礼拝説教 中尾敬一
おはようございます。今年も後半に入りました。兄弟姉妹とともに主を礼拝することから、下半期を始められる恵みを感謝します。
私たちは様々な背景から、それぞれに主イエス様と出会い、罪の赦しをいただいて、ひとつの群れとされました。私たちには神との隔たりがあっただけでなく、他の人との隔たりをもって生きてきました。しかし、主イエス様は十字架によって和解をもたらしてくださり、隔ての壁である敵意を打ち壊してくださいました。主イエス様を信じ、従う人たちに、神である主との敵意はありせん。あらゆる困難の中にあっても、私たちは神との平和を与えられているのです。また、人と人、民族と民族、国と国の間にある隔ての壁も打ち壊されました。主イエス様を信じるものは誰でも、ユダヤ民族か異邦人かを問わず、永遠のいのちを与えられ、神の恵みによって生きる神の国に入れられたのです。
数十年前、人々はインターネットの登場によって、色んな国の人たちが近くなり、盛んに交流を持てるようになることで、相互理解が進み、世界が平和になっていると夢見ていました。しかし、良いことも進みましたが、悪はそれ以上に進みました。奪い取ってでも自分の利益を最大化しようとする人が、さらに情報を得やすく、また活動しやすくなりました。そうして人々の間に恐れが生じ、仲間同士で壁を作って、敵を防ごうとしています。まるで「私を守ってくれるのは仲間であって、神は私を守ってくれない」と人々が言っているように見えます。
しかし、イエス様は敵意あるところに来てくださり、仲間であるはずの人たちに殺され、ところが死に勝利してよみがえられました。ここに愛があります。インターネットは解決ではありませんでした。イエス・キリストが本当の解決です。
聖書をお開きください。創世記4:8-17(6ページ)【聖書朗読】
「他の人とどのような関係をもって人生を歩むのか」というテーマで、夫婦関係、家族関係、隣人関係、主人としもべの関係を学んできました。今日からは町(都市)について、聖書から主のみ心を学びたいと思います。
これから町、国、王国の順番で、聖書に書かれている人と人の関係を見ていきます、このあたりから、私たちは自分の日々の生活で会う人々との人間関係という話から離れていくような気がすると思います。しかし、町や国で起こっていることは実は私たちの日々の人間関係の基盤なのです。例えば、職場でこの人とはうまく関係がいかないなという時、一緒に仕事をするのでなければ、上手く行けそうなのにと思うことがあります。この町では、このように行動しなければならないという大きな流れがある中で、一つ一つの人間関係があり、その影響を受けているわけです。
さて、これまで他の人との関係について、旧約聖書の色々な箇所を読んできました。それはほとんど旧約聖書の前半の方です。そしてそこに書かれている事柄は、(例えば父の家の贖いの仕組みなど、)村の生活によく当てはまることでした。家の土地があり、その土地で農業をして生活をする村です。家の前にある土地の農業を思い浮かべれば、家族が共に仕事をすることも想像できます。しかし、農地から離れた町の生活になると、家族が共に仕事をすることは珍しくなってくるでしょう。
聖書は、家族が共に仕事をしていた村から、次第に人々が町に集まっていった様子を記録しています。しかし、それは主に喜ばれる経緯ではなかったと教えています。
今日の箇所は、アダムの家族が破綻した出来事です。カインはアベルに激しく怒りました。それを治めることをしないで、ついにアベルを殺してしまったのです。カインはのろわれてしまいました。彼はのろわれているために、大地が彼のために作物を生じさせなくなりました。ということは、彼と一緒に農業はできないということです。神である主が彼を大地の面から追い出されたので、彼は父の家を出ていかざるを得ず、地上をさまよい歩くさすらい人となりました。この後17節で、カインは町を建てています。ですから、さすらい人とは浮浪者(ホームレス)という意味ではなく、土地に畑を作って、その土地から収穫を得て、その土地に家を建てて生活することができなくなったという意味でしょう。
彼はどの村に行っても、いわゆる疫病神です。彼が来たら作物が生じなくなるのですから。カインは人を恐れるようになります。《私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。(14節)》と言いました。古代中東の村と町には、産業の違いの他に、町には壁があって敵から守られているという違いがあります。人を恐れるようになり、カインは壁のある町を建てました。
創世記11章にはバベルの塔が出てきます。この時も、人々の目的は町を建てることでした。《「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」(創11:4)》と言いました。この言葉にも「恐れ」があります。町には敵を止める城壁と敵を早期発見する見張り台が造られたのです。
町は人が神である主の祝福を失ってしまった結果、人の手によって建てられていきました。聖書のあるところには、「〇〇の町とそれに属する村々」と記述されていて(ネヘ11:25)、村々が町の支配の下で共存していたことがわかります。村は村だけでつつましく生活することができました。しかし町は村の収穫物がなければ生活できません。ここに敵が襲ってくるかもしれないという恐れが起こったことによって、町は村の人々に避難場所を提供できるようになりました。暴力ののろいがなければ、町は村に対して偉そうにできません。食べ物なしに生きられる人はひとりもいないのです。しかし、何が起こったでしょうか。町が村々を支配していくようになりました。現代でも1次産業、2次産業…という言い方があります。いつもそうではないにしろ、高度な産業に属する人が、自分の足もとを支えてくれている人たちを見下していることがあります。町や都市、そして国が造られていく最初の種のようなところに、神の祝福を失い、のろわれてしまった人間の罪が埋め込まれています。
