2020.11.15礼拝「わたしの民、あなたがたの神」㉖『礼拝する民へ~偶像礼拝の罪と赦し』

 シナイ山に上り、神から幕屋の建造についての指示を受けたモーセがシナイ山から一向に下りて来ようとしないのを見て、イスラエルの民たちはモーセの兄のアロンにイスラエルの民を荒野からイスラエルまで先立って行く神々を造ってほしいと言い出します。そして、アロンは金の子牛を造ってしまう様子が出エジプト記32章から34章に記されています。

十戒でエジプトの奴隷生活から救い出しシナイ山まで導いてくださった神が第一戒、第二戒で禁じた”神以外の他の神々、偶像を造り礼拝すること”、第七戒で禁じた”姦淫”の罪をイスラエルの民たちは犯してしまいます。
嫌だったエジプトでの奴隷生活から解放され、神に立ち返ったにもかかわらず、将来に不安を覚えたり思い通りにならなかったりすると、エジプトで神とされていた子牛を神として頼ってみたり…。新しい地を目指しているのにエジプトのほうを向いてしまう人間の弱さが描かれています。
その弱さの結果は、暴飲暴食を行った挙句の姦淫でした。
モーセがいない間のイスラエルの民たちの様子を見て神の怒りが燃え上がります。
そこで、モーセはイスラエルの民たちの罪の赦しのために神にとりなします。そのモーセのとりなしの結果、神はイスラエルの民たちの罪をお赦しになります。

礼拝を守り、神様にお祈りしていても、完全に神様の御心を信じずに、こうなって、ああなって、こういう風に実現するんじゃないかという風に勝手に自分のシナリオ通りに問題が解決すること、目標が実現することの方を信じて祈っていることが私はよくあります。祈りが聞かれた時は私が描いていたシナリオとは全く異なる方法であったことに驚かされたことが何度もあります。今回のメッセージから神様に委ねきれない自分自身の罪深さを教えられました。
そして、そんな風に弱さや罪深さを抱えながらのクリスチャンとしての信仰生活の中にも神様は私に愛を持って接してくださること、そして、そのような信仰生活の歩みの背後に、神様と私の間のとりなし手として祈って下さっている教会の牧師先生夫妻、兄弟姉妹、今までの信仰生活で友達になった兄弟姉妹の存在に改めて感謝しました。私もクリスチャンとしてとりなし手として誰かの重荷を担う祈り手となりたいと思いました。
                                    (NAOMI)

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