2023.12.17第3アドベント礼拝「待降節:礼拝して待つ」詩篇25:1-5

昨日のクリスマスコンサート

素晴らしい演奏とメッセージでした♪

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。待降節の3週目に入りました。救い主が来てくださることを待ち望む1ヶ月を過ごしています。クリスマスは、聖書の順番で、はじめから3分の2を過ぎたあたりで出てくる出来事です。それまで3分の2の数千年の期間は、クリスマスを待つ時間だったのです。待つということは、聖書が語っていることにおいても、私たちの信仰においても、非常に重要なポイントです。

世の中の人々のクリスマスシーズンを見てみますと、待降節(待つこと)の意識があまりないことに気が付きます。欧州文化に馴染んでいる人がアドベントカレンダーを知っている程度ではないでしょうか。ざっくりとクリスマスシーズンというのがあるだけでしょ、とほとんどの人々が思っているでしょう。お店のセールが始まり、人々はパーティーをしたり、休暇を取ったり、恋人とデートしたり。ですから、教会が待降節に静かに待ち望んでいると、違和感をおぼえることでしょう。「何で、明るくお祝いしないの? どうしたの、さっさと始めましょうよ。」そう言って不思議な顔をされるかもしれません。しかし、その時こそ、福音を語る糸口ができるのです。「不思議でしょう。そう、私たちは待っているんですよ。…」と福音を話し始めることができます。

神から始まることを、人々は認識したことがありません。「自分が始めたら始まるでしょう。それ以外にはない」と思い込んでいます。でも、クリスマスはイエス様が来られたので始まったのです。私たちは待降節に伝えるべき大切な福音を携えています。

今週も主を待つことを学びましょう。聖書をお開きください。詩篇25:1-5(955ページ)【聖書朗読】

待降節の本質は待つことです。アドベントカレンダーをめくって、クリスマスの音楽を聞きながら、クリスマスプレゼントの準備をすることではありません。実際に私たちが主を待つことです。待つことを学び、この待降節に御言葉に従って、主を待つことを経験しましょう。今年のクリスマスがみなさまの人生の中で、イエス様と出会う、特別なクリスマスになるように祈っています。

今年の待降節は3回のメッセージを通して、待つことを学ぶ予定をしておりました。聖書に出てくる人物が「待つ」場面から、待つことを学ぼうと、ノア、モーセ、ダビデの人生を見ていこうと思っていました。ところが、先週は牧師家族のインフルエンザ感染があり、ご迷惑おかけしました。主の摂理により、モーセの回はお蔵入りになりました。若い時に自分の力で同胞を救おうとして失敗したモーセ。80歳になって、召命を受け、120歳になるまで、民を導きました。彼は80歳まで荒野で待ちながら、主が事をなされることを学びました。待つことは主を学ぶことでした。これが2回目に予定していた話です。

今日はダビデを見ましょう。「天動説」と「地動説」という話があります。空が動いているのか、地面が動いているのかという話です。ダビデの人生に学ぶ「待つこと」は地動説です。500年前、ポーランドの天文学者コペルニクスが、地動説の本を書きました。そして今日では地面が動いていると一般の人でも分かっています。大昔の人々は、どうして地面は止まっていて、空が動いていると考えたのでしょうか。それはおそらく、自分が見て感じることから考え始めたからでしょう。地面が動いているなら、私たちが乗り物に乗っている時と同じ感覚をおぼえるはずではないだろうか。自分にはこう見える。自分にはこう感じる。… 結局、コペルニクスが本を書いても、ニュートンの万有引力の法則が出てくるまで、なかなか人々の納得は得られませんでした。

ダビデの人生を振り返ると、いつも神を待つ人でした(何度かの失敗をのぞいて)。ダビデはイスラエルの歴史上、最も偉大な王様です。軍事と政治の指導者として、最も尊敬されています。古代イスラエル民族の国を確立し、黄金時代を築き上げました。しかし、それだけ人々に評価され、富と権力を手に入れた人物でありながら、決して自分からの視点によって世界を見ようとしませんでした。

ダビデは幼い頃から、父の羊を世話する羊飼いでした。8人兄弟の末っ子として育ち、ベツレヘム周辺の丘で羊をお世話していました。野原で羊の群れとともに、神の臨在を体験し、人知れず、静かに主を学びました。ある日、預言者サムエルがエッサイの家にやってきました。王様の後継者に油を注ごうとして、神に導かれ、訪ねてきたのです。エッサイは事情を知り、子どもたちを連れてきました。しかし末っ子のダビデはそれに値しないと考え、羊の世話をさせて、サムエルの前には呼びませんでした。ところが、主が選んでおられたのはダビデだったのです。こうして、若く、戦いを知らず、教育も受けていないダビデに油が注がれ、新しい王様として任命されました。

そこから10~20年、神の時をまつことになります。戦いに出ていた兄たちに弁当を届けるために出かけていった時、ゴリアテと戦いました。その時、サウル王と出会います。サウル王は霊的な問題を感じた時、ダビデを呼んで琴を弾かせました。その内に、ダビデを道具持ちとして召し上げます。人々に知られるようになると、段々と人気を得るようになり、サウル王から妬まれるようになりました。それは単なる妬みの感情に留まらず、命を狙って、追いかけられるほどでした。ダビデを助けた人たちは、預言者や祭司であっても殺されました。ダビデは逃亡中に、二度サウルの命を奪うチャンスがありましたが、実行しようとしませんでした。主のタイミングと守りをかたく信じていたからです。