町で人々は、村で収穫されたものを利用して富を得るようになりました。多くの人が収穫したものを、少数の人が取り扱って富を得ます。善い方法で経済を豊かにすることもできましたが、悪い方法で富を得る機会も生み出しました。聖書が悪い方法というのは、世間で言われている犯罪だけではありません。利子を付けて貸し付けたり、他の人を奴隷として自分の利益のために働かせたりするなど、愛の関係を築こうとしないで、自分の利益のために行動することです。人々は、法律に引っかからない限り、それを悪いこととは思っていません。自分中心に行動することは、法律で黒でない限り、グレーは堂々とやらなければOKと考えています。「良いものを安く買えたらいい」と人々は考えますが、売る側になった場合には「なるべく高く売れたらいい」と考えます。エゴとエゴがぶつかり、人間関係に影響を与えています。
そのような世界に、主は介入してくださいました。エジプトの奴隷から救い出された民に、主はこう言われました。《あなたの神、【主】は、…あなたが建てたのではない、大きくてすばらしい町々、あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。(申6:10-12)》また、イスラエルの南北をついに統一させエルサレムを都として国を治めたダビデ王に、こう言われました。《【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る(IIサム7:11)》主が強調して語られたのは、「あなたがたが建てるのではない」「わたしがあなたのために建てる」ということです。それまで聖書は、町は神を離れた人が建ててきたと伝えてきました。しかし、ここで主は、人の悪を忍耐しつつも、主が建ててくださる町、主が建ててくださる国に、ご自分の民を導き入れて住まわせてくださると約束してくださったのです。
《【主】はシオンを選びそれをご自分の住まいとして望まれ(詩132:13)》ました。シオンとは、エルサレムの都がある丘の名前です。村々ではなく、都を選んで、ご自分の住まいとされました。そしてこう言われました。《これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し その貧しい者をパンで満ち足らせる。》都に住むことを望まれるとは、どのような心が、そこにあるのでしょうか。愛である主にとって、都は心地よく住めるところではありません。やがてこの都は主イエス様に敵対し、その丘の上で、神である主を十字架にかけました。イエス様は嘆かれました。《エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカ23:37)》しかし、それにもかかわらず、主は忍耐をもって都を選ばれました。のろいを祝福に変えようとされる主の御心が表されています。
町や国の生活に関する主のことばは、知恵文学や預言書で多く語られています。旧約聖書の後半部分です。主が建ててくださる町々に住まうことを、民は拒み、律法に従って愛の関係を人々と築こうとせず、結局、カナン人と同じように自分たちの手で町を建てていったのです。そうして悪が増大し、ついに主は預言者を通して、民にのろいの結果を指摘されたというわけです。
しかし主はあわれみ深いお方です。私たちの希望は失われていませんでした。主イエス様が帰ってきてくださる日に何が起こるでしょうか。黙示録には主の日の幻が書いてあります。《また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」…すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。…もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。(黙21:1-4, 27, 22:3-4)》主が建てる都に、私たちは住むことになります。
たとえ神の民であっても、祝福の町を自分の手で建てることはできません。奇しくもクリスチャンの首相がこの国をリードしています。国政選挙も近くなっています。クリスチャンの政治家は良い町を建てることができるでしょうか。いいえ。聖書はそう教えていません。クリスチャン政治家がいるのは良いことです。彼らは「人の手は良い町を建てることができない」と伝えることができます。町は主が建てて与えてくださるのです。《【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい(詩127:1)》のです。
主が町を建ててくださる。それは確かな現実の約束です。主が建ててくださる新しい都は終わりの日に必ずやってきます。人が建てた町で住む私たちは、人間関係に悪影響を与える土台の上で生活しています。私と相手だけの問題でない事柄に苦しめられます。しかし希望があるのです。新しい都は、患難のある世で苦しむ私たちの確かな希望です。
お祈りします《【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。》
天の父なる神様。正しい者たちのゆえに町を赦し、町が滅ぼされるときに、正しい者たちの手をつかんで、救い出してくださるお方。私たちの主よ。
私たちは、主を知ろうとしない人々が建てた世界に住んでいます。豊かさは、神の祝福と恵みによって与えられるものですのに、それを知ろうとしない世界です。助けるよりも、貸しをつくって利益を取り、他人を自分の利益のために動かし、人の目につかず、恥をかかない範囲で自己中心に行動することを容認する世界があります。このような世界のありさまから、私たちは影響を受け、苦しんでいます。
のろいを祝福に変えることがおできになる唯一のお方。私たちの主よ。どうかあわれんでください。あなたが怒るのに遅く、あわれみ深いお方です。あなたが建てられた都に住むことを、私たちは待ち望んでいます。待ち望んで、世に寄留しているあいだも、私たちはあなたの民です。私たちが建てたのではない町、神の国に住みたいと願っています。みこころを行うことを教えてください。
主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。
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