気づけばこの世の仕組みに染まってしまい、神の国の正義と公正を理解するのに時間がかかる私ですが、まずは「隣人を自分自身のように愛する」ことから始めます。困っている人がいたら手を差し伸べることができるものでありたいです。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今年も11月に入りました。毎年11月は教団の宣教月間となっています。先週の祈祷会は世界宣教局Zoom祈祷会でした。インマヌエル綜合伝道団から最初の宣教師を海外に派遣してから60年ということで、記念の時がもたれました。
宣教は教会のアイデンティティです(19番の説教)。教会は神の宣教のために集められた群れです。その存在自体が、神である主がおられることを証し、福音を宣べ伝えています。ある時、イエス様はこう言われました。《わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)》互いに愛し合うという、一見、教会内の徳のためであるような事柄が、すべての人に見つけられ、私たちがイエス様の弟子であると分かって、人々はイエス様を知るのです。またパウロはアナニアに、《その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。(使徒22:16)》と言われました。個人的な罪の赦しが、人々の目に見える洗礼によってなされるのです。神の宣教の計画が込められています。私たちが神である主に赦され、信仰生活を歩んでいくことは、裏を返せば、宝の民として宣教に用いられているということです。それは表裏一体で引き剥がすことはできません。聖書を読みながら、教会とは何かを突き詰めていくと宣教にたどり着きます。宣教とは何かを突き詰めていくと教会にたどり着きます。
主イエス様は言われました。《あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:14-16)》今日のこの礼拝の時も、私たちは山の上にある町なのです。主がともしてくださった光を人々の前で輝かせましょう。
聖書をお開きください。出エジプト記22:21-24(139ページ)【聖書朗読】
町。それは愛を土台とするのではなく、力と経済を土台として形成された社会です。最近、巷で、ひとりで亡くなる方の話をよく聞くようになりました。その中でも気になることは、身元がわかっていて親族とも連絡が取れるのに、誰も遺体を引き取とらない事例が、近年急増しているというニュースです。私たちが生きる世界は「愛のある関係」に最大の価値を置いていないと実感します。愛されるのは好きだけれども、敵を愛そうとはしない。結局、どんなにお金があっても名誉があっても人間関係が壊れていくのです。
根本的に問題を抱えている「町」に住む人々は、ある意味で諦めの気持ちを持っているのではないでしょうか。この世界はこういうものだと諦めている感じがします。いつの時代にも代わる代わる流行歌が生まれますけれども、「大丈夫。何とかなる。気にしないでいこう。」こういう歌は、いつの年代にも流行っています。根本的な問題に目を向けない。いや、目を向けてもどうしようもないという思い。そのように匙を投げています。ところが、このような状況で、驚くことに、神である主はこの世界を見捨てておられないというのです。《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17)》これは驚くべき神の情熱です。
神から離れ、戸口で待ち伏せている罪を治めることができず、殺人(人間関係の最も強い断裂)を犯したカインによって、初めて作られるようになった町です。町には仕組みの中に悪が存在しています。富が奪われて、経済格差が生まれるという仕組みです。主がお造りになった世界は、人が神の恵みによって生きるところでした。頑張りや立場に比例して報酬をもらう世界ではありません。もちろん恵みを受け取ろうとしない怠け者には与えられない(箴6:9-11)と言われていますが、頑張った分、あるいは役職が上になるにつれて多くしようというのは神の恵みの世界ではありません。イエス様が農園の例え話(マタイ20:1-16)で説明された通りです。ところが、私たちの価値観にはペンキのシミのように、頑張った人がより多く、上に立つ人がもっと多く富をもらうべきだという考えが染み付いています。「町」の仕組みにそれが組み込まれているからです。町では、豊かにあふれるほどすべての人に分け隔てなく恵みを与えてくださる神様は無視されています。そこにいるのは、賃金をなるべく安く済ませようとする雇い人と、少ない賃金のうち自分の取り分を他の人より多くしようとする労働者たちです。
私たちは日々、色々なことを考えていますが、知らず知らずのうちに、「町」という皿の上で物事を考えています。人と人が互いに愛し合うためにはどうあるべきかと考えないで、頑張った人が正当な報酬をルール通り得るにはどうあるべきかと考えたりします。ルール通り富を受け取ることが平等なんだと考えていたりするかもしれません。だからイエス様の例え話を聞いても理解できず、不公平ではないかなどと考えてしまいます。神の国の正義と公正を理解できないのです。「町」という皿を取りのけて、いったいどのように考えるべきなのでしょうか。神の国の義に従って考えるべきです。イエス様は、神の国の義を分かりやすく簡潔に教えて下さいました。「神である主を愛し、あなたの隣人を自分自身のように愛すること」です。愛することが義であることを、イエス様は教えてくださいました。
