おはようございます。2025年の召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。王寺教会では毎年一度、教会員であった、また教会に関わりのあった召天者を偲んで、召天者記念礼拝をもっています。私たちは地上で、召された方々は天で、一緒に主への讃美を歌っています。
私たちはこの一年間で1名の姉を天に送りました。召天者記念礼拝でおぼえています方々が50名となりました。これらの方々は存在が消えてしまったのではありません。聖書の表現で言いますと、みなさん眠っておられるのです。眠っているということは、また起きるということです。
人間の身体が造られることはとても不思議なことです。我が家には子どもたちがいますが、ほんの10年前には、生まれておらず姿も形もなかったのです。両手で持てるほどの大きさで生まれてきて、どんどん成長してきました。いつもくっついてきて、抱っこしてほしいだの何だのでしたが、一番上の子はもう肩車も抱っこもできないほどに大きくなりました。親としての単純な感想ですが、とても不思議です。
私たちの地上の身体は、神である主が土からお造りになったと聖書は教えています。現代人は、科学的な方法によって身体が成長していく仕組みをいくらか調べることはできますが、身体を造ることはできません。他の材料を使って、身体を模倣したロボットなどを作ることはできますが、いのちの息を吹き込むことはできません。主は身体に息を吹き込んで人とされました。そうすることがおできになるお方は、やがて地上の身体を失った方々に、新しい復活のからだを与えてくださいます。
私たちにとって、告別式(葬儀)は地上の別れを悲しむ時ですが、召天者記念礼拝・墓前礼拝は離れたところにいる私たちが共に主を喜ぶ時であり、また再会を楽しみに待つ時です。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書20:11-18(237ページ)【聖書朗読】
今日は主イエス様が十字架で死んで、墓に葬られ、三日目によみがえられた、その朝の箇所を開かせていただきました。主イエス様の復活は、信仰者の復活と関係があります。聖書にはこのように書かれています。《キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。(Iコリ15:20-23)》初穂とは、畑に実っている作物の一番最初に収穫される束のことです。広大な畑に最初に収穫される束があるなら、同じように収穫できる百倍、千倍の束が後に続くということです。イエス様がよみがえられたように、イエス様の後を続いて、クリスチャンたちも復活します。
イエス様がよみがえられた時、どんな出来事があったのでしょうか。イエス様がよみがえられた日、主の復活を期待していた人はいませんでした。イエス様の弟子たちやマリアたちも含めて、誰一人として、まさかよみがえるなんて、これっぽっちも思っていなかったのです。イエス・キリストは十字架というローマ帝国の死刑によって殺されました。イエス様が完全に死なれたことは、念入りに確かめられました。普段はそんなことはしていないのに、兵士は槍で急所を突き刺して、人々の前で死を確認しました。アリマタヤのヨセフやニコデモが、イエス様の遺体を引き取って、没薬を塗り、香料と一緒に亜麻布で巻いて、墓に納めました。まだ息があったのなら、その時点で分かるはずです。イエス様を憎んでいた人たちも、イエス様を慕っていた人たちも、みんなイエス様が確実に死んでおられることを見たのでした。
マグダラのマリアは、イエス様を慕っていた人のひとりでした。ほんの数日前まで、イエス様と会話し、食事をし、祭りを楽しんでいたのです。イエス様が突然亡くなったことに絶望し、深い悲しみの底にいました。朝早く、まだ暗いうちに、マリアはイエス様の墓にやってきました。イエス様の遺体のそばに行きたかったのです。亡くなったイエス様のお顔を見たいと思ったかもしれません。もちろん、遺体は亜麻布で巻かれていますし、墓は大きな岩で塞がれていますので、顔は見れませんし、遺体のそばにも寄ることはできません。墓の岩の前まで行けるだけです。それでも、マリアはイエス様が生きておられた証を求めて、墓にやってきたのでした。
