2021.4.11聖日礼拝「イエス様の教会」 マタイの福音書16章13~20節

 
 今回は着任の中尾敬一牧師をお迎えして最初の礼拝でした。中尾先生は、牧師交代に揺れる私達に、「イエス様の教会ですから何も心配しないで大丈夫!」と言って下さいました。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)
 
聖書の教会とは、教会堂の建物ではなく、主にあるイエス様の弟子たちの群れをさし、主にある兄弟姉妹のコミュニティのことです。また、教会はイエス様を頭としたキリストの体で、決して牧師が頭では無い、牧師は全ての人達がイエス様に繋がるように出来ることをして、聖書をときあかし、イエス様がどのような方であるか、また私達のためにイエス様が何をして下さっているのかをお知らせする奉仕者であると話されました。牧師が一定の期間をもって交代するのは、イエス様によって建てられている教会(群れ)であるのかそうでないのかを確認する良い機会だと考えましょうと教えられました。
 
ある時、イエス様のもとに子供達を連れて来た人がいました。止めようとする弟子にイエス様は、子供達を連れて来るように言われ「天の御国は子供たちのような者達のものなのです。」と告げられました。パウロはコリントの教会にこのようなことを伝えています。「イエス様は愚かな者、弱い者、取るに足りない者、無に等しい者、見下されている者を選ばれました。それは強い者、肉なる者が誇る事のないようにする為です。」と。
 
教会は会社ではありません。仕事に支障のない人や優れている人を選んで宣教するのではないのです。イエス様は役に立たず、愚かな者をどんなプロジェクトよりも優れた者として目に留め、そして自らの死をもって愛して下さいました。私達はそのような愛を受け、互いを愛し合う存在として周りの方達にこの良きお知らせをすべきなのです。イエス様は、教会に集う私達の内に愛が存在し、お互いが憎しみあったりする事のない事が最も大切であり、このことが教会のどんなプログラムよりも優先されるべきだと教えて下さいました。
 
また主はカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に律法を与えて下さり、これを守るように言われました。「主を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と。しかしユダヤの民はこのみことばを守ることに失敗し、主を愛することも隣人を愛することもしないまま、イエス様を十字架にかけてしまったのです。私達はこの出来事を通して学ばなければなりません。みことばを正しく理解して愛をもって歩むように、みことばをただ読んでいるだけの者にならないように。
 
王寺教会が、自らの生命を犠牲にして私達に与えて下さったイエス様の愛にふさわしい群れでありたいと心から願いました。
 
礼拝後には、先生ご夫妻と幼い子供さんお二人の歓迎会が催され、コロナ禍のため飲食こそありませんでしたが、みんなが親しくふれあうアットホームな良いときとなりました。 (Okumoto) 

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