おはようございます。今日はナザレ会のみなさんの讃美と証をいただきました。主が良くしてくださったことのゆえに、主の御名をあがめます。
この一年間、ナザレ会のみなさんの人生にも様々なことが起こりました。一人の姉妹は天に帰ってゆかれました。また家族の入院、がんの手術、転職、また家族内の試練など、経験されました。私の伺っていないところでも色々と通ってこられたでしょう。主の愛を受けて、私たちの計り知れない御心のうちに、試練を通して練られ、純化され、成長を与えられている方々だと思います。《私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(IIコリ4:17)》と聖書は言っています。「いやいや、軽い試練じゃなかったですよ」と言いたいところですが、これはみなさんが経験していることが軽いと言いたいのではなく、後で振り返ると「あの重かったものが軽い」と思えるほどに、永遠の栄光は素晴らしいということです。
こうして人生の酸いも甘いも一通り経験されたみなさんにとって、今こそ聖書の御言葉を一から読み直し見るのに良い時期だと思います。実際、人生の経験をする前と後では、御言葉の深みを知ることにおいて、すいぶんと違うと先人たちは教えてくれているからです。特に、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌といった知恵文学の書物をじっくりと読んでみてください。「あの経験をする前にこの御言葉をよく理解していたら良かったのに」と思う部分が見つかるだろうと思います。若い人たちに教えておきたいと思うかもしれません。しかし、いつの世も、経験者は若者に教えたがるのですが、若者は教えられたがらないということです。経験してきたからこそ、神である主のことばにしっかり向き合い、まっすぐ受け取ることができます。これもこの世代の特権ではないでしょうか。
聖書をお開きください。マタイの福音書19:16-26(39ページ)【聖書朗読】
今日の箇所は、教会学校のお話では「富める青年」とタイトルがつくでしょう。ルカの福音書では指導者(ルカ18:18)と言われていますので、青年でありながら指導者の立場になっていた成功した人物だったのでしょう。ナザレ会のみなさんにあわせた御言葉ということで導かれた箇所ですが、青年といわれる人物に自分の姿を映すことはあわないかもしれません。しかし、先程も申し上げましたように、青年時代には理解できなかった(受け入れられなかった)言葉が、今になってみると、分かるようになっているということがあると思います。この青年は悲しみながら立ち去ったのですが、その後の人生の様々な経験を通して、イエス様のことばを何度も思い返し、後になって分かったかもしれません。いま、この出来事を見ながら、何を学ぶでしょうか。
この富める青年は、旧約聖書を良く学んでいたようです。旧約聖書の箴言には、知恵の格言が数多く記されています。知恵に従うなら、成功と平安を得る。愚かさと悪を行うなら破滅と恥を刈り取ると教えています。この知恵の原理は、世界が造られた当初から神様によって世界に織り込まれていました(箴言8)。現代の多くの人々は単に物理の原理があるだけと考えていますが、しかし、人の心には物理原則からは分からないことが沢山あります。太古の昔から人の行動とその結末を観察してきた人々は、この世界には知恵の原理が織り込まれていることを発見し、代々語り伝えてきたのです。そのような箴言で、非常に大切なことばが記されています。箴言30章です。《マサの人ヤケの子アグルのことば。イティエルに告げ、イティエルとウカルに告げたことば。まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も持っていない。だれが天に上り、また降りて来たのか。だれが風を両手のひらに集めたのか。だれが水を衣のうちに包んだのか。だれが地のすべての限界を堅く定めたのか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。(箴言30:1-4)》箴言29章まで知恵の格言が語られてきて、それらを聞き終わったところで、アグルは「私は知恵がない」と言ったのです。これは一般的には「無知の知」と呼ばれています。哲学者ソクラテスが使った言葉です。現代の博士たちも同じように言っています。1を知れば10の分かっていない部分があると見つかる。10を知れば100の分かっていない部分があるとさらに発見する、と。
私たちはこの数年間、旧約聖書をよく読み、神の国の義を具体的に学んでいます。多くの知恵を聖書から学んでいます。主がお造りになった世界には、このような原則があったのだと、目からウロコのように知ることがいくつもあるでしょう。また自分の人生を振り返って、確かに神の知恵の原理があったことを頷けるのではないでしょうか。しかし、知れば知るほど、こんなにも分かっていないことが多いのかと圧倒されます。そして一度聞いたことを、どんどん忘れていってしまいます。
あの富める青年には、知らないという自覚がまだないのです。イエス様は彼に守るべき戒めを教えなさいました。彼は「それらすべてを少年のことから守ってきた」と言いました。しかし、彼の心の中までも見通しておられるイエス様が、ちゃんと守れている戒めを持ち出して、これを守れとおっしゃるでしょうか。彼自身は守れていると思い込んでいるのですが、戒めの意図を全く外していることに気がついていなかったのです。まさに青年という感じですね。実は分かっていないのに、分かっていると思い込んでいるなら、それは悲惨なことです。分かっていると思い込んでいれば、正しく知る機会は残されていないからです。
「聖書も一通り読んでみたことがあるし、説教も同じ話の繰り返しに聞こえるようになってきたし、教会学校の教師もやったことがあるし、まぁ流石にもう、大体は…。」イエス様が同じ話をもう一度語られるなら、そこには意味があると思いませんか。まだ分かっていないことに気が付いてよと言っておられるかもしれません。色々な試練を通して、今こそ、分かるようになったのかもしれません。
