2023.11.12 主日礼拝「この山で主を礼拝する」出エジプト記3:7-12


急に寒くなりました。教会ではクリスマスツリーが輝いています。
ぜひ足を運んでみてください!

(まさまさ)


礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。11月の宣教月間が続いています。世界宣教局の働き、派遣宣教師の働き、宣教師の家族、国内教会の宣教などをおぼえて、祈りに加わってくださりありがとうございます。宣教祈祷カレンダーをどうぞ続けて用いて、お祈りください。
 毎月第3水曜日は宣教祈祷会をもっています。今月から「TCKのための30日祈りのガイドブック」を用いることにいたしました。TCK(Third Culture Kids)とは、両親の生まれた国の文化と現在生活している国の文化の狭間で、そのどちらの文化にも属することなく、独自の生活文化を創造していく子どもたちのことをいいます。宣教師の子どもたちはTCKです。彼らの実体験をもとに、30の祈りをまとめたブックレットとなります。
 宣教師の家族のためにお祈りくださいと言われても、実際にはなかなか何を祈って良いのか検討がつかないことがあると思います。周りの人が理解できない世界で、多くの困難に遭う子どもたちですが、彼らが守られて真っ直ぐに成長していけば、そのような経験が他の人には見つけられない大切なことを発見する力となります。家族が守られているかどうかは、宣教の働きの土台です。土台は目に見えないところにありますが、非常に大切です。土台がしっかりしていなければ、上にどんなきれいな建物をたてても、崩れてしまいます。宣教師の家族のために祈りましょう。
 聖書をお開きください。出エジプト記3:7-12(102ページ)【聖書朗読】
 
 「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」というテーマで共に聖書を読んでいます。今日は「主を礼拝する」ことについてお話します。「主を礼拝する」ことは特に大切なことですので、何回かにわけてお話したいと思います。
 私たちと主との関係で、礼拝は中心的なものです。私たちはともすると、イエス様が来てくださって友となってくださったので、まるで主と自分が平等の関係にあると思ってしまうことがあり得ます。さらには、イエス様が仕えるために来てくださったので、まるで神である主が自分の下僕であるかのように考えることさえ、あり得るのです。しかし、イエス様の言葉はすべて旧約聖書を前提にしています。旧約聖書からの流れの中で、イエス様の教えがあったのですから、基本を抑えてから、イエス様のことばを聞かないと誤解してしまうのです。
 現代の教会の“礼拝”を見てみると、どうでしょうか。人々の関心はどこにありますか。今日の礼拝は私にとってどれだけ良いものだっただろうか。私はどれだけ礼拝を楽しめただろうか。私はどれだけ神の臨在の感覚に浸ることができただろうか。私はどれだけ励ましを受けただろうか。「私は…、私は…、私は…。」
 人と主の関係は、人が主を礼拝するという関係です。旧約聖書において、礼拝と同じ意味で使われる言葉が、「ひれ伏す」と「仕える」です。主を認めること、主を賛美すること、それが礼拝です。詩篇100篇はこのように歌っています。《全地よ 【主】に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって【主】に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。【主】こそ神。主が 私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ。主に感謝し 御名をほめたたえよ。【主】はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。》関心の的はどこにありますか。主が真ん中におられます。主が上におられます。今日の礼拝式は主にとってどれだけ良いものだっただろうか。主が歌ってほしいと願われる歌をもって、心から賛美し、主に喜んでいただけただろうか。主は私たち一人ひとりから心地よさを感じてくださっただろうか。私たちの関心がこうなった時、“礼拝”は礼拝になります。
 旧約聖書で示されていた礼拝の基本を振り返ってみましょう。今日は出エジプトを思い出してみたいと思います。
 私たちクリスチャンは、主に救われました。出エジプトの出来事は、主イエス様の十字架の贖いを指し示す雛形でした。出エジプトを記念して祝う祭りが過ぎ越しの祭ですが、イエス様は過ぎ越しの祭のときに十字架にかかって死に、よみがえられました。すなわち、私たちは主イエスを信じた時に、古代イスラエル人がファラオから解放されたように、悪から救い出されたのです。
 出エジプトに先立って、主は民の中からモーセを選び、遣わされました。モーセはホレブ山(シナイ山)の燃える柴の茂みの中から「モーセ、モーセ」と呼びかけられた神と出会いました。主はモーセに直接語りかけ、モーセの使命をお告げになりました。それが先程朗読した箇所です。
 出エジプトはなぜ行われたのでしょうか。イスラエル民族がエジプトで奴隷になり、苦しめられていたからです。もともとヨセフの時代に遡れば、ヤコブの家族は招き入れられ、住む土地を正式に与えられたのでした。ところがいつの間にか、権利は忘れ去られ、重い労役を課されるようになりました。極めつけは、人口が増えないように、生まれてくる男の子が殺されるようになったのです。エジプトの王ファラオに仕えることは苦しみでした。それで主はご自分の民を救うためにモーセを遣わされたのです。
 主が言われた言葉の最後の部分をもう一度読んでみましょう。12節《神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」》出エジプトの救いとは、ファラオに仕えていた人々が、主に仕えるようになるという意味でした。ファラオの下から、神の下に支配が変わるということです。ファラオから解放されて、自由だ、良かった、めでたしめでたし、ではないのでしょうか。それは「おめでたい考え」です。あまりにも楽観的で現実的ではありません。少数派の人々はいつも狙われているからです。現代の日本も世界的に見れば、どの大国の傘に入るか、考えていなければならない小さな国ですね。エジプトから脱出できたら、安全になるわけではないのです。イエス様も同じことを話されたことがありました。《汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。(マタイ12:43-45)》悪から解放されたなら、その後も守られることがセットになってはじめて、本当の救いと言えます。ですから、私たちが主に救われたということは、主を礼拝するようになった(主に仕えるようになった)ということなのです。私たちが主を礼拝しなくなれば、救いは台無しになり、別の何かに捉えられて奴隷に逆戻りしていくことになります。
 さて、主は「この山で」とおっしゃいました。当時の一般的な人々の生活様式を見てみますと、彼らは「神がどこに住んでいるのか」ということに非常に興味があったようです。例えば、古代ギリシャ人はオリンポス山というギリシャで最も高い山の上に神々の住まいがあると考えていました。日本でもそうですね。富士山は日本一高い山であり、火山でもありますので、神の住む山と言われていたそうです。そのような世界観の中で、主は「わたしはシナイ山でイスラエルと会う」とおっしゃったのです。「他のどの神でもない、わたしはわたしであって、あなたたちはシナイ山でわたしと会う」と言われました。それは主が指定した場所でした。《この山で神に仕えなければならない。》と言われたように、礼拝は、主が指定された場所でささげられるものです。民は主が指定された場所に集まって、礼拝するのです。