私たちもそのような時期を過ごすことがあります。別れるという経験はいずれも心を痛めますが、身近な人との死別ほど心痛めることはないでしょう。生きた証を探す。アルバムを開いたり、日記を読んでみたり、故人が愛用していたものを眺めてみたり。最近ではホームビデオを観るとか、携帯のメールを見返すとか、あるいはブログというのもあります。あの人が生きていた時に、あんな場所に一緒に行ったなとか、こんなものが好きだったよねとか、こういう字を書く人だったなとか。まるでまだ生きているかのように思い出すのです。また、「あの人を知っている人に会いに行く」ということもあるでしょう。私が知らない一面を知っている人。あの人の家族、友人、近所の人たち。そういった人たちに会うと、確かにあの人は生きていたんだなと思えます。私はそんな様子を見たことがなかったけど、という話を聞けたりするものです。また「あの人の弟子に会いに行く」「後輩に会いに行く」ということもあるかもしれません。後世に遺していった影響を知ることができます。「あの人が建設に関わったダムを訪れる」「あの人のレシピで料理を作ってみる」そんなこともあるでしょう。あの人の影響が、まだここに生きていると感じられます。こうして召天者記念礼拝に出席するということも、ひとつになるでしょう。「こういう礼拝に、あの人は毎週通っていたんだな」と来てみると分かりますね。
さて、墓にやってきて、イエス様の遺体のそばにいたいと思ったマリアでした。ところが墓では事件が起こっていました。墓は空っぽで、亜麻布だけが残っていて、遺体がなくなっていたのです。マリアは言いました。《「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(13節)》マリアはイエス様がもう死んでいると分かっていました。そこにあるのは遺体だと分かっていました。でも、愛する主が生きておられた証を探して、墓を訪れたのです。彼女は「誰かが取っていった。どこに置いてあるのか」と言いました。生きている人間に対してはこのように言いません。動くことのない、いのちのないものに対して、取るとか置くと言います。「イエス様が亡くなったのは分かっている、でもせめて、イエス様のたましいが入っていた亡骸、それまでも私から奪わないで」と泣いて叫んだのです。
ところが驚くべきことが起こりました。いえ、驚くべきことが起こっていました。マリアはそれに気が付いていなかったのです。主イエス様は、死に勝利して、よみがえられ、マリアのすぐ後ろに立っておられました。「マリア」「ラボニ」_ 絶望と混乱が、この瞬間に、喜びに変わりました。想像もしていませんでした。まさか生きているイエス様が目の前にいるなんて。なんということでしょう! マリアは喜び勇んで、弟子たちのところに行き、言いました。「私は主を見ました。」
それから40日後に、イエス様は天に昇っていかれ、弟子たちは2度目の別れを経験したのですが、その時には絶望はありませんでした。また会えると分かっていたからです。再会の希望があったからです。
キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。ですから、イエス様に従った人々もまたキリストと同じようによみがえります。聖書にはこのように書いてあります。《聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(Iコリ15:51-55)》
死とは、誰も避けることができない人間の運命です。遅いか早いかの違いだけです。もう2度と会えない。これほど私たちを苦しめることはないでしょう。しかし、死は勝利に呑み込まれるのです。いえ、「死は勝利に呑み込まれた」と書いてあります。あの時、マリアは気が付いていませんでしたが、驚くべきことはすでに起こっていたのです。主によって召された方々は消えてしまったのではありません。主イエス様が帰ってこられる日に、人々はよみがえり、私たちは再会するのです。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」ここに再会の希望があります。
どうぞみなさんも再会の希望を知って、キリストに属する者になっていただきたいと願っています。
お祈りします《イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。》
天の父なる神様。あなたこそまさしく神。世々限りなくわれらの神。あなたは死を越えて私たちを導かれます。
アダムとエバが罪を犯し、神のようになりたいと思って、あなたを裏切ってから、人はみな死ぬようになりました。罪の報酬は死です。この死は、私たちの間に絶望的な別れをもちこみ、悲しみの底に突き落とすものでした。しかし、あなたは人を見捨てておかれませんでした。神である主イエス様ご自身が、死を身代わりに受けてくださり、死に勝利して、よみがえられたのです。それはあなたに属する私たちもまた、イエス様と同じように復活するためでした。死は勝利に呑み込まれました。ハレルヤ。あなたの御名が全世界で喜ばれますように。私たちもまた再会の希望を知って、あなたを喜んでいます。
主よ、地上の旅を続けている私たちを導いてください。あなたは死を越えて私たちを導いてくださるお方です。どこまでもあなたの道を歩みます。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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