2023.11.26主日礼拝「人生で待ち望んできたこと」ルカの福音書2:21-38

寒さが厳しくなったここ数日、夜の教会のクリスマスツリーは一段と美しいです。

今朝は新約聖書から二人の預言者にスポットライトを当てたお話です。しかし、オンラインがトラブルで前半で中断、そのため録画は説教部分以降からとなり、申し訳なく思っています。(リベカ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。先週は宣教聖日礼拝をもちましたが、宣教月間である11月も最後の週となりました。来週からはいよいよ待降節となり、クリスマスを待ち望む時が始まります。クリスマスにキリスト・イエスは世に来てくださいましたが、そのことは数百年前から預言者たちによって予告されていました。イザヤ9:6には《ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。》と書かれています。聖書は神である主から送られた手紙です。「今度、あなたのところに行きますね」という手紙が送られてきていたのです。その手紙のとおりにイエス様は世に来てくださいました。
 みなさんも大切なお客様をお迎えすることがあるでしょう。例えば、家族でお客さんをお迎えする時。先方から連絡が来ていました。「◯月◯日の◯時にお邪魔します」と手紙でも来ていたとしたら、自分だけ読んで終わりではなくて、家族にも知らせておきますね。この手紙に目を通しておいてよと言うでしょう。大切なお客様を迎えるので、家族みんながそのことを知っておかなければ、後で、何で教えといてくれなかったのと言われるかもしれませんね。
 いま、私たちの周りには聖書を読んだことがない人がたくさんいます。どんなことが書かれているか、だいたいのことですら、聞いたことがない人たちがいます。私たちは、イエス様がもう一度来られることを知らせておかなければなりません。
 宣教月間が終わり、待降節が始まりますが、「はい、宣教は終わりで次」ではなく、宣教は待降節に入っても、いえ、むしろ待降節だからこそ続いていくことをおぼえましょう。
 聖書をお開きください。ルカの福音書2:21-38(111ページ)【聖書朗読】
 
