2021.7.11主日礼拝「荒廃と暴虐」創世記6章1節〜13節

 
 
梅雨明けはもうすぐかしらと思わせるお天気の日曜日、午後からは久しぶりの洗礼式や転会式が予定され、期待と喜びを持って教会堂に入ります。礼拝は機器の不具合で、会堂内で音声が途絶えた5分間 がありましたけれども、かえって、オンラインならではの臨場感もあったのではないでしょうか(笑)
 
聖書は難しいですね、と中尾先生。クリスチャンでさえ、読まなければと思っても、独りではなかなか読み進めません。中尾牧師は、自分の説教の仕事は聖書の全体像を説明していくことだと言われました。人は聖書全体の流れを知っていることで理解が深まり、人生を照らす「光」としておことばが心に入ってくるからと。また、単に心地良い説教をすることが目的でないという先生の覚悟も感じさせられました。今回は人の罪によってもたらされたもののその後のお話です。
 
人が良いと思うことに従った結果何が起こったか。アダムとエバが神様の言いつけに従わずに木の実を食べたのも、それが「良い、目に慕わしい」と写ったからでした。(創世記3:6)その子カインも供物を神様の方法に従うことより自分の良いと思うままに行ない、それが神に受け入れられなかった怒りが弟への嫉妬へ、心が「荒廃」し爆発し「暴虐」の行為へと向かうのです。カインは楽園から追放されて以来、神のあわれみで生き続けますが人生に苦しみが伴うこととなりました。カインの末裔である人々も、神を見上げず、思いのままに振る舞って、悪に向かい、神の期待を裏切りつづけます。神は忍耐されましたが、人間を創造したことを悔やまれ、洪水を起こし人間たちを滅ぼそうと考えられるのです…。
 
楽園から追放されたカインは「神様から『ねじ曲がった祝福』が与えられた」と中尾先生は表現されましたが、生きていくことに苦しみが伴うという、負の遺産を私たち人間は背負うことになりました。原罪、罪への傾向性というものが、私にも生まれつきDNAとして潜んでることを感じさせられます。いつも神様のおことばを仰いで自らを省みなければと思いました。
 
午後の洗礼式、転入会式は祝福の時でした。ICUで死の危険と戦い続けながらご主人の救いを祈り続けた方とご家族の切なる祈り、そして癒しと救いを祈り続けた私たちの多くの祈りが聞き届けられました。みんなで心から祝い神を賛美し、マスクを数秒取って、全体写真を2年ぶりに撮りました。
 
王寺教会の洗礼式は「滴礼」です。
 
プレイズ・ゴッド!(Rebecca)

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