ダビデがどんな人物であったかを知るには、歴史書を読むのもいいですが、一番は、彼が歌った詩を読んでみることでしょう。彼は音楽家でした。彼の讃美は、祈りでした。その歌は、礼拝の姿、神の視点から世界を見て、主を待ち望む姿です。《【主】よあなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。あなたの真理に私を導き教えてください。》人間視点だと、この歌は「主よ。私があなたの道を見つけるようにしてください。私があなたの進む道を知るようにしてください。私があなたの真理に行けるように助けてください」となるでしょう。なんだか、後者の祈りのほうが、私たちの祈っている言葉に近いかもしれませんね。「私ができるように、あなたは補助して」という祈りは、礼拝の姿ではありません。主を待つ姿ではありません。

「私が立っている地面は動いていない。動いているのは神が住んでいる天の方だ。」と考えて、自分の人生を見るなら、それは間違いです。この地面は動いていないと思い込んでいる、あなたの人生観は、天からの視点によって見直されなければなりません。伝道者の書にこう書かれています。《私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。(伝8:16-17)》この箇所によると、私が天を見上げて、天の動きを捉えようとしても、捉えることはできないということです。神のみ心は何だと、私の知恵を絞り、私の立っているところから始めて、つかもうとしても、全く理解することはできないのです。

教会の集まりに来ると、聖書を読みましょうと言われますね。私は度々、みなさんに、こうお伝えしています。「聖書は神様から私たちへ送られている手紙ですが、私たちは第3者です。聖書にはまずAさんとBさんのやり取りが書いてあって、私たちは脇から見ているCさんです」と。こういうメッセージって、実際、人気がないと思います。「まっさらな気持ちで聖書を読んで、神様がダイレクトにあなたに語っておられる御言葉を掴みなさい!」と言うと、人気が出るかもしれません。でも、みなさん。どちらが天動説で、どちらが地動説でしょうか。どちらの見方が、本当は正しいのでしょうか。私が立っている地面を中心として、目に見えるように、体が感じるように、人生を理解することが正しいでしょうか。それとも、聖書がある人物の人生に光を当てて、神である主からの視点を示しているのをみて、それに習って、天から私の人生を見ることが正しいでしょうか。主を待つ人は、御言葉に親しみ、天からの視点をもって物事を見たいと願い、主に祈る人です。

さて、アドベントらしい(?)話をしましょう。イエス様のお誕生に関わる出来事です。シメオンとアンナは、メシアの誕生を待っていました。彼らが、待ち望んでいたイエス様とついに出会ったのは、宮でした。宮とはエルサレム神殿のことです。神殿は礼拝する場所。イエス様が言われたように、御言葉によると、「すべての民の祈りの家」です。シメオンとアンナは宮で礼拝していました。彼らの礼拝は、祈りであり、主を待つことでした。聖書に、アンナは《宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた(ルカ2:37)》と書かれています。

主キリスト、イエス様を待ち望んでいた人々はどのように祈っていたのでしょうか。祈りの箇所をひとつ開いてみましょう。イザヤ63:15-19《どうか、天から見下ろし、ご覧ください。あなたの聖なる輝かしい御住まいから。あなたの熱心と力あるわざは、どこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか。まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、【主】よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。【主】よ。なぜあなたは私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました。私たちは、とこしえから、あなたに支配されたこともなく、御名で呼ばれたこともない者のようです。》これが待降節の祈りです。どうかお帰りくださいと、神から始まるクリスマスを待ち望んでいます。神である主が、本来おられる場所におられることを認める礼拝です。

神に期待して、神を愛するのではありません。神である主が私たちを愛しておられることを知って、主に期待するのです。人が神を呼び寄せたから、キリストは世に来られたのでしょうか?いいえ、主があなたを愛して、あなたを捜して、救うために来てくださったのです。私たちがすべきことは、神を呼び寄せるのではなく、神である主イエス様を待つことです。

クリスマスは毎年やってきます。ところが、ほとんどの人はクリスマスにイエス様と出会うことがありません。一年、また一年と行事だけをこなして、ただただ過ぎていきます。どうしてでしょうか。_ 待降節を知らないからです。主を待って、クリスマスを迎えないからです。みなさんはどうですか。今年のクリスマスこそ、特別なクリスマスになってほしいと願っておられませんか。聖書はこう言っています。《【主】はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。【主】の救いを静まって待ち望むのは良い。(哀歌3:25-26)》あなたが救い主を待つなら、主はご自分の約束の通りに、あなたに会いに来てくださいます。それが本当のクリスマスです。

お祈りします《【主】よ あなたを わがたましいは仰ぎ求めます。…あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。》

天の父なる神様。まことにあなたは私たちのともしびを灯されます。私の神、主であるあなたは私たちの闇を照らされます。

主よ。あなたの愛と熱心は、そのひとり子をお与えになったほどに、広く、深く、ついに私たち一人ひとりを引き上げるほどに、闇の深みにまで届きます。私たちの罪がいかに重く、海の深みに引きずり落とすものであっても、あなたにはその縄目を解き、私たちを救い出すことがおできになります。町の門を高くあげ、救い主イエス様を待ち望みます。

力ある神、栄光の王よ。私たちはあなたを仰ぎ求めます。私たちにあなたの道を教え導いてください。待つことを知らずに、一年、また一年と過ぎ去らせてしまう者たちを、どうかあわれんでください。あなたを知ることができるように、あなたと出会うことができるように切に願い、待ち望みます。そして、待降節だけではなく、いのちの日の限り、主の家に住むことを願います。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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