 あなたの人生の夢は何ですか(何でしたか)。私の幼い頃の夢のひとつは、F1のレーサーになることでした。こどもの頃はかっこいいなと思っていました。車も運転したことがなかったし、親が運転する車に乗って、自分が運転できたらどうなるだろうか想像していたのを覚えています。みなさんはどんな夢をもっておられるでしょうか。あれから30年近く経って、結局F1レーサーになれませんでしたけれども、なれたとしても今ではやってみたいとは思いません。レーサーが何をする人なのか分かってきたからです。彼らは一周1分半ほどのコースを何度も何度も繰り返して回り続け、少しでもタイムを削るために、あと何cm壁に近づけるかなんてやっているわけです。他にもタイヤの温度はどうだとか、風の向きだとか、色々と考えながら、暑さや体の痛みに耐えつつ、コンマ何秒を競い合っています。それは相当大変なことです。結局、レーサーになるよりも、ピザとコカ・コーラを用意してレースを観戦するのが一番良いと気が付きました。
 さて、今日のお話でイエス様と出会ったのはシメオンとアンナという人たちです。この二人には共通した「人生の夢」がありました。彼らの夢は、キリストであるイエス様と出会うことでした。
 キリストが来ると聖書に書いてありましたが、例えば、イザヤはイエス様の誕生より700年ほど前の預言者です。ですから、私たちの感覚からすると、「鎌倉時代の言い伝えがあります」みたいな感覚ですね。あなたの人生の夢は何ですかと聞かれて、こう答える人がいたらどうでしょう。「鎌倉時代の言い伝えで、あの人が来ると言われているんです。私の夢はその人に会うことです!」結構やばいですね。
 今日のクリスマスは、教会はもちろん、クリスチャンでない家や、ショッピングモールなどでも、きらびやかに飾られて、クリスマスシーズンが来たと誰もが分かるようになっています。しかし、世界で始めのクリスマスは、どこを見渡しても、何一つ特別なことが見つからないような様子でした。ほとんどの人はキリストが来ることを待っていませんでした。キリストが来ることを知らなかったからでしょうか。知らなかった人もいるでしょう。でも、知っていた人たち(律法学者や祭司たち)も、キリストを待っていませんでした。ヨハネの福音書には、このように書かれています。《すべての人を照らすそのまことの光(イエス様)が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。(ヨハネ1:9-11)》
 幼子イエス様と両親がエルサレム神殿に来るまでに、いくつかの出来事がありました。天使の軍勢を見て、その言葉の通りにイエス様を見つけた羊飼いたち。東方でキリストの星を見て、ついにイエス様を見つけた異邦人の博士たち。その博士たちから話を聞いたヘロデ王や祭司長、律法学者たち。ヘロデ王によってベツレヘム周辺で幼児の虐殺が起こり、その事件を見聞きした人たち。これほどの人たちがいて、事件が起こっているのに、人々の間に「キリストが来た」という喜びが沸き起こることはありませんでした。彼らがキリストを待っていなかったからです。
 イエス様は天におられる時から、ほとんどの人々が待っていないことをご存知でした。それでも、やがて十字架にかかることもご存知でありながら、世に来てくださいました。イエス様の両親は神殿の捧げ物のために山鳩と家鳩をささげようとしていました。このささげものは、本当は羊をささげるように律法に書いてありました。でも、律法には《もしその人に羊を買う余裕がなければ、…山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を【主】のところに持って行く。(レビ5:7)》とも書いてありました。ですから、羊を買う余裕のない平凡な家庭に、イエス様は来てくださったのです。マリヤもヨセフもその時はまだ知りませんでした。彼らはささげもののための羊をもっていませんでしたが、完全な傷のない羊がそばにいることを、まだ知らなかったのです。
 そして、幼子イエス様はシメオンとアンナに会うために来てくださいました。シメオンとアンナがイエスを見つけたのですが、実はイエス様が彼らのところに来てくださったというのが聖書が語っていることです。なぜイエス様は王様や祭司長たちのところには来られず、シメオンとアンナのところに来てくださったのでしょうか。それは彼らの夢を叶えるためでした。キリストと会いたいという夢を叶えるために。イエス様が来られることを待ち望んでいた人たちのところに、イエス様は来てくださいました。シメオンはどんな人物だったのか、知る手がかりは残されていません。《この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。(25節)》とだけ書いてあります。アンナは結婚した後、7年間夫と共に暮らしましたが、夫と死別し、84歳になっていました。随分長い間、やもめであったことが分かります。彼女は預言者として、神の約束と希望のことばを民に思い出させる働きをしていました。いつもエルサレム神殿にいたと書いてあります。しかし、人々が神を忘れ、興味を失っている時代です。そんな時代に預言者の言葉に耳を傾ける人はいたでしょうか。「若くしてご主人を亡くし、心の病気になってしまったのだろう」と人々は思っていたかもしれません。しかし、主を待ち望んでいる名もなき平凡な人、社会から外れてしまった人、忘れ去られている人、そのような人々に聖霊は働き、イエス様と出会えるように導いてくださいました。
 私たちは、神の働きは巷でインフルエンサーと呼ばれるような、名誉や富や力のある人たちの声を通して伝えられていくと思いがちですが、実際は世で影響力がないと言われている人々の曲がりくねった道を通っていきます。
 シメオンはイエス様とついに出会った時、《主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。(29節)》と語りました。彼はこの時、死の準備が整ったのです。イエス様に出会うことは、安らかに死ぬ準備が整うということです。みなさんによく思い巡らせていただきたいことがあります。「安らかに死ぬ準備が整った人は、その後の人生を自由に、有意義に生きることができる」ということです。町の書店に行きますと、「死ぬ前にしたいこと100」という本がおいてあります。100もあったら、いつまで経っても死ねないだろうなと思ったりします。でもイエス様と出会った人は、人生の夢が叶って、安らかに去る準備が整うのです。もう何も悔いはないし、心配することもありません。これからは何をしても自由。すべてが恵みです。あなたもイエス様と会いたいと思いませんか。主を待ち望む人に、主は来てくださいます。
 それでもイエス様を待ち望むのは難しいと思われる方はおられるでしょうか。イエス様を待ち望むには、へりくだる心が必要です。でも、多くの人は心の中にどうしても失うことができないと考えている何かをもっています。それを手放さなければ、神の前にへりくだることはできません。イエス様が来られた当時、人々はキリストは来ないと言っていました。何百年も音沙汰無しで、キリストが処女から赤ん坊として生まれるなんて、今の人は信じないよと。神殿で、キリストを待ち望んでいた女預言者を見た人たちは、どんな目で彼女を見ていたでしょうか。同じように現代でも、イエスは帰ってこないと人々は言っています。二千年経っても帰ってこないじゃないかと言っています。こんな時代に、あなたが人々に「私はキリスト・イエスを待っている」と言ったらどんな反応が返ってくるでしょうか。その時、あなたは肩書や、名誉、栄光を失うかもしれません。イエス様と出会うこと、イエス様をもっと知ることよりも、守りたい大切なことはありますか。聖書はそれを偶像と呼んでいます。
 イエス様は確かに約束の通りに来てくださいました。主は約束を守られた実績があるのです。鎌倉時代の言い伝えを信じていると言うのは、やばいかもしれませんが、実績があるものを信じるのはおかしいことでしょうか。イエス様は「わたしを信じる人に聖霊を遣わす」「わたしはまた帰ってくる」と約束して天に昇られました。イエス様は復活のからだで天に昇っていかれたのと同じ有り様で、再び、この地に帰ってきてくださいます。また、それを待っている間でも(すなわち今この瞬間でも)、イエス様は聖霊を遣わしてくださるので、私たちは目に見えなくてもイエス様と出会うことができるのです。主イエスを信じるなら、聖霊によって、イエス様はあなたのところに来てくださいます。
 
お祈りします《主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。》
 
 天の父なる神様。義をもって私たちを召し、手を握り、見守り、民の契約として、国々の光としてくださった主よ。あなたは闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出してくださるお方です。
 あなたが私たちを召してくださったことを考えています。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし、あなたは私たちを先に選ばれました。この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者をあなたは選ばれたのです。シメオンとアンナのように、あなたと出会うことを待ち望んだ時、あなたは私たちひとりひとりのところに来てくださいました。
 主よ。私たちがいつまでも切り出された岩を忘れることがありませんように。あなたを待ち望むへりくだった心を与えてください。私たちの心に光を当て、何があなたとの出会いを妨げているのか知ることができるようにしてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages