2023.11.05 主日礼拝「主を信頼する」詩篇37篇

今月は宣教月間!

宣教地の先生方のために祈りましょう

(あかつきさん)


礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。11月に入りました。毎年11月は宣教月間となっています。今年も世界宣教局から祈りのカレンダーが発行されています。毎日ひとつづつ祈祷課題が割り振られていますので、ともに祈っていきたいと思います。
 教会の存在は神の宣教であることをもう一度思い出しましょう。どうして私たちは宣教するのでしょうか。それは、私たちが主に選ばれたからです。イザヤ42:6《わたし、【主】は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。》この預言はまずメシアであるイエス様に成就しましたが、イエス様はなんと弟子たちにも《「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)》とおっしゃいました。弟子たちはイエス様の働きをするために選ばれ、国々の光とされたのです。
 そして、宣教の働きは神の権威の現れでした。国々の光として選ばれたから、弟子たちは頑張ったのではありません。弟子たちがイエス様に従ったときに、神の業が起こったのです。神の業の現れが神の宣教です。宣教ってどうやったら良いんですか。教会はどうやったら建て上がるのですか。_ 毎週語られる御言葉に従うことです。日曜日に聞いて、3日後には忘れているような生活ではなく、今週の御言葉を(できるなら先週、先々週の御言葉も)毎朝毎晩思い出し、主の招きに従うことです。とてもシンプルなことです。でも逆に言えば、それしかありません。すると神の業が教会に現れます。キリストの香りが一面に広がります。
 最後に、イエス様がそうされたように、「神の国」を宣べ伝えるのです。入り口の話ばかりではなく、「神の国はこのようなところです」というメッセージです。キリストを信仰して洗礼を受けましょうとだけ話しているなら、不十分です。それでは宗教の布教にすぎません。私たちは宗教を勧めているのではなく、イエス・キリストを証ししているのです。「イエス様と共に歩む人生はこういうものだよ。主がおられるところは、このようなところだよ。」と示し、伝えることができれば、人々は自分から神の国の素晴らしさを見出し、求めて、やってくるとイエス様は言われました(マタイ13:44)。
 宣教月間に神の宣教が進められるように祈り、主の招きに応答していきましょう。
 さて、聖書をお開きください。詩篇37篇(968ページ)【聖書朗読】
 
