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2025.10.26 インマヌエル綜合伝道団 創立記念礼拝 「パリサイ派シモンに語る」

 







今日はパリサイ派のシモンの家の出来事の話しでした。なぜ女性はイエス様の足を涙で濡らして髪の毛でぬぐったのか、当時の食事スタイルや背景を知ることで聖書の教えをより深く学ぶことができました。私はたくさんの罪を赦されたのに、すぐに忘れてしまう恩知らずな者ですが、進む道に主は共におられるのかを常に考えて行動していきたいです。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。本日はイムマヌエル綜合伝道団の創立記念礼拝です。昭和20年(1945年)10月21日に信仰による出発がなされました。毎年、私たちは10月21日の前後の聖日に教団創立を記念して礼拝をしています。

今日配布しました、50年誌の切り抜きには、その10月21日に「見える形においては何の動きがあったわけでもない」と記されています。普通、創立記念日と言えば、法人登記を申請した日とか、組織が合併して発足した日とか、建物が完成して式典を行った日を記念して定めるものです。しかし、イムマヌエル綜合伝道団は、神である主が明確にGOサインを出してくださった日、「全能の主に一切を委ね、共にいますインマヌエルの神を信じ」きることができた日を創立記念日と定めているのです。

私たちは10月に入って、そろそろ来年の計画を考え始めています。人々が集まり、話し合えば、色々なアイディアが浮かんでくるものです。そのような時に私たちの関心事はどのようなことでしょうか。私たちの主がどちらの方に進もうとしておられるのだろうか、私たちが進んでいこうとしている道に主は共におられるのだろうか。そのようなことが一番の関心事であるべきでしょう。

教団の創設に関わった先生たちは、精力的に飛び回りながらも、主の御業の証を一つ一つ丁寧に心に留め、主がどのように動いておられるかを祈りながら観察していました。そして何度も夜を明かすまで祈っていたのです。私たちが受け継ぐべきは、この信仰です。モーセは主に言いました。《もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。(出33:15)》私たちも今日、同じようにインマヌエルの主を仰ぎたいと思います。

聖書をお開きください。ルカの福音書7:36-50(125ページ)【聖書朗読】

今日はパリサイ人シモンの家での出来事です。(このシモンはペテロとは別の人です。) 食事に招待されたということですが、これは単なる食事会ではありません。当時のユダヤ人の特に家を持っているような有力者は、ラビ(聖書の教師)を自宅に招いて、公開対談を行うことがありました。ラビが聖書から色々なことを教えてくれて、家の主人が質問したりするのです。それを見に来る人たちもいて、「その町の罪深い女」がその場にいたのも不思議ではなかったわけです。40節《するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。》これは、食事が落ち着いて、いよいよラビの教えが始まるのだと人々に思わせたでしょう。パリサイ派のシモンは、今日の対話は一般的な宗教の教えであって、自分と個人的に関わる話ではないと考えていました。普通、ラビを食事に招くとは、そういうことだったからです。

しかし、この日、イエス様が招かれた時、実は普通ではないことが起こっていました。それは、女性が香油を塗ったことよりも前の時点です。シモンは家の主人であり、イエス様は今日の公開対談のゲストでした。通常はゲストが主人に歓迎されるものです。当時のユダヤ人の風習では、ゲストが足を洗う水を用意し、挨拶の口づけをし、ゲストの頭につけるオリーブ油を準備しました。ゲストの接待として、これは通常のことであったのです。日本では自宅に客を招く習慣がほとんど無くなりつつありますが、いざ客を招くとなれば、部屋を片付け、掃除をし、スリッパやトイレのタオルなどの準備、部屋の明るさや温度を調整します。お客が到着したら、「いらっしゃい」と挨拶し、コートを預かってハンガーにかけ、良い席に案内して、おしぼり、お茶とお菓子を出し、楽しいひとときを過ごします。お帰りの際には「お越しいただきありがとうございました」と感謝し、相手が見えなくなるまで見送ります。最近の人たちは、もうこのようなことを知らないかもしれませんけれど、ゲストを迎える時に一般的に期待される接待があります。ところが、パリサイ人シモンは丁寧にイエス様をお迎えしませんでした。

パリサイ派の人たちとイエス様は色々な場所で議論を交わしていました。特にイエス様は彼らを公に非難しておられました。ですから、シモンの心にはナザレのイエスと対決して、ギャフンと言わせてやろうという思いがあったのでしょう。シモンの家にはパリサイ派の仲間たちも何人もいたはずです。

イエス様がシモンの家に招待されて、まず食事が振る舞われました。彼らはテーブルに座るのではなくて、寝椅子に横たわって食事をしました。足は外側に投げ出されていました。周りは、今日の公開対談を聞こうと思って集まってきた人たちがいます。そこに1人の女性が近付いてきました。彼女は「罪深い女」と呼ばれていました。「罪深い」とはどういうことでしょうか。実はこの当時、ユダヤ人たちの間には「罪人」と呼ばれている人たちがいました。取税人や、売春婦、異邦人たちです。彼らはモーセの律法に従わず、ローマ帝国に仕えたり、安息日を守らなかったり、割礼を受けていなかったりしていたので、「罪人」とレッテルを貼られていたのです。福音書を読むと、「取税人と罪人たち」という組み合わせが何箇所も出てきます。律法の聖なる掟を破る者たち、またその取り巻きたちという差別的な見方です。シモンは「罪深い女」がナザレのイエスの足をさわっているのを見て、奴にはお似合いだと思っていたのです。なんでこんな奴が人々の人気を得て、「先生、先生」と呼ばれているのか。全く不愉快で、神への冒涜だと考えたのでした。

そこでイエス様は口火を切られました。《「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」》シモンはいよいよラビの教えが始まったぞと思い、質問に答えました。しかし、イエス様の質問に出てきた二人の人は、実はあの香油を塗った女性とシモンのことだったのです。「シモン、あなたは私を歓迎しなかったが、この女性は歓迎してくれました。あなたは愛さなかったが、彼女は愛しました。」

イエス様の質問をよく読み返してみると、分かることがあります。二人の人は、二人とも金を借りていて、二人とも借金を帳消しにしてもらったということです。これが、あの女性とシモンを指していたのですから、罪深い女が罪を赦していただいたように、実はシモンも罪を赦してもらっていたということです。シモン自身は、神に対する負い目を赦してもらったとは全く思っていなかったでしょう。「あの女は確かに罪深いけれど、私自身は罪なんか無いよ」と思っていたに違いありません。しかし、イエス様はシモンに対して暗にこうおっしゃっていたのです。「あなたもまた、この女性と同じように、神に対して返すことができないほどの負い目を持っていて、それを帳消しにしてもらったのです。」

主イエス様と出会う。それには2通りの出会い方があります。罪深いと人々から言われていた女性のように、自分自身も深く罪を自覚し、泣きながら主に近付いて、自分の持っている一番価値あるもので主に感謝し、主を愛そうとする出会い方があります。一方で、「キリストの教えというものを聞いてみようか」と、キリストを家に招く出会い方があります。家の主人は私、そこにキリストに来てもらって、ひとつ教えというものを聞かせてもらおうというわけです。今日、多くの人たちがシモンのようにしてキリストと出会っています。キリストの教えを聞けるものと思っていて、まさかイエス様が自分の個人的なことについて何かを言ってくるとは思っていないのです。シモンはイエス様をゲストとして招きましたが、親しく歓迎することはありませんでした。何なら、恥をかかせて、お灸を据えようとすら考えていたかもしれないのです。

どのようにしてイエス・キリストと出会うでしょうか。聖書は「すべての人は罪を犯した」と言っています(ローマ3:23)。詩篇14篇にはこう書いてあるのです。《愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて 忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。【主】は天から人の子らを見下ろされた。悟る者 神を求める者がいるかどうかと。すべての者が離れて行き だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(詩14:1-3)》しかし、多くの人たちが、世の中には「罪人と呼ばれるに相応しいあのような人たち」と、「罪人ではない私たち」がいると考えているのです。心の中で「神はいない」と言ったことがない人はいるでしょうか。誰しも、神を求めないで歩んだことがあるのではないでしょうか。神から離れて、自分が神のようになって、すべてを自分で判断し、自分の目に良いと思えることを追求してきたのではないでしょうか。神である主はこれを恩知らずと言われます(申32:15、ホセ13:6)。

ところが、驚くべきことに、神である主は《恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深い(ルカ6:35)》のです。天地をお造りになられたお方は《ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださ(マタイ5:45)》っています。主はご自分の敵を愛しておられるのです。

シモンはパリサイ派でしたが、その後、パリサイ人たちはイエス様を憎むようになりました。「何と生意気なやつ。罪人たちと一緒に食事をして、律法を守っている私たちを有罪だと言い、あの罪人たちよりも私たちを後にしている。絶対に許せない!」こうして計画を立て、イエス様が十字架にかかって死刑にされるようにしたのです。ところが、あの十字架はいったい誰のためだったのでしょうか。イエス・キリストはすべての人のために死なれました。すなわち、シモンの罪を身代わりに背負って、彼が負うべきであった罰を受けられたのです。使徒パウロはこのように言っています。(パウロは元パリサイ派でした。)《実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6-8)》

罪が赦されるために必要ななだめは、イエス様が十字架によって、すでに完了しました。あとただ一つ必要なのは、神の愛を信仰によって受け取ることだけです。「私は神に対して罪を犯しました。しかし、御子イエス様が私の罪のために十字架にかかって、私を贖ってくださいました。私はイエス・キリストを信じ、悔い改めて、恩知らずではなく、主を愛する者になります。」このように告白し、神の愛によって新しい人生を歩みだすことです。

お祈りします《そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。》

天の父なる神様。情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるお方。私たちの主よ。

私たちはみな、あなたの前に罪を犯しました。天地を造られ、人をご自分のかたちに造って、ご自分の息を吹き込まれたあなたを「いない」ように振る舞い、無視して生きてきました。木や石、それに金銀を被せたものを神であるかのように思い、あなたの御顔とは別のところを向いて、祈りました。私たちは実に恩知らずだったのです。しかし、あなたは私たちがまだ罪人であったときに、私たちのために死んでくださいました。あなたが私たち一人ひとりをそれほどまで愛しておられたとは、思いもしませんでした。

主よ。あなたが私たちの罪のために死んでくださり、死に打ち勝って勝利してくださったことを信じます。もはや罪の奴隷として人生を歩むことは終わりました。イエス様、あなたが私たちの人生の主です。聖霊に満たして、あなたの弟子としての新しい人生を歩ませてください。あなたが迎えに来てくださる日まで、あなたの道を歩み続けます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。






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