すぐに意味が見いだせない時、従いつづけることが困難になります。そして主に向かって怒り始めます。「主よ。何のためにこれをしているのか、はっきり教えてください。」「いつ、何が起こるのか、先に教えといてください。」「訳のわからないことをさせないでください!」「主を待たなければ、他にあれもこれもできて、時間を無駄にしないで済んだのに。」_しかし、ノアは100年余りの時を、箱舟を造り続けながら、洪水の気配もなく、悪が日々増大してく一方の世界で、主とともに歩み続けました。

このノアから、私たちは主を待つことを学ぶことができます。主を待つとは、主の御前にいることです。「主よ、私の行動に注意していてください」という姿勢ではなく、私たちが主に注目し、主が何を語られるか、主が何をしようとされるかを見るという姿勢です。待つことは私たちの仕事です。主に目を留めて、いつでも主の言葉に応えられるように待機することです。主を待つ、もう一つのことは、主のタイミングに従って、言われたことを行うことです。ノアは箱舟を造りなさいと言われた時に、箱舟を造り始めました。箱舟に入りなさいと言われた時に、箱舟に入りました。箱舟から出なさいと言われた時に、箱舟から出ました。ノアは500歳になるまで、神とともに歩んできたので、主の声を聞き分けることができました。そして主のタイミングをいつも信頼して、従いました。「待ってれば良いんでしょ。zzZ」と寝ていては、主を待っているとは言えません。また逆に、忙しくしていては、どうやって主を待つことができるでしょうか。マルタはイエス様に、マリアを指導してくれと言いましたが、イエス様はこう答えられました。《「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10:41-42)》

みなさん、クリスマスの準備はできていますか。クリスマスツリーの話をしているのではありません。クリスマスコンサートの話でもありません。クリスマスカードでもありません。私たちの生き方のことです。主の道を用意するとは、主を待つことです。主に目を留めて、待機していなければ、どうやって用意したり、整えたりできるでしょうか。主はご自分の行動計画を先に伝えるようなお方ではありません。そうすれば、私たちが主を待たないで、自分が良いと思った事を自分が良いと思ったタイミングで行うことをご存知だからでしょう。人の目に良いと思える事、人の目に良いと思えるタイミングは、最善ではありません。私たちの視野は限られており、主の視野は無限だからです。

クリスマスの登場人物を思い出してください。シメオンもアンナも、主を待ちました。ザカリヤもエリザベツも主のタイミングを受け入れ、期待しました。マリヤもヨセフも、戸惑いこそしましたが、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えました。彼らはみな、主を待つ人たちでした。

みなさんは洗礼を受ける前に、牧師と一緒にお祈りをされたと思います。このようなお祈りをなさったことをおぼえておられるでしょう。「神様、私は自分が罪人であることを心から認め、告白します。私は自分の罪とその厳しい結果からの赦しが必要であることが分かりました。しかし、イエス様が私の罪の赦しのために身代わりとなって十字架にかかり、私の罪のために死んでくださったこと、またその死からよみがえることによって私を確実に神様の子どもとしてくださったことを感謝します。今、イエス様を自分の救い主として心にお迎えします。これから自分の人生の主となり私をお導きください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン」多少文言の違いはあっても、そのようにお祈りされたはずです。あの時、イエス様をあなたの人生の主としてお迎えしましたね。

主は待ちなさいと言われるお方です。イエス様があなたの人生の主であるなら、あなたの生き方は、主に目を留めて待機し、主がこれをしなさいとおっしゃったら、その時、そのタイミングで従う歩みであるはずです。あなたの人生の主は、いま誰になっていますか。間もなく主が来られます。クリスマスの準備をしましょう。

お祈りします《ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。(6:22)》

天の父なる神様。虹が雲の中にあるとき、それを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こしてくださるお方。私たちの主よ。

今年も主イエス様の地上での働きをおぼえる教会カレンダーが始まりました。あなたはこの絵を描かれる初めに、キャンバスを真っ黒に塗り潰されました。それが私たちの現実、この世界の現実です。私たちは光を必要としています。主よ。あなたを必要としています。かつて奴隷としてすべてを奪われ、過酷な労働を課されていた人たちは、農園でこのように歌っていました。朝目覚める時、Give me Jesus(イエス様をください). 真夜中に泣く時、Give me Jesus. 嘆き悲しむ人が言いました。Give me Jesus. 私が死に向かう時、Give me Jesus.

主を待ち望む者は新しく力を得ます。この年の待降節を、私たちとあなたとの関係において特別なものとしてください。私たちはあなたを待ちます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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