 しばらく間が空いてしまいましたが、「神である主とどのような関係をもって、人生を歩んでいくのか」というテーマで話をしています。9月に2回「主に従う」「主を恐れる」とお話いたしました。今日は「主を信頼する」というメッセージをいたします。今日の説教も、詩篇37篇から分かることをお話するのではなく、聖書全体を通して教えられていることを説き明かします。聖書によって教えられている「主を信頼する」ことが、この詩篇37篇で美しく歌われているということです。
 それでは、まず、神の民であった古代イスラエル人たちを思い出してみましょう。彼らは主を信頼しませんでした。信頼しました!とお話できたら軽やかな気持ちになれるのですが、残念ながら反面教師として歴史に名を残しています。ホセア書を読むと、神の民、古代イスラエル人は、浮気を繰り返す不誠実な人物に重ね合わされています。神の民の夫として描かれる主は、いつも誠実で、真実の愛をもって関わってくださいますが、人はそうではありませんでした。あれだけ偉大な出エジプトの救いを経験したにも関わらず、カナンに入った後に、出エジプトの神ヤハウェとならべて、豊穣の神バアルを拝んだのです。
 彼らにとって、「主ヤハウェは救出の神」という感覚が強かったようです。しかし、出エジプトは完了し、約束の相続地が与えられ、農作物を収穫して生きていく新しい日常が始まりました。ホセアは次のように比喩的に語りました。《彼女(イスラエル)は言ったものだ。『私の愛人たち(バアル)の後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』と。…しかし彼女(イスラエル)は知らない。このわたし(主ヤハウェ)が、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。(ホセア2:5,8)》神の民は主が収穫を与えてくださっているのに、そうではないと考え、すなわち目に見えない主を信頼せずに、収穫に関して、目に見えるバアル像に依り頼んだのです。
 さて、古代イスラエル人の話をしました。でも、これは単なる昔話でしょうか。私たちの生き方はどうでしょうか。サンデークリスチャンと揶揄される、日曜日と平日の信仰がかけ離れている状態はなぜ起こるのでしょうか。主は大変な時には救ってくださると信じているけれども、大変ではない普通の日は信頼するのが不安だと思うからではないでしょうか。信仰と目の前の風景に差がある時は、どうしますか。人間の予想の範囲で、直ぐに動かせるお金とか、人間の権力とか、策略とか、あるいは目の前の風景をごまかせるアルコールとか、そういった物の方が信頼できるような気がしてくるのではないでしょうか。自分でコントロールできないことを受け入れるのは(特に日常においては)簡単なことではありません。とりあえず、「神様に信頼しています」とお題目を掲げておいて、実質は主を信頼していないということが、現代でも起こっているのではないでしょうか。主ヤハウェの神殿にバアル像が置かれていることがあるのではないでしょうか。
 私たちが生きるために必要なものを思い出してください。それらの源流を辿れば、必ず、この世界に生じるものに行き着きます。すべては神が造られたものです。種から植物を芽吹かせることはできますか?芽吹くように種を土に植え、水をかけることはできます。しかし芽吹かせるのは神の業です。どれだけお世話しても、神である主がこの種は芽吹かないとおっしゃれば、どうにもなりません。私たちの未来は主によるのですから、主に信頼して生きていく道が最善です。37節《全き人に目を留め直ぐな人を見よ。平和の人には未来がある。》
 私たちが時に主を信頼し損ねてしまう理由の一つは、今、歩いている道に不安をおぼえるからです。主は私たちに約束を与え、目的地を教えてくださいます。しかし、ほとんどの場合、どのような道を通って目的地に着くのかは分かりません。あのヤコブは主が共にいてくださることを知り、やがてカナンに帰ってくる約束をいただきましたが、どのような道を通るかは知りませんでした。主は「わたしに付いてきなさい」とおっしゃいます、「ここはどこですか」と聞いても、「わたしたちはあそこに着く」と言われます。私たちは「この道をいけば、あそこに着けそうだな」という自分の考えを信頼するのではなく、主を信頼しなければならないのです。34節《【主】を待ち望め。主の道を守れ。主はあなたを高く上げ地を受け継がせてくださる。》
 そういうわけですから、主を信頼する人は、主を忘れません。いつも主を心に留めています。主を見失えば、瞬く間に迷子になります。イスラエルは主を忘れたと聖書に書いてあります。もし私たちが、日曜日にしか主を思い出さないのに、「主は生きておられる」と賛美するなら、それは嘘です。主を否定し、主を裏切っています(エレミヤ5章:広場は日常の場)。思い当たる節があるなら、悔い改めましょう。《主は情け深く、あわれみ深い。怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる(ヨエル2:13)》のですから。
 私たちはいつも主を心に留め、切り出された岩を思い出すべきです。神の民はアブラハムとサラから生まれました。100歳の老人と、閉経後の90歳の妻から生まれたイサクの子孫です。そもそも神の不思議によって始まった事実があるのですから、神が私を養い守ることが不可能なように見えたとしても、神に不可能なことはないのです。ダビデはこう詠っています。《民よどんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(詩篇62:8)》