 ところが、エジプトから脱出した民は金の子牛事件(出32)を起こします。民はシナイ山のふもとに宿営し、主の臨在が火の中に降りてこられるのを見ました。モーセが山に登り、神がおられる黒雲の中に入っていきました。しかし、待てど暮らせどモーセは降りてきません。そうしているうちに、人々は、何か、礼拝したくなってきちゃったんですよ。(???…。)それで神様作ってやれと思って、エジプトから私たちを救ってくださった神様を金で作ったんです。主は目の前の山の上におられるのに!?主が指定された場所ではなく、しかも主に向かってではなく、自分たちで金の子牛を作って、「これがヤハウェや」と言って、いけにえをささげ、礼拝し始めました。それは神に受け入れられる礼拝ではありません。主の怒りが民にくだりました。(その時、その“礼拝”もどきに加担しなかった人たちがレビ族です。後に彼らは主に仕える祭司に選ばれました。出32:26)
 礼拝は、主が指定された場所で、主が指定された方法で、主が指定された日に行うものです。シナイ山で民と会われた主は、次に幕屋で民と会うと言われました。その次はカナンにある主が選ばれた場所です(申17:10など)。次は神殿でした。でも、エルサレム神殿あたりは、ちょっと危ういですね。ダビデが選んだ場所でしたが、ソロモンの祈り(I列8:22-53)に答えて、主は神殿を聖別されました(I列9:3)。主のあわれみによる譲歩がありました。危うさは、その後、どんどん進行し、ついに限界点を超えてしまいました。古代イスラエル人はどうして約束の地から追放されてしまったのでしょうか。主が要求された方法で、主と関わることができなかったからです。
 私たちと主との関係を今一度、吟味してみましょう。主を礼拝していますか。「この山で主を礼拝」していますか。これが礼拝の基本です。勘の良い方は、すでにイエス様のあのことばを思い巡らしておられると思います。《この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。(ヨハネ4:21)》(詳しくは次回以降にお話します。)でも、礼拝の基本は変わっていませんね。「主が指定された〇〇」それは、シナイ山、幕屋、神殿と順に指定されてきました。そしてイエス様が新しい神殿を指定されたのです。私たちは主イエス様が指定されたところで、主を礼拝します。新しい神の宮とは、主イエスのみ名によって2人でも3人でも集まるところ(マタイ18:20)、キリストのからだ、イエス様の弟子たちの群れ(Iコリン6:16)、教会です。
 教会は共同体のことであり、物理的な場所ではありませんので、主が指定された場所で礼拝をしているかどうかは、人間が外側から判断することができません。それはあなたと主との関係の中でハッキリしていることです。時々、牧師はみなさんからこういうことを聞きます。「次聖日はあちらで礼拝式に出ます。」「この日はYouTubeで参加します。」私は「分かりました。お知らせありがとうございます」と言います。そのように連絡をいただけると助かります。いらっしゃらないと、交通事故じゃないかなとか、急病で倒れてないかなとか心配になるからです。でも、これは良し悪しを判定しているわけではないのです。また、会堂に来て礼拝式に出ていても、その心がどうなっているかは分かりません。みなさんのその時の状況は私には一部しか分かりませんし、全部分かる必要はないと思っています。牧師はそもそも判定するためにいるのではないからです。御言葉に示されている場所、方法の中で、その時に主が示してくださる導きに従って礼拝していれば良いのです。主が良しとしてくだされば、牧師に証明する必要はありません。(連絡だけしてもらえたら別の意味で助かります。)
 そういうわけで、それぞれで自分の心を探り、また聖書をよく調べて、吟味してみましょうと申し上げました。「私は…、私は…、私は…。」それでは礼拝ではありません。金の子牛事件の再来です。主があなたと会うと決められた場所で、主に向かって、御霊と真理によって礼拝する、まことの礼拝者とならせていただきましょう。
お祈りします《あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。》
 
 天の父なる神様。ホレブの山でモーセを召し、シナイの山で民にお会いになられたお方。私たちの主よ。
 今日私たちは主イエス様のみ名によって集まってまいりました。このように、あなたを仰ぎ、み前にひれ伏すところを備えてくださり、ありがとうございます。最後の晩餐の、聖餐の席は弟子が用意したのではありません。あの家の二階の大広間には、すでに席が整えられていました(ルカ22:12)。今朝も、あなたは私たち一人ひとりのために、礼拝の場所を指定し、整えていてくださいました。私たちの礼拝は、あなたが喜ばれるものでなければ意味がありません。あなたに受け入れられる礼拝でなければ、ここに一時間座っていたとしても、何になるでしょうか。
 罪人を招いて悔い改めさせるために来てくださったイエス様。私たちは医者を必要としています。あなたの約束を思い出してください。聖霊を私たちに遣わし、まことの礼拝者と変え続けてください。
 あなたを喜び、あなたを礼拝することは私たちの力です。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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