もう一つ、今度は伝道者の書が教えている大切なことがあります。箴言で教えられている原則は「知恵に従うなら、成功と平安を得る。愚かさと悪を行うなら破滅と恥を刈り取る」というものです。この状態を「まっすぐ」と言います。ところがこの世界は、堕落して以来、曲がっているのです。正しいのに破滅と恥を得たり、愚かな悪者が成功を得たりすることがあるということです。幼い子どもたちが遊んでいる「仲間を点でつなごう」というプリントがあります。二手に別れているグループから、食べ物と食べ物、道具と道具と同じ仲間を線で結びます。これが正しくつながっているのが「まっすぐ」という状態、違う種類同士がつながってしまったのが「まがった」状態です。この世界はいま壊れてしまっているので、ある時にはまっすぐつながっても、ある時にはまがって、本来あるべきでない結果につながります。これがこの世界の実情なのです。富める青年は、これに気が付いていないようです。戒めを守ったのに永遠のいのちが見つからないと思っているようでした。
彼は富をもっていました。聖書には、神の祝福が人を富ませる(箴言10:22)と書いてあります。確かに勤勉に土地を耕し、主を恐れる人は、祝福され富を得るのです。まっすぐな世界ではそうです。ところが、いくら突き詰めてみても、永遠のいのちを得るには至りませんでした。それで彼は悩んでいたのでしょう。「金持ちが天の御国に入るのは難しい」とは、箴言にある神の知恵をまっすぐに捉えようとすると、理解できないことです。金持ちになれたのは、その人が主を恐れて正しく歩んできたからではないのでしょうか。現代においてもお金持ちは同じように考える傾向があります。ところがこの世界は曲がっています。その事実に気が付けない人は、イエス様のみ元にひれ伏すことが難しく、神の国に入るのは難しいのです。
伝道者の書が教えている大切なことは、「この世界は曲がっているので、成功は風を追うようなものだ」ということです。どうやって風に追いつけるでしょうか。追いついたと思った瞬間に、思いがけない方向に風は過ぎ去ってしまいます。
富める青年とのやり取りの後、弟子のペテロがイエス様に尋ねました。《「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」》イエス様は答えられました。《まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、…》この世界はやがて終わります。曲がった世界を主は閉じて、新しい世界をお造りになります。曲がったものがまっすぐになる日がやってこようとしています。イエス様はやがて新しい世界でまっすぐに与えられる成功を求めよとおっしゃっています。この世において成功を追い求めることは、風を追うようなものです。そのような儚いことにエネルギーも時間もお金も費やすべきではありません。
みなさんも「私の人生は成功しているか失敗しているか」と思い悩む時がありませんか。隣の芝生が青く見えて、やっぱりあの時、別の判断をしたら良かったとか、ああしていたら今頃こうだったに違いないとか、正しく歩んだはずなのに成功しなかったとか。でも、もしそうだとしたら、自分の人生は成功して満足だったと思っている人より幸いです。イエス様の山上の説教を思い出してください。人生の成功は、この世においては儚いものであり、追い求める価値のないものです。ところがそれでも人々は、生きている間の成功を追い求めて、時に聖書を読む時ですら、成功の秘訣を探しています。
イエス様は言われました。《あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:39-40)》結局のところ、曲がったものをまっすぐにできるのは、主イエス様だけです。成功の秘訣を探すために聖書を読むのではなく、主と出会い、コミュニケーションを取るために、聖書を読みましょう。(占いのように聖書を切り刻んで読んではいけません。友だちからの手紙を一部だけ読む人はいませんし、一部をスクラップして、その部分ばっかり読み返す人もいないでしょう。手紙の最初から最後まで、何度も読んで、何を書いて伝えようとしているか読み取ろうとするでしょう。聖書もそうすべきです。)
さて、人生を一通り自分なりに歩んでみて、どうでしょうか。一度はイエス様の前から悲しみながら立ち去った過去があったかもしれません。しかし、今になって考えてみれば、結局、主イエス様を通してでなければ、まっすぐの世界に入ることはできないと分かるのではないでしょうか。《「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(26節)》
主イエス様は、もう一度、語りかけておられます。《わたしに従って来なさい(21節)》と。
お祈りします《イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」》
天の父なる神様。私たちが知り得ない、不思議なことを、すべて知っておられるお方。地の基の大きさを定め、その上に測り縄を張り、要の石を据え、海の境を定め、朝に対して命令をくだされたお方。私たちの主よ。
知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くする私たちをあわれんでください。あなたの無限の知恵の一部を、聖書を通して教えていただきましたが、全知全能の神であるあなたがご存知であることのうち、わずかのことにすぎません。さらにこの世界は罪ののろいによって曲がっていて、正しい人も悪者も、富める者も貧しい者も、すべての人が等しく死に向かっています。いったい、誰が救われることができるでしょうか。
しかし、それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。イエス様。完全に正しいお方が、罪人がかかる十字架にかけられました。曲がった世界に、あなたは来てくださいました。そして曲がった世界の死を打ち破ってくださったのです。救いはあなたにしかありません。
どうかもう一度、私たちに語ってください。知っているようなふりやめて、主よ、あなたを深く知りたいと願います。しもべは聞いています。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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