 では、アブラハムとサラは主を信頼する模範だったかといえば、実はそうでもありませんでした。アブラハムは「子どもが生まれ、子孫が星の数のように多くなる」と、主に約束されていました。それで、その約束のために自分たちで何かをすべきだと考えたのです。サライは女奴隷のハガルを連れてきて、アブラムに妻として与えました。アブラムもその提案を受け入れ、ハガルによってイシュマエルを生みました。こうしてイシュマエルによって、神の約束が実現したことにしようとしたのです。しかし、彼らは主が約束を成し遂げてくださるまで、待つべきでした。主を信頼するとは、主に期待し、主が成し遂げてくださることを待ち望むことです。
 主が聖書を通して約束しておられることに関して、時々(いえ、多くの場面で)、私たちは主を信頼して、待つことができていません。なぜだと思いますか? あまりにも遅すぎると思っているからです。みなさん、締切という言葉がありますね。「宿題は◯日までに提出しなさい。◯曜日が締切ですよ」という締切です。英語で締切をDeadlineと言います。Deadは「死んだ」Lineは「線」という意味です。文字通り取れば「死の線」です。(宿題の締切で死んだりはしませんが。) Deadlineを超えてしまったら、もう駄目だということです。ところが、神である主がなさることは、度々、死の線を過ぎてしまうのです。私たちは主を待ちます。締切がくるまで待っています。でも、締切が過ぎそうになると待てないのです。「だって、それより遅くなったら、もう駄目になっちゃうから」_ サウル王はサムエルを待てませんでした(第1サムエル13)。いやサウルは待っていたのです。サムエルが来るはずの日まで待っていました。でも、サウルが考えた締切までにサムエルが現れなかったので、それ以上は待ちませんでした。「これ以上待っていたら敵が攻めてくる。これ以上待っていたら兵士が怯えて逃げてしまう。これ以上は駄目だ。」締切を超えても、主を待ち望むのが主を信頼するということです。神の業は、キリスト・イエスにおいて成就しました。あのイエス様を思い出してください。神の業は締切を過ぎましたよね。死の線を超えてしまいました。エマオの途上の二人はこう言っていました。《私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。(ルカ24:21)》でも、イエス様は死んでしまわれた。彼らにとっての締切を、Deadlineを超えてしまいました。ところが、神に不可能なことはありません。主イエス様は復活され、彼らの目の前に立っておられたのです。神の働きは復活の業です。「もうどうしようもないでしょう。もう終わったでしょう。」いいえ、終わっていません。主は成し遂げられるお方です。主の目にDeadlineはありません。5節《あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。》
 主の働きは復活の業ですから、主を信頼する人は慌てることがありません。落ち着いて、静かにして、主に従います。みなさん、“虫の知らせ”を聞くことはありますか。「何となくよくないことが起こりそうな予感がする。」「このままだとマズイぞ」「いま手を打たなければ問題が起こりそうな気がする」というやつです。聖書には慌てる人が出てきますね。イエス様がエルサレムで殺されると話されたとき、ペテロは慌てました(マタイ16:22)。使徒パウロがエルサレムで逮捕されると知ったアガボは慌てました(使徒21:11)。しかし、パウロもイエス様も、慌てず落ち着いていました。ペテロやアガボは彼らを引き止めることで、助けになると思ったのです。「これは虫の知らせならぬ聖霊の知らせだ。すぐに引き止めなければ!」ところが、慌てて助けようとした行為は褒められるどころか、神の業を止めようとしていると言われてしまいました。3節《【主】に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。》善が報いを与えるのではありません。主が報いてくださるのです。私たちの主は、復活の主です。手遅れになることは決してありません。ですから私たちは、主を信頼します。
お祈りします《怒ることをやめ 憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行う者は断ち切られ 【主】を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。》
 
 天の父なる神様。待ち望む者を恥じさせることがない真実なお方。私たちの主よ。
 私たちが伝えている《福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:2)》あなたの御業は復活でした。今もなお、あなたの働きは不可能を可能にする復活の業です。しかし、私たちはあなたを信頼しているでしょうか。復活を人々に伝えながら、私たちはあなたの復活の業を日々経験しているのでしょうか。それとも慌てて、あなたの業を止めてしまっているのでしょうか。経験していないものをどうやって伝えることができるでしょうか。主よ。あなたを信頼することを教えてください。
 私たちは、時に、アブラムとサライのように、イシュマエルを生んでしまいます。約束の子イサクを待つことができず、心の中で笑っています。主よ。私たちをあわれんで、私たちを赦し、傲慢を打ち砕いてください。私たちは、ただあなただけを信頼します。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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