私たちの考えを「町」という皿に乗せてしまうと、優先事項が変わってしまいます。自分の必要を満たすこと、自分の安全を確保することが優先事項になってしまいます。もし困っている人がいたら、政府であったり別の人たちが彼らの福祉を担うべきと考えます。しかし、神の国には全く違う様子があります。私たちの優先事項は互いに愛し合い、人を助けることです。詩篇72:4に、神の国で期待される王の役割が記されています。《王が民の苦しむ者たちを弁護し 貧しい者の子らを救い 虐げる者どもを打ち砕きますように。(詩72:4)》王の役割は、率先して福祉を担うことではなく、人々に互いの重荷を負い合うことを教え、それが実行されない時に、苦しめられている人たちを弁護して救い、虐げる者たちを裁くことです。
現代でも貧しい人たちは苦しめられることがあります。この世界では、自分の必要を満たし、自分の安全を確保することが優先事項にされています。すると彼らは「自分で富を確保できなかった」と評価され、見下されることになるのです。しかし、神である主は、彼らが苦しめられているのは、周りの人が重荷を負い合わなかったからだとおっしゃいます。「互いに恵みを分かち合わなかった。土地を奪った。利子を付けて貸した。誰が彼らを虐げたのか」と。
新約時代の教会でも、同じことが教えられています。私たちがよく聖餐式の時に耳にしているIコリント11章にこのような教えが記されています。《しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。(Iコリ11:20-22)》《ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。(Iコリ11:33-34)》貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせるのは、教会を軽んじることだと厳しく指導されています。コリント教会の当事者が読めば、誰が非難されているか明白だったでしょう。
またヤコブの手紙にはこう書いてあります。《あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。あなたがたを虐げるのは富んでいる人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名を汚すのも、彼らではありませんか。もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。(ヤコブ2:2-8)》
どうして経済状況で人を分けるのか。お金持ちにも優しい人がいるし、貧しい人にも邪悪な人がいるだろうと。よく聞く意見です。しかし、主が示しておられるのは、お金持ちを悪い人、貧しい人を良い人と思えということではありません。主を恐れることを忘れて、神の豊かな富を分け合おうとしない、互いに重荷を負い合おうとしない、結果として経済格差を生み出していく、そのような世のあり方を私たちの土台にしてはならないということです。安息日にしもべたちを働かせてはならない。困窮する人に貸す時、利子を取ってはならない。負債をかかえてしもべとなった者を奴隷のように扱ってはならない。それらのことをして、貧しい人たちを苦しめるなら、神である主が力を持って裁かれます。「貧しい人が不利になるのは自己責任だろう」と平然と言う世界において、主の力は何と大きな救いでしょうか。ここに神様の愛と正義があります。
イエス様は目を上げて、弟子たちを見つめながら話されました。《貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。(ルカ6:20)》
お祈りします《もしも、あなたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。》
天の父なる神様。あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に与えてください。
あなたは私たちを暴虐の町から救い出し、あなたの牧場に入れてくださいました。あなたが定められた義が、この世界では曲がってしまっていることに気が付かないで生きてきたのです。優先事項を全く取り違えていました。今なお、世に寄留する旅人である私たちをあわれんで守ってください。
あなたは言われました。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。その者は、太陽が昇る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らす光のようだ。』どうか私たちが「神を愛し、隣人を自分自身のように愛すること」をまず第一に求めるように、導いてください。貧しい人を利用してはならず、助けるべきこと、互いに重荷を負い合うことを教えてください。力ある主は、貧しい者を守ってくださいます。
聖霊なる主よ。私たちに教えてください。あなたのみこころを行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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